◆悪女の条件◆







降る星を集めて何を思おうか。
閉じた恋の瞳は小さな薔薇にも似ていて。
嫌煙しがちだった哲学書の言葉が脳裏に。





彼女がつぶやく言葉いつも意味深でこの物憂げな季節に似合いすぎる。
もともと口数はそう、多いほうではない。
揺れる黒髪と自戒の刻まれた左腕。
「なにやってんだよ」
「空見てるだけ」
宮の窓辺に肘を着いて、冬空を見上げる緑交じりの黒。
緑眼は嫉妬に駆られる色という。
それでも、彼女のそれは少し違って見えるような気がした。
「早いね、世界が静かになってから」
戦うことが存在意義だった彼女は義と信念の狭間に常にその身を置いていた。
望んだことではなくそれは巻き込まれたといえばいいのだろうか?
それとも彼女が自ら贖罪のために選んだのだろうか。
「あっちは雪も降るのよ。きれいな白でね」
彼女を構築するのは赤と黒と金。
白は存在することがなかった。
滲んでいく赤が白を侵食して、やがて黒に変わる。
血液の染みた包帯は翌日には汚れた色になるように。
「雪、みてぇのか?」
闇に灯るは煙草の火。
いつになく真摯な彼が真横に並んだ。
全ての針が頂点で重なる前に、この牢獄じみた宮から彼女を連れ出したい。
そう思いながら彼は石段を登ってきたのだ。
「見たいわけじゃないけど、ただ何となく」
願望を隠すときの小さな癖。
顎の下で組まれた指先がここから連れ出して、と呟いた。
星さえ降りそうな凍える夜空から生まれる光を捕まえるのは難しい。
さり気なく時計を見やればまだ少しだけ時間が早いから。






届かない思いを胸に隠くせば、呼吸すらままならなくて。
泣き出しそうな夜には脳裏にこだまする連弾のピアノ。
親元を離れた時に知った寂しさ。
次々に脱落していく友の墓標を彼女は作り続けた。
命は他者の犠牲の上に成り立っている。
この手は悲しいほど短すぎて、あの空には触れることができない。
両手に感じる暖かさに混じる赤。
忘れることのできないその色はこの体にも脈々と流れている。
(詰まらないことでは死なない)
噛んだ唇に知るのは己の非力さと幼さ。
幼年期は転じて早熟となり彼女を構築してしまった。
黄金の鎧を纏いし黒髪の女は真紅の心を抱く。
異国の地に降り立った彼女はすでに覚悟を抱くものとなっていた。





夜の海は黒く波だけが白を湛える。
水飛沫に見える仄暗い青。
「!!」
いきなり頭からかけられたシャンパンに一瞬思考が飛ぶ。
眼の前でにやにやと笑う男の顔。
「な、何すんのよ!!」
飛んでくる手をかわして彼は彼女に瓶を投げつけた。
受け止めればラベルに刻まれた自分の生まれ年。
「そっちは飲むようだ。大体、ドンペリなんざ手ぇ洗うくれぇしか意味なさねぇよ」
空間移動をしたところで彼女はきっと満たされない。
「誕生日なんて騒ぎ倒してなんぼなんだよ」
まだ少しだけ気泡する髪の毛を一つまみ。
頂点で重なり合った三本の針。
「!?」
二人のちょうど真ん中に打ち込まれた金色の矢。
時空を裂くことのできる射手座の矢に結ばれた赤いリボン。
「よかったな。ちゃんと祝福されてんぞ」
慣れない言葉で書かれていたのは、確かに母国の言葉。
ただ一人、現世に戻ることのできなかった彼女からの光。
「なんて書いてあんだよ」
「きっちりとサガとあんたを締めなさい。今日は何をしても許す。死なせてもすぐに
 そっちに送り返す。今日の冥界の実権は私の物、だって」
「……あのアマ……っ!!」
後頭部に突きささる玩具の矢。
「今日は死んでもすぐに帰ってこれるね。んじゃ、本気で行きますか!!」
その気迫に反応して山羊座の聖衣が装着される。
「まて!!俺は丸腰!!」
「問答無用!!」






