双児宮。
紅茶の香りは不釣合いに優雅。
冷え切った心とは別に上がる湯気は温かい。
並べられたクッキーやスコーンに手をつけずアイオロスはただ悔やんでいた。
深く深い溜め息の後にアイオロスは口を開く。
絶望に染まりきったアイオロスとは違い、サガの目は光輝いている。
「聞いていいかい?」
「あぁ、言ってみろ」
「私は何が悪かったかな?……いや、言われずとも分かってはいるんだ」
「ふむ。罪悪を理解しているのならば、もう責めはすまい。そういう約束だ。
悪かった……な、運が悪かったのだろうな。アイオロス」
サガは薄っすらと慈悲にあふれた微笑みを浮かべる。
その笑みにアイオロスは何も感じない。感じることが出来ない。
「魅力的なのは認めるが、カノンに誑かされるからいけない。アレは毒が強すぎる」
お茶の追加を注ぎながらサガは何でもないことのように言う。
つい先日、カノンの名を出すことすらアイオロスの前では嫌ったというのに。
それほどに安堵し、余裕が出来たということだろうか。
「アイオロス。お前ではけして扱い切れない。そういうことだ」
上位にいる者が掛ける下位の者への哀れみ。
屈辱はない。
あるのは、悲しみだろうか。
いっそ、サガのこの在り様の方が哀れなのだから。
「カノンはお前の物にはならないし、お前と共にいるはずがない。私の双子の弟だ」
サガは紅茶にミルクを入れた。
それを混ぜながら言う。
「混ざりあった紅茶とミルクは引き剥がすことは叶わないだろう?そういうことだ」
間に入るなと、元より無理なことをしようとしたアイオロスを笑うのだろう。
自然の摂理を理解できぬ愚か者と。
「サガ」
「どうした?茶が気に入らぬのか?」
アイオロスは首を振る。
瞳からは生気が抜けている。
未だに立ち上がる力が持てない。
あまりにも酷くて。
「本当にこの選択で正しいと思っている?」
「これ以外の未来など存在しない」
ピシリと絶対的な断言。
欠片の反論も許さぬ口調。
微笑む口元とは対照的に目は冷然としている。
「こんなことで、こんな世界で満たされる?正しいと胸を張れる?」
「当たり前だ」
躊躇なくサガは笑う。
手はわずかに震えていた。
カップの中身の波紋でわかる。
納得などしていない。サガは自分で思う程、嘘吐きにはなれない。
その点カノンは一級だった。
サガが何も言わなければ、アイオロスは歩むこと全てを投げ出したかも知れない。
根こそぎ価値観をひっくり返され、疑心暗鬼の固まりに落ちただろう。
カノンの言葉を何も信じられなくなっただろう。
『アイオリアをお前の代用品にしただけだ。いつもされている側だからな、たまにはいいだろう?』
薄く挑むように笑うカノンを覚えている。
ぐったりとした幼い弟に反射的な怒りを抑えられなかった。
どうしてか、理解できなかったから。
自分が嫌われていたのならば、仕方がない。そう諦められる。
けれど、アイオリアは関係がない。
あの時の自分の言葉がどれほどカノンを傷つけたか。
欠片も見せなかったその痛みをアイオロスは受け止め切れない。
裏切りには意味がある。
別れにもまた。
『これで気が済んだら、オレのことを忘れて一切関わるな』
その言葉の重みを受け止められない。
どれほどの優しさが込められていたのか。
居なくなってからしか解らないなんて。
カノンの愛はあまりに悲しい。
無私ではない。
むしろ、自我は強い。苛烈な程に。
けれど、世界はそれを許さない。
巡り巡って、こうなってしまう。
「アイオロス。私達はいい友人になれる。お前ならば教皇になってもいいと私は思う。
その時は喜んで補佐をしよう」
満たされたサガは優しく微笑む。
真実、アイオロスを労わっている。
慈愛のこもった眼差しはアイオロスには痛いだけだ。
「サガ、カノンのことを好きだと言える?」
「当たり前だ。愛している。だから、私達は仲良くやっていける。同じものを愛しめるのだから」
柔らかな表情にアイオロスの胸は締め付けられる。
苦しくて仕方がない。
挫けてしまいそうだ。
「はぁ、全く。そんなにカノンに触れられないことが会えないことが苦痛か?
