耳を劈く悲鳴。

覚醒する意識に反射的に顔を上げる。
痛みに顔を顰める。
身体を動かすと首が絞まった。
後ろに回された手は縛られているのか見えはしないが拘束されているようだ。
腕を引っ張ると首が絞まる。
そういう縛り方なのか道具なのかは判断出来ない。
目が腫れぼったい。完全に目を開けると痛みで涙が出そうになる。
身体中が手加減なしに殴られ続けた、そんな痛みが全身を走る。思わず呻く。
だが、目の前の光景に自分のことはどうでもよくなった。

薄暗い中。仄かな照明の下。
身体を壁に寄り掛かり、だらりと四肢を投げ出したカノン。
磔にされた蝶のよう。乱れた服。それすら予定調和の芸術品。
瞳は開かれているが何処も見ていない。
「カノン」と掠れた声でアイオロスは呼びかけた。
――どうして、カノンだと思った?
答えは簡単だ。

「起きたか?……随分と遅いな」

誰かが振り返ってそう言った。
浮かべているのは心を蕩かす微笑。
美しい。きっと美しいのだろう。
この世の何より美しいのだろう。
無垢な魂のあり方そのもの。
天使の祝福のようであり、悪魔の媚態だ。
気持ちの悪いヘドロ染みた思考。
濁流は流れきらない。
汚水は溜まり続ける。
受け皿が見当たらない。
決壊したダムは直せない。戻らない。

「カノンの爪、もう2枚しか残ってない」

残念そうに肩をすくめる。
優しくカノンの指先に触れるさまは、王子が姫に口付けするよう。
ピクリとも反応しないカノンに笑顔のままに手の中にある指先を握りこむ。
上がった絶叫は、声とも呼べない乾いたもの。
悲鳴は絞り尽くされた。嗄れた喉は耳触りな音を出すだけ。

「残ってるのは左の小指と薬指」

哀願するように涙を溜めた目でカノンは首を振る。
何も心配ないというように右手で顎を掴んで上向きにする。
左手は依然カノンの手を握っている。
拒絶か歓喜かカノンが何事か発する前に口付ける。
唇同士が触れ合うなんてものではない。
舐るように嬲るように蹂躙するようにただ奪う。
恋人同士の甘いものではない。
肉食動物が捕食しているような一方的なもの。
一瞬カノンと目が合う。
覚悟を決めるように強く目を瞑り拙く応え出す。
力が入らないだろう肉体でなんとか堪える。
一方的ではなくなった交わりはアイオロスの方からよく見えた。
見せ付けているのだろう。
この距離。この角度。
手は出せないが、全てが見える。
カノンが飲み込めなかった唾液が艶かしく首筋に伝って落ちて行く。
くぐもったカノンの息遣いにアイオロスの頭は焼き切れそうになる。
痴態を見せられていることが問題ではない。
もう気がついてしまった。
自分の犯している失敗に。

「ね、……お、ねがい、だか、ら……ロスは」

放れた唇から垂れる唾液も気にもせず、息をつく間もなくカノンは頼みこむ。
ギリギリ発することが出来る喉をアイオロスのために使う。
それが悲しくて仕方がない。
自分の選択のせいでカノンは今こうしてここにいる。
絶え間ない屈辱と拷問の痛みに曝されている。
これでも死ぬならいいと思うのだろうか。
違う。
カノンは生きたいと言って笑った。
あの言葉に心に嘘なんてなかった。
わかっている。
失敗したのは自分だ。
逃げ出すことの出来ない箱庭にカノンを閉じ込めてしまった。
泣くことは許されない。
恨み言すら誰にも言えない。
自分の咎だ。
アイオロスの内心の懺悔をせせら笑うようにカノンの悲鳴が上がる。
だが、すぐに嗚咽を抑えるように唇をかみ締める。
折れたのだろう。本来あるわけがない方向を小指は向いている。
痛くないはずがない。
あれほどの痛みは味わったことがなかっただろう。
鈍い打撲は数あれど、生爪を剥がされ小指を捻じ切るように力任せに引っ張られるなんて。
今だって絶え間なく痛みが続いているはずなのにカノンは声を上げない。
どうしてか。理由は簡単だ。自分がいるから。
アイオロスは苦々しく思う。
何も出来ない。身動きが取れない。ただ、床に転がって見ているしか出来いない己。
無様。力で世界が変わるのならばいくらでも悪魔に魂を売って力を得ただろう。
この問題はそんなことじゃない。
そんなことでは変わらない。
自分の愚かしさは自分で責任を持たなければならない。
居もしない悪魔に頼んでは解決できない。

「死が二人を別つまで……誓いを立てるなら、全部許して上げる」

嘘だと思った。
カノンも多分そう思ったのだろう。
それは顔に出ていた。
誰かは片手でカノンの首を絞める。
違う。きっと本人は掴んでいるだけのつもりだ。
カノンの首はあまりに細く弱々しい。
死ねないのは呪いだとそう言っていた。
それは、間違っていたのだろう。
アイオロスは感じた。嬲られているのだと。
嬲り殺されていたのだ。今の今まで。ずっとずっと。
ほとんど残っていないだろう体力で頷くカノンを誰かは投げ飛ばす。
カノンの答えを偽りと思ったからか。
なんとなくなのかはもう判断が付かない。思考が読めない。
受身も取れないカノンはまともに床に身体を打ちつけられる。
嫌な音がした。
嗚咽のように微かに漏れる震えたカノンの声。
肩が脱臼したのだろう。
だが、指に力を加えれば指先が痛む。
アイオロスの方へ近寄ってくる誰か。
笑顔で言った。
カノンへかアイオロスへか判断はつかない。
邪気のない微笑み。
きっと誰もが愛してやまない微笑。


