「陽子の脱走大作戦」



 景麒が不機嫌そうなのはいつもの事だが、今日は陽子も不機嫌だった。何故なら三回連続で下界への視察を阻止されたからである。
恨めしそうな顔で睨む陽子に全く動じず、景麒は涼しい顔でさらさらと筆を走らせている。

 今日はいつもよりはずっと暖かく、絶好の脱走……もとい視察日和だというのに……
 なぜこんな日に部屋に篭ってなきゃならないのだ。
 もちろん政務を優先させるべきなのは分かっている。
 しかしこれでは能率的にも悪い! と陽子は一人ごちる。

「景麒、今日はあったかいな。たまには運動しないと体力落ちて政務に差し支えるんじゃないか?」
 さり気無くどころか、そのものずばり「外に出たい」という意思表示をしてみる。
「神籍に入られてます」
 言葉を惜しんでいるとしか思えない位無駄な事は言わず簡潔に答えてみせる景麒も、大分陽子の扱いに慣れてきたようである。

「ねえ景麒、お茶にしようか?」
「その手にはもう乗りませんよ。この仕事が終わったら頂きましょう」
 以前ほんの数分目を離した隙に下界に降りていった前科のある陽子に、景麒はあっさり言い放つ。

「じゃあ、ちょっと気晴らしに中庭を散歩しようか」
「毎日見ているでしょう。第一その窓から見えます」

「疲れてる時って、甘いものが食べたくならないか?」
「なりません」

「ここが分からないから遠甫に聞きに行きたいんだけど……」
「政務の後にして下さい。必要なら私がお教えします」

「景麒、肩が凝ってて痛いんだけど」
「後で女官を呼びましょう」

「景麒、トイレに行きたいんだけど……」
「我慢して下さい」

 ……なんて奴だ。
 陽子も陽子だが、景麒の対応も中々凄いものがある。
 もうネタ切れになってきたので、仕方なく陽子は御璽を機械的に押し、読めもしない書類をめくり続ける。

 姿勢一つ崩す事無く無言で仕事をこなす景麒を横目に見ながら、再び陽子は懲りずに脱走計画を企て、実行する。

「……ああ、もう、こんな読めもしない書類に判を押す事に何の意味があるんだ? 大体、私の所まで回す前に、もっとスリム化できないのか。政教分離、三権分立を図るべきだ! 立法権・司法権・行政権はそれぞれ独立して機能すべきだ!」
「訳の分からない事を言う暇があったら、御璽の一つでも押して下さい」

 とりあえず何でもいいからまくし立てて煙に巻く作戦を実行したが、やはり景麒は取り付く島もない。
仕方なく陽子は再び書類に向かうが、やはり今日はどうしても気乗りがしない。
 こうなったら少し恥ずかしいが、一番成功率の高いあの手で行くしかない。

「ねぇ、景麒、ちょっと耳かして」
 さっそく実行すべく景麒の金の鬣を引いて唇を近づけた途端、景麒が低く淡々とした声で言う。
「息を吹きかけるのは無しですよ。その手にももう乗りません」
 図星を指され陽子は硬直する。
 今日はもう諦めるしかないかと思ったが、いい事を思いついた。
 そして陽子はいつもの様に、後先考えずに実行した。

「そんな事はしない」
「では何です?」
 景麒は書類をめくる手を休めもしない。

 そんな景麒に陽子は不敵な笑みを浮かべた。

 景麒は突然耳朶に暖かいものが触れるのを感じた。更に何か湿ったものの感触。それが何なのか気付き、景麒は一瞬の後に頬を赤くして硬直する。何か言おうとするが、口を開けるだけで言葉が出てこない。

 陽子はぺろっと出していた舌先を引っ込め、景麒が固まっている隙にさっさと執務室を脱走した。

「本当に、主上は……」
 微かに湿った耳朶に触れ、ようやく硬直が解けた景麒はそう呟いて溜息をついた。

 一方まんまと脱走に成功した陽子だったが、下界で班渠の背から降り立った瞬間ようやく自分のした事に気付き、恥ずかしさのあまり息抜きどころではなくなってしまっていた。

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02/12/12

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