※景麒がちょっとお馬鹿さんです。ご注意下さい。



「人口呼吸」


 あれ程回廊を走るのはお止め下さいと常々申し上げていたのに、と景麒はゆっくりと仰向けに倒れ込みながら思う。鈍い衝撃の後、長い金髪がふんわりと音も無く磨き上げられた床に広がった。
 ごく普通の速度で陽子が歩いていれば衝突は避けられたはずだ。
 また宮中を走り回っていらっしゃるとは。
 このままでは主上の御為にならない。景麒は珍しく小言以外の方法を試みる事にした。

 今日の景麒の第一の間違いは、王の行動を改めさせ反省させる為に、しばらく気絶した振りをしようと思ったことである。
 最初の内は確かに成功したかに見えた。
 さすがの陽子も、倒れたまま動かない景麒を見て慌てたらしく、心配そうに覗き込んでいる。
 主上も反省されているようだし、そろそろいいだろう。そう景麒が思った次の瞬間、陽子がぽつりと呟いた。

「人工呼吸とか、した方がいいのかな」

 主上の、人工呼吸……
 その言葉に景麒はすぐさま反応した。
 そして一旦開きかけた瞳も、再びきつく閉ざされる事となった。
 別に呼吸も鼓動も止まってはいないが、陽子にとってそんな些細な事はどうでもいいらしい。
 「陽子の人口呼吸」そのものが重要である景麒にとっても、そんな些細な事はどうでも良かった。
 陽子が顔を近づけて様子を窺っているのが気配で分かり、景麒は早まる鼓動を抑えつつひたすら気絶した振りを続けていた。

 景麒の第二の間違いは、過去の経験を生かさなかった事だ。
 この手の事に関して、景麒の作戦は成功した試しがない。
 しかし、すでに景麒の頭の中では、優しくふんわりと微笑みかける陽子の、髪と同じく紅く艶やかな唇の映像で一杯だった。今日は珍しく紅を差していた事も思い出し、景麒は期待に胸膨らませつつじっと横たわっていた。
 しかし、いつまで経ってもそれ以上近づく気配がない。
 呼気が感じられるほど陽子が間近にいる事は確かなのだが、目を開ける訳にはいかない為、どういう状況なのかさっぱり分からなかった。
 今なお想像の中では、軽く眉根を寄せて心配そうに優しくそっと覗き込んでいる陽子の図が現在進行形で展開されているのだが、こうも間が空くと何やら心配になってくる。

 どうやら景麒の想像の中では、日頃の願望が入り混じっているのか、かなりの脚色が加えられているようだった。

 あれこれ悩みながらもひたすら待ち続けていると、ふいに陽子の柔らかな手が頬に触れた。陽子の長い髪の先端が頬をくすぐると同時に微かに甘い香りが漂い、景麒は軽く身を震わせる。
 実際は一向に動かない景麒の頬を陽子がつんつんと人差し指で突付いて反応を見ているだけなのだが、景麒の頭の中では、優しく撫でられている事になっているらしかった。
 元々気絶などしていないどころか最初からしっかり意識もあるのだが、「これは人命救助であり、主上に対してやましい考えなど決して抱いてはいない」と景麒は内心必死で言い訳をしていた。
 気絶こそしていないものの、違う意味でかなり重症な景麒だった。