射手座の黄金聖闘士がそんなことでどうする。教皇が嘆かれるぞ」
溜め息をついたサガは席を立ち、アイオロスを手招く。
隠し扉へと歩いて行く。
今まで幾度も暗い物を見続けた部屋。
どの世界でも位置が微妙に違い家具や装飾の種類が変わっていても、良いことなどあの場所にはない。
サガが黄金の短剣を持ち出した時と同じぐらいにあの部屋に行くことは終わっている。
「友人を元気づけてやろうという、ちょっとした優しさだ」
サガは軽く笑う。楽しそうに。自分のお気に入りを自慢するような心境なのだろう。
助けてくれと誰にも言えない。
カノンのことを思えば、サガに着いて行く歩みを止めることが出来ない。
自分は何処までも、惰弱。
「触れることは許さない。一目だけ見せてやろう」
笑みも柔らかさもないサガの言葉。
ガランとした部屋。
奈落の底を思わせる。
一切の物はない。灰色の空間。
照明はサガが灯した古いランプのみ。
置かれたものは重苦しい棺だけ。
何処から取り寄せたのか、どう運び込んだのか扉の大きさには合わぬ巨大な棺。
わかっている。これに何が入って居るのかは。
昨夜サガが狂気に取り付かれるままに語ったのだから。
確認したくはない。
同時に、自分の目で見なければ納得が出来ない。
厳重に幾重も掛かった錠が外される。
重苦しい音を立て開いた棺の中には眠っているカノン。
肌は健康的でやつれを感じさせない。
髪は多少色が抜けて仕舞っていたが、カノンらしさを損なってはいない。
唇の紅はわざとらしく浮いていたが、許容範囲だろう。
薄い古代ギリシャの神のそのままの衣装を纏うカノン。
サガが作らせたのだろう。
どんなワガママも聞かせることが出来る。
このサガはそういう位置にいる。
これを見抜けるか否かが全ての分かれ目なのだ。
「……カノン」
呟くアイオロスに満足気にサガは微笑む。
極上の宝石を見せびらかす心地だろうか。
「けして失われない永遠の形だ」
アイオロスは反射的に伸ばしかけた手を止める。
サガの言葉を思い出したからではない。
触れる資格がないからだ。
こうなったのは自分の責任だ。
カノンが始めの頃アイオロスを助けようとした構図と同じ。
もっと分かり辛く、優しい悲しい世界。
残された者が出来ることは悼むことだけ。
いつだって何かを守るためには犠牲が必要だった。
自分たちは女神を守らねばならないのに、辿り着けない。
遠くて声も想いも届かない。
残酷に彩る世界。
例えばそれはカノンの死体だったり。
サガや自らの死だったり。
直視したくはない、聖域自体の歪み。
モノクロへ色を落として行く。
悲しみに染まって行く。
絶望の道のり。
「分かったことがある」
「なんだ?」
「カノンは全てを請け負うんだね……抱えて行こうとするんだ」
それは自己満足な大きなお世話と世界が思ったのなら、こんなことにはならなかった。
カノンは押し付けられるように自らの役目を全うする。
義務を消化する。
だから、いつも諦めたような顔で「仕方ない」と口にするのか。
カノンの諦観を理解し切ることなど出来ない。
それはあまりにも深すぎる。
アイオロスはまだ繰り返すこの中で少々触れたに過ぎない。
「――いつでも、何処かへ行こうとするんだ。だから、私は」
サガの呟きは遠い。
この世界のことだけを言っているのではないようにアイオロスには感じた。
無意識の意識。超自我。上位の精神体に変貌する総合意識。個人の雛型。
自分の知らない自分が確かに誰にでもある。
それは、例えば繰り返し続ける世界の中の在る一人の自分なのかも知れない。
アイオロスは連続で世界を体感しているが、記憶もなく毎回まっさらになる他の人間はどうなのだろうか。
前世の記憶のように唐突なデジャビュのように欠片ぐらい別の世界の自分を持ち合わせているのではないのか。
