「どうして、こんな道を進まねばならない!」
サガの嘆きにアイオロスは頭が痛くなる。
自分の方こそそれを世界に問いたい。
どうして世界はこんなに残酷な有様を見せる。
「駄目だったんだ」
「なんだそれは!……そんなことで、そんな言葉で済むか!」
サガがテーブルの食器を床に散乱させる。
甲高い音でカノンの愛用のカップが砕けた。
アイオロスは頭を抱える。
堪えきれるものではなかった。
「何度も何度も、気が遠くなる程に試したんだ!どうして!?こっちが聞きたい!」
傍から聞けば狂人の嘆き。けれどサガは聞き流す。
どうでもよかったのかニュアンスの違いだとでも思ったのか。
「カノンが何をしたと言うんだ!」
サガの嘆きにアイオロスの心は挫けそうになる。
その通り。カノンは何もしていない。
たとえば今までカノン自身が罪だと思うことすら瑣末だとアイオロスは思える。
これまでのカノンを見ていれば。
生きていれば罪を犯さぬものはいないだろう。
身に合わぬ罰。
誰も守りはしないからか。
女神の居ない世界の代償?
自分が挫けては全てが終わる。
アイオロスは荒くなる息を抑える。
激怒すべきは世界にではない。運命ではない。自らでもない。
「どうすれば良かった?何が正しい?……私はカノンのためなら、なんだってする」
サガの言葉は途方もなく真実だった。
何処までも誠実だった。
けれど、それでもカノンは命を落とした。
何を見落とした。
今までと何処がこの世界は違っていたというのか。
「カノンが生きるために何が足りなかったって言うんだ……」
解らない。考えても答えは出ない。
愛もあった。思いやりもあった。サガも居た。
世界は優しかったではないか。
カノンにこれ以上ない程に優しかったはずだ。
陵辱されることも貶められることも閉ざされることも心をすり潰されることもなかった。
拷問されることも甘い言葉で心を腐らせることも大切なものを引き千切られることもなかった。
不当な扱いを受けすぎることも気遣い過ぎることも悲しみにくれることもなかった。
世界の呪いを受けることも供物にされることも個人を捨てることもなかった。
だというのに!
細切れの肉片。打ち捨てられたようなソレ。
ソレがカノンだと言う。
啄ばむカラスをサガが殺したこともアイオロスは何も言えない。
かき集めて双児宮で埋葬を手配するも嘆きは止まらない。止まれない。
カノンを襲ったものを不幸と呼んでいいものか。
違うのではないだろうか。
何か間違っている。
何処か忘れている。
「カノンはこのサガと同じ星の加護にいるというのに……」
テーブルを破壊しかねないサガの怨嗟の声。
悲しみは憎しみへと容易く変容する。
「同じ、星の加護……?」
アイオロスはサガの言葉にハッとした。
一番気に掛けていなければならず、毎回うっかりすると蔑ろにしてしまう神。
以前、海皇は一言確かに言った。
自分の傍にいる限り「死ぬことはない」と。カノンに対して。
絶対の加護。
壮絶な加護。
「カノン、海が好きだっけ?」
アイオロスの言葉にサガは何を言っているのかと鋭く睨む。
馬鹿馬鹿しいと吐き捨てる。
「何を言っている。私達が海へ行ってもカノンは嫌がってけして浜辺から動かなかったではないか」
ぐにゃりと世界が歪む。
そう言った記憶が確かにあった。
カノンは海水に触れたくもないと毛嫌いした。
どうしてだ。どうしてだった。
教皇がそれは汚いものだと教え込んだから。
入ってはいけないと命令された訳ではない。
生理的嫌悪。後天的に植えつけられた好悪。
アイオロスの知らないカノン。
「だから、か?」
これが、報いか。
神に唾を吐きかける行為だからか。
海皇が怒ったと言うのか。
違う。そうではないはずだ。あの海の神はそんな遠回しなことはしない。
何が起こった。どうしてカノンは死なねばならない。
「海がなんだと言うのだ……カノンは全てに優しく、清く正しく教皇の言いつけを守って生きていた」
何も悪いことなどしていないとサガは言う。
その通りだ。
身近でとくと知っている。
今までのカノンに比べて素直にサガに習って仲良く暮らして居た。
どうしてだ。
いいや、違う。
今までがどうして、カノンはそういう風に生きなかった。
