暗い。寒い。
遠くなる意識。
やけに長く感じる。
彼の声に引き止められているからだろうか。
――こんなつもりじゃなかったこんなつもりじゃこんなこんなこんな……つもりじゃ……
傍らで泣いている。悔いている。
震えている。抱きしめてあげたい。大丈夫だと微笑みたい。
間違っていない。けして、間違っていなかった。
繰り返される現実の否定。
繰り返さざるえない事実の肯定。
悲しいまでにアイオロスの肉体は冷たくなっていく。
あぁ、カノンが泣き続けている。
仕掛けられた罠は痛みを紡ぐ。
傷つけるための仕掛けなのだから当たり前だ。
「カノン、お願いだから泣かないで」と誰かの声が聞こえる。
心を蕩かすほどに優しい毒。
その言葉は今の自分の心情だけれども、あまりにも悲しい。
痛くて痛くて、こうなった原因はその誰かだけれども、カノンにその言葉をかけてくれたことに感謝した。
首を振ったのだろうか温かな雫を頬に感じた。まだ、生きていた。
それこそが、カノンの絶望を深めたとしても傷は致命的ではあるものの即死には至らない。
震え続けるカノンを押さえ込むような空気を感じる。
抱きしめられているのだろうか。
きっとカノンには怪物の口の中にいる感覚なのだろうと想像する。悲しくなる。
誰にだろうか。誰もにだろう。世界は悲しい。
誰も責めることは出来ない。
誰も責められるべきではない。自分以外は。
これは、なるべくしてなってしまった結末。
間違えた選択の果ては何処にだって転がっている証拠。
もし、あの時と、反省を活かせるのは自分だけ。
だからこその、謝罪と懺悔。罰はないからこそ自らを戒める。
幸せにしたかった。気持ちに間違いはない。
幸せになれると思った。上手くいったと思った。それが浅はかだっただけ。
今日、二人でここから出る。
閉ざされた檻からの逃亡。
いや、勝てないルールの打破にルールの外へと出ようと思った。
この考え、読みだけは良かったのだろう。
名案だと思った。今だって思っている。待ち合わせ場所でドキドキしながら逸る気持ちは抑えられない。
抑える必要もきっとありはしない。
二人で生きることは大変だ。
庇護も保護も何も無い。
力のない無力な自分達。
けれど、お膳立ては既に済んだ。
生活の心配は必要ない。
あとは無事に二人でここから、聖域から出るだけ。
飛び立つ心とアイオロスと居ることをカノンが選びさえすれば新しい世界だ。
まだそこには何もない。何も知らない世界。訪れたことのない世界。触れたことのない場所。
二人で望んだ場所。きっと幸せに近い場所。
月が昇る頃、それが約束の時刻。
曖昧だけれどもいつものこと。それで充分。
神に背く訳ではない。彼女のことは今でも愛している。全力で守るつもりがある。
けれど、一時はほんの数年は見逃して欲しい。
降臨したのならばすぐに二人で駆けつける気構え。なので、今は離れることを許して欲しい。
どう育ったところで「裏切り者」と女神は責めはしないだろうと確信しているからこその罪悪感。
もう決めた事実は変えない。今日、二人であなたの下を発ちます。聖戦には微量ながらも力添えをしたいです。
「ロス!」
息を弾ませてカノンが駆けてくる。
カノンは選んでくれた。
世界を捨てて自分と来ることを。
ささやかに私物を詰めたカバンを持ち、二人で手を繋いで聖域を去る。
ここに居てはいつまで経っても幸せになれない。
傲慢な考えだが、変化を起こしたかったのだ。
「一緒に行こう」
手を差し伸べてくれるカノン。
本来逆なのかもしれないがアイオロスは救われた気持ちでその手を握る。
逃避行が始まる。
「幸せになろう。色々辛いけど」
「だいじょうぶだ。ロスがずっと一緒なんだから」
微笑むカノン。照れたのか僅かに赤く染まる頬。
月と星に照らされた横顔はとても美しかった。とても可愛かった。
だから、口にしたことのない言葉を口にした。
「好きだよ」
「――オレも……アイオロスが一番好きだ」
カノンが身体全体でこちらを見て言った。
まっすぐに見て言った。
嬉しくてカノンの手を離して抱きしめた。
初めて聞いた言葉だった。
喜びに泣きかけた言葉だった。
いや、実際泣いたのかもしれない。
それは、あまりに些細なこと。この局面において小さすぎる事象。
「え」
自分の声が遠かった。