 陽子の唇をどきどきしながら待ち侘びていた景麒だったが、呟やかれたとんでもない言葉にぴくりと一瞬身体を動かす。
「そうだ、班渠。人工呼吸ってやった事あるか?」
 班渠が相手では、こうして待っている意味など全くない。
 はっきり言って自分の使令などご免である。
 何の為に気絶した振りをし続けているというのか、と景麒はやや焦りながら思う。
 何の為もなにも、陽子を少々驚かせて王らしくない振る舞いを反省させる為だったはずだが、いつの間にか景麒の中で目的がすりかわってしまったらしい。
 最終目的が「陽子の反省」から「陽子の人工呼吸」へと完全に変更されてしまったようだった。陽子の事となると冷静な判断が出来なくなるらしい麒麟は、今日も元気に暴走していた。
「獣の口では無理でございましょう」
「そういえばそうだな」
「ここはやはり主上でないと」
 よく言った、班渠。よくやってくれた。実に的確な助言だ。折伏した甲斐があった。
 景麒は心の底からそう思い、自らの使令を褒め称えた。
 しかし、陽子の思考は景麒の望みとは裏腹に違う方向へと向かっていた。
「そうだ、確か気道の確保、とかいうのもしなきゃ駄目なんだっけ」
 ようやく主上の人工呼吸が、という景麒の期待も虚しく、陽子は景麒の頭を両手で掴むとあちこち傾けだした。がくがくと揺さぶられしばらく眩暈に耐えていた景麒だったが、突然口に指を押し込まれ、思わず声を上げそうになる。更に舌を指先で掴まれた挙句引っ張られ、景麒は微かにくぐもった呻きを漏らす。
 今この瞬間を乗り越えれば主上の人工呼吸が……!
 その思いが景麒をどうにか支えていた。
 それによく考えれば普通とは大分違うものの、今自分は主上の指に口付けしているともいえる状況だ。雰囲気も何もないが、ただいきなり舌を掴まれているという現在の状況を完全に無視し、細かな事は一切気にしなければこれはこれで幸せなのかもしれない。
 もっと色気のある場面なら……と残念に思いつつ固く瞳を閉ざしていると、再び陽子が呟いた。
「あれ?何か今、指を舐められたような気がするな……」
 その言葉に慌てて景麒はきつく目を閉じ、必死に気絶を装った。意識したせいか、思わず身体が動いてしまったらしい。
 景麒の焦りなど知る由もない陽子は、尚も景麒の頭をぐらぐらと揺すったり気道の確保とやらで強く舌を引っ張り続けて景麒の呼吸を妨げる。
 もう限界だ、早く目を覚ました振りをしよう。主上の人口呼吸は諦めるしかない。そうは思うものの、あまりに不器用な景麒はその機会を完全に逃していた。
「ええと、次は心音を確認してみよう。景麒は麒麟だし別に見ても平気だろうし問題ないし、ちょっと脱がせてみても大丈夫だよな。ただ介抱してるだけだし」

平気ではない。
問題もある。
大丈夫でもない。
王として云々以前に、もっと根本的な、慎みについてお教えしておくべきだった。

 そうこう思い悩んでいる内に、行動派の陽子はさっさと景麒の官服の紐を解きにかかっていた。肌に直接冷たい空気を感じ、景麒の頭は早くも混乱し始める。仕方がない、こうなったら少々不自然だがたった今目を覚ました振りをするしかない。
 しかしそう決めた次の瞬間、何か暖かで柔らかいものが胸に触れるのを感じた。その暖かなものは陽子の頬で、心音の確認というものをやっているらしい、そう思い当たり、途端に景麒の頬が緩んだ。
 ――やはり、もう少し気絶した振りを続けよう。せっかく主上も私を懸命に介抱して下さっているのだし、ご好意を無下にしては申し訳ない。
 横たわる景麒に軽く抱きつくような形で胸に耳を押し当てている陽子の温もりに、景麒はひたすら幸せを噛み締めていた。
 この手の事に関してはとことん運の悪い景麒にしては珍しく、幸運だった。
 だが、陽子に限ってこのまま平穏に事が進むはずがない。心音の確認が終わると、一つ頷きまた何か閃いたらしく突然立ち上がった。
「そうだ、薬湯を作ってあげよう」
 恐ろしいので結構です。とはもちろん言えない。気絶している事になっている景麒はただ嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。

 しばらくして、怪しい香りが辺り一面に充満し始める。
 恐ろしい……景麒は恐怖におののきながらも、やはりどうする事も出来ない。景麒はいっそ本当に気絶したかった。
 おまけに間が悪くというべきなのか、それとも天の助けなのか、陽子とは別の誰かが近づいてくるのを気配で感じ、景麒はただ冷や汗を流しながらその場で置物のように凍り付いていた。