暴れまわる二人を水晶玉で見ながら少女はにこり、と笑う。
「神様、お茶〜〜〜〜」
双子の神が甲斐甲斐しく世話を焼くのは射手座の少女。
いまや冥界を事実上取り仕切るのはこのアイオロスだった。
「神様、最近アイアコスがまたさぼり酷くなってる」
「すぐに対処しよう」
「神様、ハーデスも管理さぼってる」
「善処する」
その冥王は彼女の矢で壁に磔にされ三日三晩が過ぎた。
「して、なぜハーデス様は……」
「うっかり私の帰郷日を反故にしてくれたからよ。だから私もうっかりと矢を放って
 うっかりとまだ解くのを忘れてるんだわ。ああ、私って忘れっぽいから」
書き上げた書類をパンドラに手渡して首を鳴らす。
「神様、私もちょっとお誕生日のお祝いにいってきたいんだけども」
ここでうっかりと駄目だと言おうものならジュデッカは崩壊の危機に陥る。
何しろ、このアイオロスという少女の強さは冥王と一対一で戦えるのだから。
「ちゃんと帰ってくるから大丈夫よ」
「……………………」
つかつかと磔にされたままの冥王に近付く。
「ハーデス、ちょっと里帰りしてプレゼント渡してくるね」
「ならん!!」
「ちゃんと帰ってくるわよ。何しろ、私の身体はもうないんだから。そう長く向こうに
 居られないことくらい知ってるよ」
現世に戻ることができないように、冥王は愛しい少女の体を冥府の大窯で焼いてしまった。
骨も残らず魂魄のみになった彼女は、現世に長く留まることはできない。
「じゃ、行ってくるね」
「アイオロス」
「?」
「まだ、余がお前の身体を滅したことを恨んでいるか?」
振り返り、少しだけ笑う唇。
少女の指先が冥王の頬に触れて。
「!!」
そのまま唇を摘まむようにしてきつく捻りあげた。
「あたりまえでしょ!!でなきゃ今頃向こうにもどってもっといい男見つけるわよ!!
 いい?向こう三千年はあんたのこといびり倒してやるからね!!それから、妹たちがこっちに
 来た時に下手なことしてみなさい?あんたを神の座から引きずり降ろしやる!!」
冥界を実質掌握し、管理する彼女には逆らえない。
「大人しくしてんのよ。神様たち、ちゃんと面倒見ててね。お土産はあんまり期待しないで」
バレンタイン特製のチェリータルトとチョコケーキを受取る。
ゆっくりと消えていく小さな体を見送ってまた双子神は業務へ。
空間移動を駆使してかつての自分の宮へと降り立つ。
真夜中過ぎの空気は凛として。
(お!!やってるやってる!!)
爆風の舞う一つ上の宮へゆっくりと登る石段。
「シュラーーー!!お誕生日おめでとーー!!ケーキもってきたよーん」
「ア……アイオロス!!」
今まさにとどめを刺さんとして、デスマスクの胸倉を掴んでいた手を思わず離す。
勢いよく落下した銀髪の青年がうめき声をあげた。
「ほらほら、ケーキ」
「は……はいっ!!」
ぎゅっと抱きついてくる女の背中をそっと抱く。
「子供だなぁ。私よりも、もう随分と大きくなったのに」
「なんだ、君も来ていたのか。アイオロス」
「サガ。久し振り。少し老けた?」
からかうように指をさせば苦笑する男。
「アイオロスだーー!!」
「ディテ、久しぶり。ケーキ持ってきたよん」
昔、こうして五人でいることが多かった。
それぞれの選択は随分変わってしまったけれども、またこうして会うことができた。
「んじゃ、一枚撮っておくかぁ!!」




星屑幻燈美しく、今宵は魔女たちですら舞踏会に向かうように。
夢想は現に流れ出るは宵の光。
響く笑い声が確かな真実。
「よく、あのハーデスが外出許可を出したものだな」
ケーキを切り分けながらサガがそんなことを呟いた。
栗金の髪を掻きあげて少女がにぃ、と笑った。
「うっかり矢を放って、うっかり磔にしたままよ。でも、悪気はないの。うっかりだし」
次期教皇の器を持っていた少女は一筋縄ではいかない。
双子座のサガと双璧を張っていたその強さは折り紙つきだ。
討ち抜けないものは存在しない射手座の矢を持ち、天を駆けるその美しさ。
「冥界も大変なんだな」
「大丈夫よ、あんたたちが来てもちゃんとハーデスには言ってあるから」
「何てよ?」
蟹座の男の問いに答える。
「何かしたらむこう三千年はいびり倒す。指一本触れさせない。お前の子孫は残さない」
その言葉に全員が有無を言わせぬ重圧を感じるほど。
「双子の神様にもお願いしてきたから大丈夫よ。夜明けまでには戻るし」
器を失い、魂魄身体の彼女の時間は短い。
冥府を取り仕切りすべての冥闘士に目を光らせる。
「悪いのはハーデス一人だし。再教育が大変。神様だからそれなりに大事にされてきてるし」
完全なる確執を取り除くには、まだ彼も彼女も時間が必要だ。
「もっと穏やかにしたいだけ」
生まれ変わることも奪われ、彼女はただそこに存在する。








