サガがこの段階に来ても、まだ信じられないもののように地に伏せるカノンを見る。
それがどうしてもアイオロスには許せなかった。
悪いのはサガではないのだろう。
カノンの罪を教皇の罪を口にしてもいい。真実なのだから。
何も見ない振りをしたのだから、最期まで見なかったことにして欲しい。
「どうしてだと、思う?」
アイオロスは訊ねる。問いただすといった程には強くはない。だが、黙することは許さない。
サガはカノンから視線を上げる。
アイオロスを見ているようで視線を虚空を彷徨っている。
迷子、そう表現するのが一番正しい姿。
「歪んでいる、狂っている!」
サガは激しく頭を振った。
唐突な豹変。
驚くものの今、自らの心の内で渦巻くものに比べればどうということはない。
「お前は何なんだ!カノンから与えられる全てを当然という顔をして!!
どうして、お前が選ばれる!なんとか言え、アイオロス!!!」
アイオロスを掴み上げ凄い勢いで睨むサガ。
発露した感情は生々しく苛烈。
こういった心情こそが本性か。
「これから酷いことを言う。先に謝る。ごめんねサガ」
欠片の謝罪の意もない平坦な声。
感情のこもらぬ上辺だけの言葉の薄ら寒いこと。
アイオロスの冷たく激しい怒りをサガはこの時点でやっと気が付いたらしく、すぐに抑え込んだものの反射的に怯えた。
「全てそのままサガ、君に返そう」
語調は静かでありながら乱暴にサガの腕を振り払う。
いつの間にか力が抜けていたのか呆気なくサガはアイオロスから離れた。
先程までの激昂が嘘のように目を見開いている。
驚いているその様子がアイオロスの神経を逆撫でる。
もしかして、理解出来ないのか、考えもしていなかったのかと思うと苦々しくて居ても立っても居られない。
「カノンから与えられる全てを当然という顔……理解していないのか、サガ?自分のことだろう」
「黙れ。何の慰めにもならない。カノンは髪の毛一本すらくれなかったじゃないか!!」
憎悪と嫉妬と激しい怒りがサガを叫ばせた。
静かに、涼風とでもいうようにアイオロスはそれを受け止める。
「お前達はカノンを穢した」
「そうだね。サガのためにカノンはそういう道を選んだ」
視線で人を殺しかねないサガの瞳をアイオロスは同じだけの直球さで受ける。
「最初から最後まで一貫してカノンはサガのために動いてた。
自分の全てを差し置いて。兄の望みを叶えることがカノンにとって最優先だった」
「ならば、どうして!」
「カノンの存在自体を邪魔だとサガが感じたから……教皇に采配を委ねたんだ」
「何を言っているんだ?」
怒りよりも焦りが、疑問が勝ったのかサガは動きを止める。
アイオロスは目に付くもの全てを破壊したい衝動に駆られながらも、ただ現実を語る。
「あの方はカノンを生かすことを決めた。けれど、代償行為は必要だ。
心の底でどう思っていようとも、あぁなる他に選択肢なんてない。
カノンの存在を容認させるために同じことをするなんてサガには出来ないだろう?それこそ死んでも」
言外に「だから、先手を打ってカノンは身を捧げた」とアイオロスは言い放つ。
スマートではないかもしれない。けれど、カノンは一番被害の少ない選択をし続けた。
自分以外は欠片も傷つかないように生きた。
「穢れたカノンに指一本だって触れたいとサガは思わないだろう?」
「…………お前達が居なければ!」
「違うだろ。あったことはなかったことには出来ない。私を殺したところで……カノンが抱かれたことは変わらない」
「黙れ!!!お前さえいなければ」
「私を殺したらそれこそ、サガはもう引き返せない。だから、カノンは」
「そんな偽善聞きたくない!!」
「ふざけるな」
低く深くアイオロスは憤る。
耳を塞ごうとする無防備なサガをアイオロスは殴りつける。
小宇宙は込めていない。
だが、呆気なくサガは吹き飛んだ。よろよろと立ち上がるサガにアイオロスは怒鳴りつける。
「カノンの、カノンの言葉が聞こえなかったのか!!そんなこと言わせない!