 自国の麒麟が半裸で床に横たわり、そのすぐ脇で何やら楽しそうにしている女王がいる。普通なら情事の真っ最中に遭遇してしまったかと思い慌てるところだろう。
 だが、微かに痙攣している景麒の姿と、辺り一面に充満する強烈な香りに、怪しい呪術の儀式をしている最中にしか見えない。
 異様な光景にさしもの冢宰も一瞬言葉を失うが、すぐにいつもの冷静な表情を取り戻した。
「主上、どうなさいました」
「あのね、景麒がちょっと気絶しちゃったから、介抱してあげてるところなんだ」
 ちょっとでも気絶でも介抱でも無くただ遊んでいただけのようだったが、景麒にはこの状況で目を開ける勇気も度胸も無かった。
「黄医をお呼びしましょうか」
「いや、大丈夫。すぐに良くなるよ」
 景麒としてはぜひとも呼んで欲しい所だったが、その思いも虚しく浩瀚はあっさりと去って行った。
 恐らく、何も言わずとも大体の事情は飲み込んでいるはずだ。にも関わらず止めないのは面白がっているからだろう。他に理由はない。

 再び王と二人きりになり、景麒は今すぐこの場で瞬時に本当に気絶する方法はないか本気で考えていた。
 こんな事なら気絶した振りなどせず、すぐに身を起こしていれば良かったと思うが、後の祭りである。

 陽子はと言えば、楽しそうに怪しい液体を木製の棒で掻き混ぜ続けている。
 あれを飲まされれば本当に気絶するだろうから、それはそれでいいのかもしれないが、やはり――出来る事なら口にしたくない。それに何より、気絶だけでは済まないような気もする。強烈な刺激臭に、景麒は冷や汗を拭う事すら出来ずにいた。
 あれを飲んだら、ただでは済まない。
 主上にどう思われようと、今はとにかく逃げるしかない。
 景麒は心を決めた。

 陽子が後ろを向いた隙に素早く立ち上がりひとまずこの場を逃れる。そう決めすぐさま実行に移したが、長い間じっと身じろぎ一つせずにいた身体はすっかり強張っていて、思うように動かない。
 あっと思った次の瞬間綺麗にひっくり返って後頭部を打ち、今度こそ本当に、望み通り景麒は意識を失った。


 背後で何か重いものが倒れるような音がし、陽子は不思議そうに振り返る。しかしそこには相変わらず気絶したままの景麒がいるだけである。
「今、何か倒れたりしなかったか、班渠」
「いいえ、恐らく風の音でしょう」
 そうかな、と陽子はさらりと流すと再び薬湯を掻き混ぜようとするが、隠し味に入れるはずだったタバスコが残り少ない事に気付いた。延台輔経由で入手したものだが、一瓶丸ごと入れなければ「陽子特製薬湯(タバスコ一瓶入り)」は完成しないのだ。
 仕方がないので薬湯は諦め、当初試みるはずだった人口呼吸へと陽子は切り替える事にした。



 ようやく景麒が目を覚ますとそこは自分の臥室で、すでに日はとっぷりと暮れていた。
 そういえば最後の最後で本当に気絶してしまったのだった、と思い起こしながら起き上がり牀榻脇の鏡へ目を向けると、唇に微かに紅の痕が残っているのが分かった。
 一瞬にして景麒は、自分が本当に気絶している間に起こった事を理解し、がっくりと再び牀榻に突っ伏した。
 あのまま逃げようなどと考えずに大人しく気絶した振りを続けていれば、意識のある間に主上の人口呼吸を受けられたものを……
 景麒は悔しげに端正な顔を歪めながら、先程の幸せな一時を思い起こしていた。
 大幅に脚色が施された景麒の想像の中では、花のように可憐に微笑む陽子が景麒の頭を自分の膝の上にそっと乗せ優しく鬣を撫でている、という実際には無かった場面まで付け加えられていた。

 もう同じ過ちは繰り返さない、次こそは必ず……と景麒は再び違った方向へと決意を固めていた。


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またお馬鹿なお話を書いてしまいました。
気絶しているだけの場合普通人口呼吸はしないとは思いますが、
その辺はギャグなので気にしないで下さいv

もしかして、今まで文字が小さくて見づらかったのでは……
と今更ながら思ったので、ちょっと大きくしてみました。
いきなり全部は直しきれないので、できたら他のもちょっとずつ直します。

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