それが、自分を殺すことになるから。
自分を置き去りにした他人のための行動だったから。
この世界のカノンは自主的に不満もなくサガに追随した。
自らのアイデンティティーを放棄した?違う。
カノンはカノンだった。
死んだ目でも諦めた顔も痛ましい表情も耐える悲しみも知りはしなくとも、カノンはカノンだった。
何処にもおかしい所はなかった。
初めて会った時のようなカノン。
おかし過ぎる。
初めてアイオロスが出会ったカノンは細かいことは知りはしないが、
サガと決別の道を辿り海界を牛耳り女神に刃を向けた。
アイオロスとわずかとはいえ会話した中にその兆候はなかった。
では、今回も同じではないのか。
カノンは欠片の弱音も見せず閉じた檻に居たのではないのか。
気がつかなかっただけで、強固の檻に居たのではないか。
今までのようにサガにばかり目を向けていたけれど、思い返せば違和感は常にあった。
『教皇が』『シオンは』『ダメだって言われているんだ』『幸せ以外にこの生活を表せない』
アイオロスは震える。
カノンは。カノンはそういう人間だ。
やろうと思えばサガよりも平気で嘘をつく。
上手く誰かのために嘘をつく。
本当を少し混ぜた嘘。
真実、海が嫌いならば浜辺になんて来なければいい。
心から正しくあるのならば、影でいろと言われていないのだから皆の前に出ればいい。
何よりもサガが大切ならば双児宮で一緒に暮らしていたはずだ。
海の加護?星の加護?それがないから?
違う。そんなものではない。
あるのは人の悪意だ。
それが、カノンの命を奪う。
海皇は自分の傍に居るのならば、けしてそれらを寄せ付けはしないと言ったのだ。
囚われているのに気がつかなかった。
今までのように分かりやすい形ではないから?
愚問だ。
全ては敵だ。
だから、全てを味方にしなければならない。
サガが味方であったのにアイオロスは愚かなままに敵を見抜けずカノンの命は失われた。
「誰がカノンを……殺した」
唸るようにサガは呟く。
地を這うような低音。
答えは簡単だ。
「教皇だ」
アイオロスは答えた。
告げるべきではない答え。
何故なら、結末は見えている。
サガにとってのカノン。それは最高の最後の砦。
「なんだって?」
「あんな風にカノンを殺せるものが、他にいるか?」
薄っすらとは疑心を抱いていたのかサガは目を見開き冷や汗をかきながらも否定はしない。
震える唇、言葉は紡がれない。
手足に目に見えて力が入る。
怒りではない。
燃え上がったものは、全身を掛け巡ったものは、狂喜。
理由なんていらない。
裏づけなど不要。
真実に興味はない。
駆け出すサガを止めはしない。
アイオロスは目を閉じ全てを見届ける覚悟を決めた。
結果は目に見えている。
背中を押した自分の残虐さに吐き気を催すものの、こうする他がなかった。
次にこんなことを起こされぬために情報をサガと違ってアイオロスは必要とする。
動機も方法も全てまるごと潰し尽くすために。
「今日は千客万来か」
脇に転がるサガの死体。
代えの効かない黄金も教皇の前では雑兵も同じか。
サガにとってのカノン。それは最高の最後の砦。
それが壊された時、無残に破壊された時、人はかくも弱くなる。
初めから負け戦。
「双子を一緒に逝かせるとは中々に優しいと言うべきか?アイオロス」
言外に「けしかけたのは、お前だろう」と言われる。
そんなつもりはなかったが、その通りでもあった。
「サガが生きていては教えては下さりますまい」
「何を訊ねる。この教皇に」
「……カノンは海の者ですね」
仮面に隠された素顔を貫くようにアイオロスは見た。
愉快と言うように身体を揺らして教皇は笑う。
あまりにらしくない仕草。
「ほぉ。気付いたのか。完全に消臭したのだがな」
湧きあがる怒りを抑える。
今はその時ではない。
冷静であらねばならない。
カノンの性質は変わらない。
やはり海は切っても切れない。
海皇の愛は無限大なのだろうか。
いつでも変わらず愛している。
「アレも聡く、自分を誤認できなかったのは不幸としか言えない。
双子座の影として良い替え玉になっただろうに」
誤認できなかった、つまりカノンは解っていた?
