「罠〜景麒編」



 いつものように唐突に主に呼び止められ、景麒は振り返った。
 妙に嬉しそうな陽子に、景麒は眉を顰める。

「景麒、ちょっとこれを上に取り付けてくれ」
 渡された水桶には、水が目一杯入っている。
 訳が分からないが命じられた通りにすると、陽子は水桶に括りつけた紐を回廊を横切る形で取り付ける。

「景麒、ちょっとここまでその回廊を通って来てくれ」
 その回廊……そこを通れば当然、先程主に命じられて取り付けた水桶の水を頭から被る事になる。
「主上、そこを通ると濡れてしまうのですが……」
「だから通れと言っているんだ」

 にこにこと微笑んでいる陽子に、景麒は軽く眉を顰める。

「……もしかしなくても主上は、私に水をかけたい訳ですか?」
 あっさり頷く陽子に、景麒は疲れたように溜め息をつく。
「全く、何をなさるのかと思ったらこんな馬鹿げた事を……お戯れもいい加減になさって下さい。この馬鹿げた仕掛けを作る時間で、一体どれだけの政務が出来たとお思いですか」

 景麒の嫌味に、陽子の顔はみるみる不機嫌そうになる。
「……お前、つまんない奴だな。もういい」

 背を向けてそのままその場を立ち去ろうとする陽子に、さすがに景麒も不味いと感じたのか後を追おうとする。しかし次の瞬間、陽子は急に振り向くと、足を踏み出した瞬間の景麒を軽く押す。

 重力の法則に従い、景麒は仰向けに倒れそうになりつつも何とか持ち直すが、先程主がしかけた紐に足が触れてしまう。
 ざばん、という景気のいい音と共に頭からつま先まで水を滴らせた景麒が最初に目にしたのは、自分を見て大爆笑する主の姿だった。

「水も滴るいい男……いや、いい麒じゃないか、景麒!」
 そう言ってまた大笑いする。
 景麒はもはや溜息をつく気力もない。

「……主上、これでお気が済みましたでしょうか。一度衣を改めてからまた伺いますので」
 力なく立ち去ろうとする景麒だったが、陽子に再び呼び止められる。

「まあ、待て。私がしたかったのはそんな事じゃない。今のはちょっとした前振りだ」
 ちょっとした前振りで私はずぶ濡れになったのですか……いつものように声に出さずに景麒は胸の内で呟く。

 陽子はそんな景麒につかつかと歩み寄ると、濡れて身体中に張り付いた金の鬣をぴったりと両手で後ろに寄せる。

「うん、こうすると顔がはっきり見えるな。鬣を括っても似合うんじゃないのか?」
「まさかその為だけにこんなお戯れをなさったのですか? 鬣だけ濡らせば済む話ではありませんか……」

 いつもの事とはいえ、主の気紛れな遊びに景麒は心底疲れた様な声で答える。気にせず陽子は自分の上着を一枚脱ぐと、景麒に頭から被せる。そして景麒の両頬をぴたりと両手で包み込むと、無邪気に言ってみせた。

「何だ、もしかして怒ったのか? 悪かったって」
 憮然としたままの景麒に微笑んで見せると、陽子はほんの僅か思案する。やがてにこりと笑うと、両手で包んだままの景麒の頬を撫で、自分の方に引き寄せる。

「じゃあこれは、お詫びだ」
 そういうと、景麒の濡れた唇に軽く口付けた。

「景麒って可愛いな」
 陽子はからかうように言うと執務室へ颯爽と歩いていった。
 一瞬遅れて景麒はようやく事態を飲み込んだ。
 予測不可能の陽子の行動に景麒は言葉を失ったまま、ずぶ濡れにも関わらず火照った唇を軽く押さえる。

 景麒が陽子の行動を読めるようになる日は、かなり遠そうであった。

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03/03/14

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