「抱擁(後編)」



 景麒には、こうした陽子の苛立ち全てが理解できていなかった。もし陽子の心をほんの少しでも覗いて、こうした彼女の皮肉交じりの本音を知ることができたならさぞかし仰天したことだろう。

 青い顔をして景麒は予想される命令を待っていたが、陽子は何も言わず、ただ棒のようにその場に立ち竦んだままじっと彼の足元を見つめている。
 どうしたらいいのか分からず、景麒はもごもごと口の中で申し訳ございませんと謝罪してから、膝を折って俯いたままの陽子を見上げた。
「私の考えていることが分かるか」
 景麒はやや躊躇った後、いいえと答えた。景麒には何も分からなかった。
 陽子は静かに気だるげな微笑みを浮かべ、お前を怒ってはいないよと言ってから、小さく付け足した。
「ただ、景麒が何も言ってくれないのが哀しいだけなんだ」
 主上も私に何も仰っては下さらない、それで哀しいのは私も同じなのです、だから私は寂しく思う。素直にそう言えたならどんなにいいだろうと思いながら再び陽子を見上げると、困惑したような、微笑んでいるような、奇妙な表情で彼を見下ろしていた。
「そんなところは私に似なくてもいいのに」
 どうやら無意識の内に実際に声に出してしまっていたらしいことに景麒は気付いた。そしてふと思った。今を逃したら、臆病な自分は永遠に口を閉ざすほかないだろうと。何度も何度も胸の内で繰り返し、切望していたことを今度こそ、今すぐに乞い願おうと、景麒の渇いた唇が躊躇いがちにゆっくりと動いた。
「触れてもよろしいか」
 大それたことだ、恐れ多いこと、自分は麒麟だがしょせん王の臣下で、王のものであるというのに、だがどうしても、ただ一度だけでも、許しを得たかったのだ。私を愛してほしいとも言いたかった、だがさすがにそこまではできなかった、いつか言える時が来るだろうか。

「お前の望みはそれだけか」
 おずおずと景麒が頷くと、陽子は一瞬拍子抜けしたような顔をしてから、これ以上おかしなことはこの世に存在しないとでも言うようにころころと笑った。
「いいよ、おいで。お前がいないと私も寂しい」
 かなりの間をおいてから、景麒が意を決して恐る恐る手を伸ばすと、陽子の微笑が深くなった。赤ん坊のように滑らかな陽子の頬に指先でそっと触れ、すぐに離す。それからまたかなりの勇気と時間を費やした後、景麒は思い切って陽子の肩をそっと抱いた。
 麒麟としてではなく、今ここに存在している自分自身、神だとか仙だとか人だとか、そんなものは全く関係ない、今生きている自分自身の孤独を、陽子は癒してくれるのだと彼は強く感じる。王が麒麟を救ってくれるのではなく、何の肩書きも大義もない彼女が、ただの彼を癒してくれるのだと。景麒が望むような愛でなくてもよかった、そんなことは今の彼にとって大した問題ではなかった。
 はじめての親密な、ぎこちない抱擁は、なぜだかひどく懐かしい感じがした。

05/01/08

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今回は私にしては純愛のような気がしますが気のせいかもしれないです。
兄貴……! と景麒を呼びた……くはないですね、やっぱり。
むしろ兄貴なのは某陽子主上。

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