今際の際でさえ残した言葉はサガのためだったじゃないか。救ったのは私ではなくサガの命だ」
死の淵においてすら、カノンはサガしか見ていなかった。
アイオロスにだけ聞こえるように「ごめん、他が思いつけなかった」と最後の最期に言ってくれた。
それはサガに残した言葉か、自らの死に様か。
本来、カノンは訓練は受けていないらしい。けれど、近頃は頭角を現してサガに迫る勢いだったのだ。
サガの凶行など自らの身を犠牲にせずとも阻止できたはずだ。
こんなこともサガは知らない。
カノンが何一つ伝えなかったから。
サガが何一つ見ようとはしなかったから。
サガにとってはカノンはアイオロスを庇って死んだ。
それしかアイオロスを助ける方法がなかったから。
力がないから自分を捧げるしかない。
その理論は前提は、簡単にひっくり返るというのに。
『サガ……オレならまだ取り返しが付く。ロスは止めておけ』
血溜まりの中、荒い呼吸を抑えてカノンは言った。
カノンはサガよりもサガを理解している。
サガの白さはアイオロスを殺したことを容認出来ない汚濁と判断する。
取り返しの付かない最悪の所業と悔やみ続ける。
その時は最善だと思っても結局、永劫足を引っ張られ続ける。
カノンのためとはいえ自分のために友人という位置づけの人間を屠るのだから。
「煩い、うるさい!!カノンはいつだって私を見てくれなかった!
誰が大切かと尋ねればお前の名が上がる。私をこのサガを見もしない!!」
「サガがそれを望むから……カノンが本心を語ったところで信じもしない奴が勝手なことを言うな!!」
カノンはサガが望んだ答えしか口に出さない。
アイオロスに謝罪する時だけは自分の言葉で抑え切れない本音の吐露だったけれど。
「カノンを大切にしたいと思っている以上にカノンに煩わされるのをごめんだと考えて、
心の隅で離れて行ってくれることを望みながらも、けして自分のそばから消えないで欲しいとサガが思うから!」
握り締められた拳は痛覚はない。けれど、肉が裂ける音は聞こえる。
だらだらと滴る血に嫌気がさす。
こんなことは何にもなりはしない。
「全部、私のためだって?」
「歪んでいるのはサガの方だ。……ずっと隣に居たカノンがそれに気が付かないとでも思ってた?本気で?」
「私に不平不満しか――好きだなんて大切なんて愛しているなんて、一言も」
「言われなかったことで安心していただろう?
……愛していると自分にはサガしか居ないとカノンから聞いたなら、サガは今、生きてなんていられないだろう」
失った者の重さにサガは耐えられない。
カノンは自分の先が短いと予見して、サガがカノンを思って自分を忘れないように依存はしなかった。
支えがないからこそカノンは心が磨耗し死への道を全速で駆け上るように命を消費した。
痛いことも嫌なこともサガを失うことに比べればカノンにとって、大したことではないのだろう。
カノンの死期。サガがカノンを捨てる時。カノンなしでも平気で生きていけるようになった時。
それを着実にカノンは積み上げていった。
サガがカノンを嫌うように。嫌うことに罪悪感が湧かないように。
カノンを嫌うことを当然と思うように。サガを追い詰めているようで追い詰められているのはカノンの方。
死ぬのはカノンだけ。消えるのはカノンだけ。
そういうシナリオをカノンは作る。
自分のいない後を考えてカノンは成功させた。
舞台はちゃんと脚本通りに演じられた。
「そうか、そうだな……どうして生きているのだろうな」
サガがふらふらとアイオロスの横を通り過ぎる。
何の言葉も掛けられない。どう言い繕ったところでアイオロスは許せなかった。
どこかで「いつもいつもサガだけが」と思ってしまったから。
サガには理解出来ないだろうが、アイオロスが何度サガのために死ぬカノンを見たことか。
諦めながら謝りながら、あるいは言葉すら残せず死ぬカノンを見たことか。
その中でどれだけのカノンがその場に居たアイオロスを見てくれたか。
この世界のサガが感じた憤りとは比べ物にならない蓄積。
幾度もカノンが死んでいく。
救えず。救わず。振り払われて。
幾度もサガも死んだ。
救わず。救えず。触れもしなくて。
アイオロスが何も言わなければ、この世界のサガはカノンを忘れて生きただろう。
時々は思い出して懐かしみ感傷に浸るかも知れない。けれど、その程度。
カノンはきっとサガがそれで生きてくれるのならば何も言わない。
悲しむだろうけど許してしまうだろう。
全てを認めて諦めるだろう。
カノンにとって大切なことはサガが生きていくことだったから。
