「ELOPEMENT 後編」 景麒にとって果てしなく長い夜が明けた。 陽子はすっきりとした顔だが、景麒の頬はいつにも増して青白い。げっそりやつれた顔をしている景麒に、無理はよくないと女将は人の良さそうな顔で心配してくれたが、複雑である。無理とは一体何なのだろうと景麒は思う。「一睡もせず、身じろぎ一つできず、呼吸すら最小限に抑えて少女の隣で夜明けを待つこと」でないことだけは確かだが。女将の心配する「無理をした」状況になるのは、かなり遠そうだと景麒は思い、そんな自分自身を叱責する。 その日は強行軍で、使令が大いに役立った。十日間という限られた時間の中、複数の州を視察したいという陽子の希望は、どうにか叶えられそうだったが、しかし。 「使令だと時間がかかりすぎると思わないか?」 「……これ以上は無理です」 後に続く言葉は充分予想出来たが、逆らうことも逃げることもできない哀しい麒麟の性がここにある。 「もっと速いものがあるだろう?」 「……私は駄目ですよ。人目があります」 陽子は待ってました、とばかりにはちきれんばかりの愛らしい笑みを浮かべた。嫌な予感がする。そして、嫌な予感というものは大抵外れないものなのだ。 「大丈夫。こんなこともあろうかと、お前の為にこれを用意してやった」 言いながら陽子は、大きな白い布を取り出す。ふわふわとした毛皮のようなもので出来ていて、よく見るとそれは……どうやら羊のようである。 「……まさかとは思いますが一応お聞きします。まさか、それを私に着ろと仰るのでは……ないですよね……?」 もはや恒例行事となりつつある無駄な抵抗を景麒は試みる。 「もちろんそうだ。これ作るのすごく大変だったんだぞ。これを着れば転変しても麒麟だってばれないよ。どうみても羊さんだ。可愛いし、ふわふわだし、景麒もあったかい着ぐるみを着れば風邪引かないし、良いことだらけだよね」 確かに誰も麒麟だとは思わないだろう。想像すらしないだろう。自国の麒麟にこのようなものを着せる王がいるとは誰も思わないだろう。 「で、ですが、一見巨大な羊に見えるものが空を飛んでいたら、民が動揺します」 「大丈夫、この前班渠で試したけど、空を見上げながら歩く人なんて滅多にいないし、見たとしてもあっという間に飛んでっちゃうから、羊だって確認する暇もないよ。それに、班渠よりお前の方が速い。今年は蓬莱では未年だから、それに合わせてみたんだ。懐かしいなあ……」 何故それを報告しなかった、班渠……景麒は呻くが、もう遅い。遅すぎる。それに蓬莱のこととなると、景麒もあまり強くは言えない。麒麟の扱いにすっかり慣れている陽子に逆らうことなど事実上不可能だった。 確認する暇がないのなら、別に着ぐるみを着る必要もないのでは? という疑問は、寝不足で朦朧とした頭には浮かばなかった。 その後も陽子は景麒のさり気無い進言をあっさり流し、同室を取り続けた。その間、もちろん景麒は睡眠どころではない。よく倒れなかったものだと景麒は自分自身に感心した。 「景麒」 「……はい」 しばらく大人しく観察していたので、そろそろ何か無茶な要求をする頃だろう。景麒は諦め混じりで予想する。 「あれに参加しよう」 陽子の指の先を辿ると、一体どこにこれだけの人間が住んでいるのだろうと不思議に思うほどの人だかりがあった。恐る恐る看板を見上げると、そこには、 『慶国初! 大食い選手権。二人一組で制限時間内にどれだけ食べられるか競います!』 と、書かれていた。 幸い景麒は、この危機を上手く切り抜けるための絶好の特性を持っていた。 「主上、私は菜食ですので、無理です」 「大丈夫だ、ほら」 改めて確認すると下の方に、『今回のメニューは取れたて野菜で作った野菜炒め』 と小さく書かれているのが見えた。 景麒は一瞬自らの運の無さを呪うが、再び抵抗を試みる。 「主上、そのような無茶をされてはお身体に障ります」 景麒の必死の声に、陽子は深く目を伏せた。怪訝そうに見る景麒に、陽子は重々しい口調で言った。 「景麒」 「……はい」 「私が来たばかりの頃、慶は本当に貧しかったな」 事実である。景麒は小さく頷いた。 「それが今はどうだ、こんな催しが出来るほどのゆとりが出来た。ここは一つ国を治める者として、ぜひとも民と共に慶の発展を身体をはって体感しようじゃないか」 確かに一理あるような気がする。何かがどこかで間違っているような気はするが、景麒は咄嗟に指摘できなかった。 五分後、陽子と共に膨大な量の野菜炒めを口に詰め込む景麒がいた。 優勝商品は取れたて野菜一ヶ月分と木彫りの彫刻だった。 そして、長い長い十日間が幕を閉じようとしていた。 睡眠はおろか、気を休める暇もない景麒の体力は、そろそろ限界に近づいていた。神仙でなかったら、とっくに違う世界に旅立っていたことだろう。陽子の柔らかい髪や温もりを密かに喜んでいたのは、体力と気力に余裕のあった最初の数日だけである。 「政務もたまっちゃうし、そろそろ帰ろうか」 景麒ははっと目を輝かせ即答した。 「そうですね、今すぐ帰りましょう。転変すればすぐです」 そうして、例の着ぐるみを自ら景麒は着始める。 「何だ、景麒もそれ気に入ってたんだな」 違います。間髪いれずに反論したかったが、体力の限界を迎えている景麒にはそんな余裕など無かった。 さすが麒麟、風の様な速さで金波宮に到着する。人が来る前に、と急いで着ぐるみを脱ごうとする景麒に、陽子は無邪気な微笑みと共にいった。 「またやろうな、景麒」 景麒はふわふわした着ぐるみの中で深い深い溜息を漏らし、白い綿毛がふわりと揺れた。 前へ NOVELトップ 03/01/10(05/12/20 大幅に書き直し) 麒麟は炒め物も駄目だったような気がしますが、油を使ってないヘルシーな炒め物だったという都合のいい設定ですv 景麒、陽子と一緒に十日間も旅が出来た上、寝るときまで一緒なんて幸せの絶頂です。陽子お手製の服(きぐるみ)まで着れるなんて愛されてる麒麟です。結構昔のお話ですが、大幅に書き直したのでかなり変わってます。 |