「救いがないってのも……一種の救いかな」
苦い、苦過ぎる笑いをアイオロスは浮かべる。
正面にいるカノンに笑いかける。
理解出来ないと言いたげに震えるカノン。
その振動が文字通り直接伝わって来て切なくなる。
やるならもっとスマートにやらないと。
カノンなら出来たはずだから。
それにちょっと浅い。
踏み込みが足りないのは覚悟か、あるいは呪縛か。
「な、に言って」
途切れ途切れに紡ぐ言葉。
何一つ信じられないと言いたげな哀れなカノン。
「よく聞いて。忘れないで、ちゃんと聞いていて?」
「ア、ああぁ」
名前を呼ぼうとしてくれているのかただの叫びなのか。
目を見開くカノンに言い聞かせる。
「カノン、信じてくれ――大丈夫だから」
「だいじょうぶなハズが……」
「カノンは気にしないで良い。……私は、カノンのことが好きだよ」
よろよろと足場が崩れるように後退するカノン。
同時にカノンが持っている凶器とも距離が開く。
ずるりと腹から抜けていく黄金の短剣。
痛みは限度を越えていて、今更どうということはない。
カノンの手が酷く汚れてしまった。
似合わないなと思った。
震える姿は酷く幼い。
「……なんで。なんで!!!」
短剣を投げ捨てて、カノンは膝をついて叫ぶ。
血に汚れた手で頭を抱える。
震えている。解らないものに怯えている。
「私はカノンを傷つけたくない」
「オレは、オレはお前を!」
震え続けるカノン。
自分の血塗れの手を凝視する。
まだ乾ききってもいない。
冗談のような赤。
自分の行ったことに愕然としているように、震えが一瞬止まる。
「大嫌いと言いながら、私の死を悲しんでくれるんだね」
反論しようとしてカノンは自分が泣いていることに気が付いたようだ。
涙で血が少し洗われる。
良かった。まだ、泣けるじゃないか。
ならば、本当に自分は平気だ。
アイオロスは卑怯だとも思いながらもカノンに笑い掛ける。
「愛しているよ」
言葉が届かなくとも最後に伝えた。
言いたいと思ったから。
きっと一番、今のカノンに必要な言葉。
「どーして……」
「愛に理由なんてないさ」
無防備なカノンに悪いと思いながらも首筋に手刀を叩きこむ。
攻撃ではない。
気絶させるためだ。
これからアイオロスのすることをカノンはきっと止めようとするから。
傷は致命に至るまで今暫くかかるだろう。
すぐに治療すれば間に合うかもしれない。
それでは、世界の方が手遅れだ。
射手座の黄金聖衣を呼び寄せる。
片手には赤ん坊。もちろん女神だ。
時間軸としては統計的に誤差の範囲内。
まだ、世界はちゃんと廻る。
カノンがスニオン岬に幽閉される一番遅い世界であり、
逆賊アイオロスにより射手座の黄金聖衣を奪い逃走が行われるのが早い世界。
それがここ。
多少のズレは誤差として処理され修正される。
女神と城戸は運命が決められているのか、アイオロスが女神をつれて逃げれば必ず城戸光政に預けることになる。
シオンはまだ生きているがサガそう遅くない内に殺すだろう。
あるいは今、殺していたのかもしれない。
そして、カノンもやはり他の世界と同じように海界へ降るのだろう。
だとしても、ちゃんと伝えられた。
結末は見れないけれど、きっと大丈夫だと信じよう。
シュラには悪いが、射手座に助けてもらう。
射手座の黄金聖衣を纏い、赤ん坊の女神を片手に雑兵達の間を走り抜ける。
早く生まれてくれて良かった。
あたたかい温もりに泣きそうになる。
失われいく血液に心は疲弊する。
暗くなっていく視界。
必要なことを前もって手紙にしておいて良かった。
備えあれば憂いなしって本当だ。
城戸光政の姿が見えた。
よく命が持ったものだ。
射手座に離れるように促す。
吹き出る血液。
押さえる間もない。
「どうかこの子が成長するまで……」
以前と違って言葉はそこで途切れた。
光政が女神を抱き上げたことは感触として理解できた。
もう、その後を確認することはできない。
冥界にアイオロスの魂が行くことはない。
また繰り返すだけ。
ただ繰り返すだけ。
よりよい次を目指して。
誰かが諦めない限り。