けれど、アイオロスが突き付けた事実によってそれは起こりえない。
ボシャンと大きな水音。
どういう意味かは想像に容易い。
こうなることなんて簡単に予想が付くというのに自分の感情を抑え切れなかった。
カノンを抱き上げる。
目を閉じさせ、血を拭うと綺麗な寝顔に見える。
拳の血がカノンの服を更に赤く染める。
「最低だな……私は」
カノンの頬に一滴、温かなものが落ちる。
アイオロスは自分の顔が歪むのが分かった。
「雨だよ。……雨音が好きだって言っていたね」
アイオロスはそのまま歩き出す。
闇が森を神域に変える。
誰にも立ち居ることは許されない。
けれど、もう中に入ってしまったアイオロス達には関係ない。
潮風は遠い。
木々はあってないように沈黙している。
香りも音も感じられない。
狂う方向感覚も意味がない。
鳥達すら歌うのを止めていて、カノンのために黙祷を捧げているようだ。
「カノンを傷つけない存在になりたかったんだ。……今度は失敗しないようにって」
アイオロスは大樹の根元に腰かける。
カノンの髪は血を吸ってバリバリだったけれど構わず手ぐしで梳く。
音もなく風が通り抜ける。
「馬鹿なことを考えるなって叱れば良かった……今にして思えば」
いつだって引き止められる位置にアイオロスは居た。
サガに全てを曝すことすらもっと早く出来た。
カノンの信頼を裏切ることになっても、カノンの生命を守りたいのならそうすべきだった。
緩やかに死へと向かうカノンを止めることは、歩みを、決意を鈍らせることはカノンにとって酷だと思った。
重荷にはなりたくないと思ってしまった。
カノンに泣いて欲しくないと思った。
自分で決めたことをする限り、カノンは泣かないけれど、平気なはずもなかった。
「どうしてこんなに苦しい世界なんだろうね」
冷たいカノンは何も答えない。
音のない世界を壊すように雨が降り注ぐ。
騒がしくなっていく。音を取り戻した世界。カノンが愛したもの。
「いつだったかのカノンは、雨が嫌いだって言ってたんだ……どうしてか分かった気がする」
アイオロスは笑う。
雨音は激しさを増していく。
煩いぐらいの雨が耳に痛い。
「サガを気にしてそう言ったのかと思ったけれど、そうじゃない。優しいから苦手だったんだ」
カノンの髪を梳く手は止まらない。
アイオロスは目を閉じて反芻する。
「雨は全てに平等に降り注ぐ。そんな平等さが心苦しく遣る瀬無かったんだね」
アイオロスはカノンを抱き、そのまま木の根元に横たえる。
いつか言っていたようにいつか樹と一体になるように。
「またね」とアイオロスは別れを口にする。
定めた目的はカノンの幸せ。
この世界では至れなかった。
カノンが初めから生きる気がなかったから。
いや、優しい賢さで皮肉な愚かさでカノンが予定を組んだから。
自分の死すら織り込み済みの喜劇の脚本。
だが、いくらカノンでもループしているアイオロスの存在はイレギュラーだ。
本来のアイオロスとは違うアイオロス。
舞台は引っ掻き回され脚本は演出家の思考通りには運ばなかった。
カノンはきっとサガがいればアイオロスは平気だと思ったのだろう。
確かに繰り返している身でさえなければ、カノンの心情を汲み取ってサガの幸せを願っただろう。
それはカノンが予想した感情にはなり得ないけれど、表面上は変わらない。
カノンの死を前提にしたストーリー。
そんなものは認められない。カノンは欠けてはならないのだ。それを伝えることもできなかったのは己の愚かさ。
自惚れかもしれないが、アイオロスが説得すればカノンは遠回りの自殺のようなこの仕掛けを行わなかったかもしれない。
踏み留まってくれたかもしれない。
辛い生活でも。生きてくれたかもしれない。
しかし、アイオロスはその世界を選ばなかった。選べなかった。
遠慮から見守ることに徹した。
そして、カノンの死後に舞台を荒らした。最低だ。
感情のままにただサガに八つ当たりをしただけだ。
自分が居なければ、きっとカノンの望んだ世界だった。
その世界をアイオロスは望めない。
綺麗な結末かもしれない。
サガにとってもカノンにとっても。
不満を言うアイオロスは世界の住人ではなく観客なのだ。
横から野次を挟む愚挙。
誰もが舞台に上がった同じ役者と思っているから気付かない温度差。
望む未来が交錯し、誰も望まぬ世界になった。
「どんな風であれ、カノンに生きて欲しかった」
生きて幸せになって欲しい。雨に打たれてアイオロスは思う。
答えるように海から風が吹いた気がした。
雨で冷えた身体はその風に温もりを感じた。