自分が聖闘士にはなり得ないと。
違う神の下に赴くと。
「人格に手を加えるという程ではない。好きと嫌いを入れ替えただけだ。
私に懐いてきてそれ程、嫌われていたのかと些か衝撃的ではあったが可愛いものだった。手に掛けるのは胸が痛んだ」
自らの手の平を見つめながら教皇は言う。
確かにカノンは無条件に教皇を信用しきり、慕い愛しているようだった。
「サガに対してあまり変わらなかったのは意外ではあったが、双子とはそういうものなのだろうな」
薄く笑う教皇に吐き気がした。
アイオロスは続けて訊ねた。
時間は然程、残されていない。
「どうして殺したのですか」
「アレ以上育たれては真実を見つけてしまう。私の術が解けてしまう」
「それだけで?」
「アイオロス。お前も蛇蝎のごとく嫌われるのだぞ?私が術を掛けた後に出会ったのだから。
お前への感情も逆転する。悲しくはないか?」
「カノンが死ぬよりはいいです」
「お前がそこまでアレに熱心とは知らなかった。悪いことをした。それは詫びる」
「結構です」と一刀両断したかったが軽く頷くにアイオロスはとどめた。
「私への愛しさゆえに解けそうな術を見ない振りをするアレは大変愛らしかった。
好悪で頭が乱れて行く狂気に侵され、苦しんでいるのを助けたとも言えよう」
カノンはきっと千切れそうになる心をへし折りながら、最善として現状維持をしたのだろう。
真実は誰もを傷つけると知らずに理解していたのだ。
「どうしてあんな殺し方を?」
「完全に壊されればサガも諦めがつくであろう?」
「気遣いは無駄になったが」と教皇は脇にある冷たくなったサガを見る。
カノンの惨い死に方はただの老人の気まぐれだった。
そもそも生きていたのが気まぐれなのか。
降臨するはずのない女神。その代弁者の教皇。
世界が歪まぬはずがなし。
「聖域に元より海の者などいらぬ。ただ、戻っただけだ。正しい姿に」
自らの行いを正義と信じる者。
世界を守るべき聖域が幼子の命を精神を軽んじる。
双子はいつでも犠牲者とでも言うのだろうか。
分かりやすい安易な形で世界を危険に教皇は曝す。
「愚かと言わせて頂きます。……神の怒りを受けるがいい」
遠く潮風が流れ込む。
遥かから地鳴り似にた波音が聞こえだす。
変化した空気に教皇は思わず玉座から立ち上がる。
滅亡は目の前だ。
アイオロスは笑う。
知りはしなかったが世界がこういう終わり方をすることは実際はよくあるのだろう。
アイオロスはいつもそれを見届けることなく逝ったが。
突如振り出すスコールのような、止むことはないとアイオロスは予想する雨と大規模な女神の結界すら破壊する津波。
全てを屠る海皇の怒り。
愚かな人間はただ世界を巻き添えに心中しただけだ。
アイオロス自身も愚かな人間の一人ではあったが。