「月暈(げつうん)」 景麒がようやくその日に終えるべき政務を片付けた頃には、すでに夜は更け春とはいえ気温もぐっと下がっていた。 露台に出ると何か白く小さなものが夜の闇に溶け込むように舞っていた。その内の一つが頬に当たり、そのひんやりとした感触によくよく目を凝らすと、それは小さな花びらだった。 慶は比較的温暖な気候、開花も早いのだろう。そう思いながら更に闇に目を凝らすと、遠くにぼんやりとした明かりが見えた。方向からして、主上のおられる正寝だろう。まだ起きていらっしゃるのだろうか…… 王気に惹かれるように回廊に出ると、庭院の桜がいつの間にか満開だった。見事に咲き誇る桜を観ている内に、景麒は理由の無い――無いはずの、息苦しさに似た何かを感じ始めていた。 知らず知らずの内に景麒の足は、正寝へと向かっていた。 扉の前まで来たもののどう切り出していいのか全く考えていなかったため躊躇っていると、気配で分かったのか、 「景麒?」 という誰何の声が小さく聞こえた。 「よくお分かりになりましたね」 程なくして開いた扉から顔を覗かせた陽子に、景麒は表情にこそ出さなかったもののほんの僅か驚いて言い、露台から入って来る桜の花びらが気ままに舞う様を眺める。 いつの間にかこちらをじっと見ていた主に、景麒は何故か落ち着かない気持ちになりながらもいつものように気の利かない問いかけをする。 「……何か?」 「私が聞きたいな、それは」 こんな夜更けにわざわざ来たのだから、と言いながら陽子は露台に目を向ける。どこか儚げに見える陽子の姿に戸惑いながらも、主上と桜を、とこの静寂の中で無ければ聞こえないほど小さく囁くような声で答える。 「お前でも花を愛でたりするんだな」 「主上はお嫌いですか」 からかうような主の言葉に、珍しく景麒は溜息でなく言葉で返す。 「いいや、好きだよ」 その対象は花のはずなのに何故だか落ち着かなくなり、景麒は目を伏せた。扉の前から動かない景麒を見遣り、陽子は直接手を取って露台へ促す。 「お前が花見をしようと言ったんだぞ、そこじゃ見えないだろう。その為にわざわざこんな真夜中に来たんだろう?」 「……はい」 露台にもたれかかり、握っていた手をそっと離そうとした陽子の手を、景麒は反射的に握り締めた。 驚いたような顔で見る主に、自分の取った行動に内心驚きながら何か言おうとするが、結局何も言葉に出来ずにそのまま強く手を握る。 不思議そうに陽子は自分より随分と背の高い麒麟を見上げ、 「もしかして、寂しかったのか?」 とからかうように言い、次に来るであろう溜息と嫌味を待つ。 だが返ってきたのは静かな、本人も恐らく自覚していないであろう頼りなげな声と言葉だった。 「……そう、なのかもしれません」 予期していなかった反応にどう返していいのか分からず、陽子は開きかけた口を閉ざす。 黙したまま、握られたままの手を離す事無く室内へ戻り陽子は手近な椅子に腰を下ろす。 見上げると、握り締めた手を急に離す事も何か気の利いた事を言う事も出来ず棒立ちになったまま困り果てている景麒の瞳にぶつかる。 それでも陽子が黙っていると、何を思ったのか景麒はすとんと床に直接両膝をついた。椅子に座ったままの陽子の膝に頬をぴたりと寄せると、握っていた陽子の手に今度は指を絡める。 薄い夜着越しに景麒の温もりを感じ、陽子はゆるゆると目を細めて自分の膝元に擦り寄る景麒を見下ろす。絡められた指を口元に運ぶと、そっと景麒の指先に唇を当てる。唇を離して再び景麒を見遣ると、表情に乏しい景麒にしては珍しく、薄闇にもはっきりと分かるほど嬉しそうに微笑んでいた。つられるように陽子も微笑むと、今度は景麒が陽子の指先に唇を寄せ、ちらりと舐める。ざらついた感触に一瞬驚いたように陽子は身体を強張らせるが、すぐに又表情を和らげると、空いている方の手でゆっくりと何度も丁寧に艶のある金の鬣を撫でてやる。軽く吐息を漏らしてうっとりと瞳を閉じている景麒に、陽子は囁く。 「桜も好きだが、お前の事も好きだよ」 その言葉に景麒は顔を上げて即答する。 「私は主上の方が好きです」 陽子は軽く声を上げて笑った。 不器用な甘え方をする麒麟と、不器用な慈しみ方をする王、私達はとてもよく似ているのだと陽子は思う。 鬣を撫でていた手で額に掛かる景麒の長い前髪を掻き揚げると、座ったまま身を屈めて景麒の額に軽く唇で触れる。苦手な部位であった事をすぐに思い出したが、景麒は嫌がる素振りも見せず静かに微笑んで陽子を見上げていた。 「寂しくなったら、またおいで」 返事の代わりに景麒は、両手で陽子の手をかたく握り締めて唇をきつく押し当てた。 戻る 03/07/18 冒頭が冗漫ですが読み流して下さい…… 04/07/09 NOVEL集2の文字サイズを大きくして見やすくしたりおかしな表現を直したりと只今片っ端から修正中。ようやく半分くらいざっと修正。ランダムにこうして足跡を残している次第です。しかしこれはかなり恥ずかしいです…… |