壊れないと信じ込んでいる前提が崩れた時を想像して、もし違う世界では違った関係になっていたのならと。
楽しい空想ではなくアイオロスにとってそれはありえる未来。
どのように世界を進めれば到達できるのかとアイオロスだけは真摯に考えなければならない。
「サガは、傍にカノンが居ないと悲しい?落ち着かないとかじゃなくて、悲しい?」
アイオロスは訊ねる。
馬鹿げている。狂気の沙汰の質問。
狂人に正答な受け答えは望めない。
けれど、信じたくもあった。サガが見誤っていないことを。
「悲しい……そうだな、悲しいな。あってはならないと思う――同時に」
飲みこんだ言葉は言われずとも解る。
だから、サガはアイオロスを友と呼ぶ。
避けられないと本能的に知っている。
アイオロスは経験で知ってしまった。
サガはずっと悲しい。
こんな風にカノンを手に入れたところで満たされない事を知っている。
見ない振りをしているだけ。
手に入らないことを理解している。
引き止める方法が見当たらないから容易い狂気に身を浸す。
アイオロスはサガの嘆きの理由を知っている気がする。
『始まりもワケもクラインの壺だとしても、存在します』
女神の言葉。
何処でどう聞いたのかも思い出せない、けれど確かな言葉。
アイオロスが成すべきこと。
『誰もが幸せになりたいと願うのなら』
女神はそんな世界も確かに存在するのだと言った。
最善を。最高を。
嘆きのない世界。
戦乙女が慈愛に満ちた眼差しで望む世界。
何処かに置き忘れ取りこぼした欠片を集めて行く。
ガラスのジグソーパズルをする。
散らばったピースは探すのも大変だが、はめるのも一苦労。
「私は、私達は弱いな。絶望している暇はない」
カノンは汚濁を引き受けて消える。
一種、浄化作用を発揮する。
例えば、サガの憑物をカノンは残らず剥ぎ落とすことが出来る。
聖域の澱を零にする。
それが課せられた役割だとでも言うように。
サガは驚きも否定もせず無表情のままにカノンを抱きしめる。
ない温度を感じるように。
「サガ、私は人形に興味は持ていないみたいだ。
ソレは確かにカノンかも知れないけれど、どうでもいい。私はサガよりも欲張りみたいだ」
出口へと向かう。
振り向かないまま告げる。
サガは怒りもしない。
アイオロスの言葉も心情も理解が出来るからだろう。
今のサガは酷く透明な存在だ。
いらない反発に取り繕うことはしない。
素のサガ。
「永遠の形はそんな造形だけのものじゃない。カノンが残してくれた思い出は色褪せない永遠のものだ。
それを抱いて行こうと思う。……私は聖域を出るよ。教皇はサガがやるといい。
きっと上手く行く。保証するよ。サガはカノンがいれば平気だ」
投げ捨てるような言葉に「カノンが嫌い?」と声を掛けられる。
「サガ、私はカノンの造形を愛している訳ではないんだ。ソレで良いと言うならサガで十分だ。そういうこと」
アイオロスは振り向き告げる。
酷い言葉を吐き捨てるものだと内心嫌気が差しながら。
防腐処理された死体をカノンと愛することは次を望めるアイオロスには出来ない。
目指して歩いて行かなければならない。
サガはここでこのまま生きなければならないけれど。
「それじゃあ、またね」
「もう、会うこともないだろう?」
サガの最もな皮肉に「どうだろうね」とアイオロスは笑う。
誰にも通じない冗談。
「サガより、とは言えないけれど。……私もカノンが好きだよ」
アイオロスは捨て台詞のようにそう残した。
命を断つことに躊躇はまだある。
とはいえ、微々たるものだ。
今度こそ望む世界であるように。
微かな祈りが届けばいい。我らが女神に。
「私以外にそういう風に思う者が居るのなら、カノンは幸せ者だ」
扉が閉じ切る前にサガはそう言った。
だったら良いなとアイオロスは目を閉じる。
次はこんなことにはならないと強く強く決意する。