「なんだかなぁ……」
天窓から差し込む星明かり。
「どうしたよ?」
闇に灯るのは煙草のそれ、どこかやさしい光。
二人分の裸体がシーツの上に転がる。
「俺がお前と初めてヤッたときも、アイオロスに半殺しにされたな……嫌な思い出だ」
「正しい判断だわ。きっと将来性も見越してのことだっただろうし」
「このやろ……」
それでも愛しいと抱き寄せれば触れ合った肌がまだほんのりと熱い。
冥王を封じる少女は今夜一晩かつての親友と酒宴を過ごすらしい。
明け方前には帰らなければならないと呟く唇。
「吸うか?」
「うん」
火種を分け合って絡まる煙。
地の底で彼と再び出会えた時に感じた安心。
枕を下にしてうつ伏せで向かい合う。
「俺もドラゴンみたいに背中に入れるかな」
「蟹?」
「……最悪だな、おい」
「イタリアマフィアみたな生き物に刺青なんて似合わないと思うよ」
くすくすと笑って彼の頬に手を伸ばす。
「私、ちょっとくらい悪い方が好きだからね」
「ああ、だからカノンか」
「あれは極悪よ。世界征服が趣味なんだから。分相応ってあるのに」
笑い合えるようになるまでにどれだけの時間を使っただろう。
縛り付けていた恋心を解いてもう一度恋ができるように。
かいくぐった死線は一人ではなく二人だから生き残れた。
「ね、明日ラザニアつくって。あんたの料理食べたい」
「おう。買い出しも生きてぇしな」
「あとね、ザバイオーネと……」
「シュラ」
不意に掠めるように触れた唇。
眼を閉じる間もないほどの短さ。
「焦んなくても俺もお前も今度は普通に生きられるんだぜ」
ぼろぼろとこぼれ出す涙。
当たり前の生活に慣れないのは二人とも同じだから。
ゆっくりと歩けばいいとわかっているのに急ぎ足になってしまう。
「……うん…っ……」
「なんぼでもつくってやるよ。死ぬまで俺はお前のお抱えシェフだ」
星屑は幻想的でその光が遥か過去のもだと忘れさせてしまう。
明け方近くに見た夢は二人同じ色。
それはきっと誰かの優しさなのだろう。







「ただいまーっ」
ストラップシューズを鳴らして石段を登る足音。
「アイオロス!!遅かったではないか!!余は心配で心配で……」
駆け寄ってきてきつく抱きしめる黒衣の神に小じぃはため息を吐いた。
どうにも冥府の神は過保護すぎていただけない。
見た目がこぎれいなだけにそれが増幅されるのだ。
「神様、過保護すぎ」
「しかし!!ええい!!地上など滅ぼして……」
少女の瞳が一瞬光り、見る間に手に携えられる槍。
「グンニグルで殺られたくなかったらそんなこと言わないで」
「分かった……それはしまってくれ……」
片手で抱き上げて冥王は窺うように視線を重ねた。
どうしても手放すことができなかったたった一つの存在。
「神様、もう少し気楽にしなよ」
「うむ……そう言われても……」
ちゅ、と頬に触れる柔らかな唇。
「遊びに行かせてもらった分、今日は神様と遊ぶから」
「本当か!?」
「うん。私、嘘はつかないよ」
孤独な神はたった一つだけの願いを持っていた。
永劫の時を共に過ごせるものの存在。
「神様、だから馬鹿なこと考えなくていいんだよ」
死をつかさどる神を恐れなかった少女の存在。
双子の神を素手で殴り飛ばせるだけの度量と力量は並の神では太刀打ちできないだろう。
「お花綺麗だよ、おいでよ」
「うむ」
手を引かれて花畑に連れていかれる冥王はなんとも滑稽なのかも知れない。
それでも幸せそうな冥王を見れば何も言えなくなってしまうだろう。
「ポセイドンさんも来るの?」
花の冠を編みながらアイオロスは予定を記憶から手繰り寄せる。
アテナ、ポセイドン、ハーデスの三国同盟は定期的に会合を開くことになっていた。
前回が海底神殿であることを踏まえれば今回はここ、エリュシオンに招くことになる。
もちろんその際にはそれぞれの戦士を伴ってくるのだ。
「あっちはソレントだよね。あと、そっちはサガかな」
「前のあの妖怪よりは良い」
「ああ、シオン様?妖怪っちゃそうだけども私、シオン様好きだよ」
冠を黒髪に乗せる。
ちょこんと座りこんだ二人の姿に冥闘士は笑いをこらえるのに必死だ。
「ハーデス」
緑色に輝く瞳。
彼女が現人神になる日もそう遠くはないだろう。
「大好き」
「なななななななななななっ!?」
「なーんてね、ふふ」
「アイオロス!!」
「赤くなったり青くなったり忙しい人だね」
ぎゅっと抱きしめてくるのはいつも彼女の方。
誰かに触れることになれない神は戸惑いがちに手を回す。
「もうちょっと他人にと仲良くなれるようにならないとね」
「余はお前さえいてくれれば……」
「出来ないなら別れるよ」
「努力する」
陽の光になれないように誰かの暖かさに冥王はいつもとまどうばかり。
花の冠が静かに笑った。








18:30 2009/05/13



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