抱きしめたカノンがカバンから何かを出していたけれど、それは気に留めなかった。
どうにかなるなんて思いもしなかった。
油断と言えることかもしれない。
カバンから何を出したかなんて今更どうでもいい。明白なのだから。
問題は既にその後の事態。頭がパンクしそうだからだ。
何を考えればいいのかわからない。何を信じればいい。起こったことを否定したところで何も変わりはしない。
だとしても、認めがたい現実は容赦がなく襲い掛かり続ける。
混乱を覚まさせたのは鋭い痛覚。確かな現実を教えられる。
ズルリと何かが背中の下辺りからこぼれようとするのを感じる。
大切なものなので慌ててカノンから手を離し自分の背中にわき腹に触れる。
正確に半円を描くような芸術的と賞賛したくなるほどの刃の軌跡。
刃渡りがもっとあれば胴体は背骨だけで繋がることになっただろう。
背中が、腹が、燃えるように熱い。同時に急速に冷えていく身体に震えを隠せない。
膝が笑っている。
目の前にはカノンが居るので、もたれ掛からないように後ろに倒れる。
受身も何も取れないまでも頭は打ち付けないように無意識に身体は反応していた。
ズチャと何かが潰れ破れる嫌な水音がした。
「な、んで……」
揺らめく視界の中でカノンが驚愕と絶望に飲まれたのが見えた。
自分の手を見下ろして、手の中にある短剣の謎に思考はついていけないのだろう。
自分の状況を理解し切れていないカノンを見て、逆に全てを悟ることが出来た。
失いかけた視界の隅にカノンに似た影を見たからかもしれない。
「こんなつもりじゃなかったこんなこんなこんなこんなつもりじゃなかった、なかった、なかったぁ」
視界はもう失われているというのに聴覚が捉えた情報は幻聴のように反響しながら心に届く。
まだ、死んではいない。ただそれだけ。
カノンは間違っていない。それを言うだけの力もない。
死んでいないだけで生きてない。
気づけなかった自分が浅はか。
何もなく幸せになんてなれるわけがない。
努力を怠って良いわけがない。
足りなかったんだ。理解が、力、係わりが、絆が。
「こんな……こんなことになるなんて……行くなんて、行くなんて、」
その後の言葉は言えない。カノンには言えない。
全てを否定する言葉は吐けない。
目の前の現状だって否定も肯定もできはしない。
「言わなければ、思わなければ良かった……な?」
引き継がれる言葉。カノンは震える。震え続ける。怯える。
落ちていく心を引き止められない。
間違っていない。その心は間違ってない。
崩れ落ちるようにカノンが座り込む。
もう、立っている気力もないのだろう。誰かが笑っている気がした。
胸が痛くなる慟哭と喘ぎ混じりに終わらない謝罪。
カノンには謝ることしか出来ないのだろう。
これから死ぬアイオロスを無かったことには出来ない。殺した事実は変わらない。
囁く声。優しく頭を撫でながらカノンに語りかける声。
愛しみながら一人この中で血に染まらず「大丈夫だよ」と言い続けた。
いずれは消える傷だから、自分が傍に居るのだからと心の隙間に囁き続ける。
どんどん遠くなっていく声。
失血により死ぬより先に気絶しても良さそうなものなのに、間近な死を気力で遠ざける。
何の反応も出来ない肉塊でも、出来ることがあるのだろうか。
遠いカノンの嘆き。世界が終わってしまう。
考えよう。考えるしか出来ないのだから。
どうしてこうなったのか。
カノンが想いを返してくれたからだろうか。
自分が世界を蔑ろにしたからだろうか。
間違った選択ばかりをしたからだろうか。
きっと、全て正しく間違ったのだ。
触れてはならない地雷を踏んだ。
誰が?二人ともが?
言ってはならない言葉。思ってはならない事柄。
堕ちていくカノンを止められない。
誰よりもカノンを知っていて、その時までは誰よりも大切にするのだろうから。
片時も離さないと誓い合っていた二人に割り込んでしまったのだから、怒りを買うのは当然だ。
まるで許したように笑ったところで本心かは疑っているべきだったのだ。
良かったと一緒に喜んでくれた全てが偽りだと。
がんばれと元気付けてくれていたのが自分の優位を確信していたからだと。
心を引き締めていなければならなかった。
ならば、今度は上手くいく。いかせてみせる。
意識は溶けるように消えた。
もうカノンの声は聞こえない。