「殺すよ」

眩しい笑顔でそう言った。
きっと先程までの光景を見ていなければ信じなかっただろう。
何一つ信じなかっただろう。
この言葉も。カノンが掠れた声で精一杯、制止を叫んでいることも。
声が出なくなっても必死に「やめろ」と頼んでいることも。
激情に顔を歪め「約束が違う」と言ったことも。
何一つあまりにも知っている世界と違うから信じなかっただろう。
いや、信じたくなかっただろう。
眩しい笑顔に騙された振りをしただろう。
こちらを真っ直ぐに見るカノンに胸が痛くなる。
先ほどまで頑なに堪えていただろう涙を惜しげもなくこぼす。
首を振りほとんど壊れた声で誰かを引き止める。
照らされた首は身体は目を背けたくなるほどに生傷を負っていた。
初め見た打撲傷とは違う、悪戯に甚振られたもの。
きっとその程度では悲鳴を上げなかったんだ。
こんなことは平気だと耐えてしまったのだろう。
だから、爪を剥がれたのだ。
痛ましい絶叫が聞きたくて仕方がなかったのか、罰したかったのか、
あるいは泣きついて欲しかったのか、理解はできない。
けれど、こんな世界は望みはしない。
間違ってしまった世界だと言うしかない。
狂った世界だと思う。歪んで悲しい。

カノンの言葉に破顔で誰かは答える。
ゆっくりと近づいて、勿体ぶっていたがそれも終わり。
相手はもうそろそろ目の前。
カノンの目の前で散々痛めつけて殺すつもりだろう。
きっと笑顔でやるのだろう。

幸い、体の自由は完全に奪われたわけではない。
目は見える。尖った拷問器具のような形状の物体。
何に使うのかはまるで解らない。今は鋭利な凶器に他ならない。
口は動く。身体も後のことを考えないのならば問題なく動ける。
ならば、これ以上望むことはない。

躊躇はなかった。

舌を思いっきり噛み切った。
驚く誰かを尻目に尖ったその先端目指して首を打ちつける。
動くことによって首が絞まることは問題じゃない。
痛みから絶叫にのた打ち回りたかったが、首が刺さっているのでそれもできない。
水道の蛇口から水が流れるように冗談じみた水音を聞く。身体はどんどん寒くなっていく。
手刀でも繰り出そうとしたのか、構えていた誰かは呆気なさに鼻で笑ったようだ。
そんなことはどうでもいい。
見上げた視線を戻す。
カノンの絶望的な顔があった。
上がった悲鳴に今度こそカノンの喉は潰れてしまっただろう。
何かをされたのだろう歩けない足を引きずり、肩を押さえながら這ってアイオロスに近づくカノン。
もう、いいんだ。頑張らなくていい。
伸ばされる爪のない枝のように痩せた指。
首を振り真実を告げたかった。
死ぬ気で抵抗すればなんとかなったかもしれないこの現実を一人降りる。

これは逃げだと。

カノンをこの現実に残して、自分は一人で逃げるんだと。
苦しませたくないだなんて綺麗事だ。
この世界のカノンはこれからずっと痛いだろうに。
けれども、今の自分が消えたのならまだ浅いこの傷のまま何処までだって行けるだろう。
枷になる気はない。
だけど、目の前の現実をリセットして選び直そうとしている自分は逃げている。
逃げているんだ。
悲しまないで、欲しい。こんな自分のために。

回る視界。暗転。苦しさはもう気にならない。
罵倒と嘲笑、悲痛な嘆きを最後に脳裏に焼き付けて五感は薄れて行く。
死とは斯くも惨めなものか。








目の前にはカノンの顔。
不思議そうにアイオロスを見ている。
見覚えがあるカノンよりも少し幼い。
病的な白い肌ではなく年相応に感じる。
表情も人間性を損失したものではない。
微かな潮の香り。
無表情に死を語るカノンが脳裏に浮かぶ。
胸が引き裂かれるような痛みにアレを夢だと思って逃げる自分を引き止める。
アレは確かに起こった現実。
自分が至らないばかりに起こった現実。
誰にも謝罪出来ない罪。
自分だけが知っている罪。

「アイオロス……?」

不審そうにサガが声を掛ける。
読み掛けだったのだろう本を片手に近寄ってくる。
何も終わっていない。
まだ、何も始まってはいない。
そう思うとアイオロスは限界だった。
カノンに押し倒すように抱きついた。
二人の驚く様子にも構っていられなかった。
ただ、本当に目の前に居るんだということを知りたかった。
カノンを感じたかった。
翳み続けていく視界。
すぐにカノンの肩口を濡らす。
「離れろ」と焦っていたカノンの動きが止まる。
緩く抱きしめられる感覚。
サガの抗議の声。
嗚咽も漏れ出した。
壊れたものがここにはあった。
このあたたかな温もりを守れるなら、どんなことでも出来ると思った。
男は泣くものじゃない。
だから、泣くのはこれっきりだ。
甘えるのはこれが最後だ。

「よくわかんねぇケド……仕方ないなぁ」

笑う気配が嬉しかった。
優しく頭を撫でてくれるカノン。
目を開けるとサガの不満がわずかに滲んだ心配顔がある。

あぁ、守りたい。
多くのことは望まない。
必要なのは目的意識。
あんな世界はもう二度と味わいたくない。
誰も欠けない世界が無理でも、二人を欠けさせないで生きることは出来ないだろうか。

願いは単純なものだ。
幸せになって欲しい。幸せにしてあげたい。
この想いだけは、間違いなんかじゃない。

アイオロスはそう信じた。






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