◆三千世界の教主と羊◆
「だからどうしてすぐにいなくなるんですか!!」
少女の細い手首を掴んで、青年は声を荒げた。
「何度も言っておる。わしは一箇所にとどまるのは嫌じゃ」
始まりの人は穏やかな笑みを浮かべて、ふわりふわふわ宙を舞う。
面影はそのままに、ただ心だけが僅かに変わってしまった。
「それに、昨日も逃げましたね?師叔」
「……わしじゃないもーん。王天君が逃げたんだもーん」
分けられていた魂は一つになって『伏羲』という器を得た。
嫌なことは嫌だとはっきりと意思表示もすれば、しおらしく乙女になることも。
上手を使い分けるもの二人が同化してしまったのだから彼に勝ち目はほぼなかった。
「ちょっくら出かける。なぁに、ここにはおぬしや燃燈。それに張奎がいれば問題はない」
「ありまくりです!!燃燈さまも張奎君も僕もここ数日寝てません!!それにあなたも
最初の人なんだからちょっとは責任があるんですよっ!!毎日毎日桃ばかり食べて……
そのうち脳まで桃になっても知りませんからね!!」
そこまで言われれば、思うところがないわけでもない。
「そうか。ならばおぬしはゆっくり休め」
小さく微笑む柔らかな唇。
「!?」
同時に鳩尾に打ち込まれた数発の拳に青年の体が崩れ落ちる。
軽々とヨウゼンを担ぎ上げて、少女は寝室の扉を蹴り飛ばす。
「寝てないだけあって、綺麗だのう」
どさり、と落として布団を掛ける。
「まぁ、ゆっくり休め。わしも久々に仕事でもしようぞ」
普段は座ることのない教主の椅子に腰を下ろして、少女は積まれた書簡を開いた。
妖怪と人間の双方の意見陳情書は、絶えることなく教主に持ち込まれる有様だ。
(これでは確かに寝る間もないな。ヨウゼンはストレスを溜め込むほうじゃからのう)
筆を取って、一つ一つに文字を書き記す。
軍師として腕をふるっていた頃に比べればなまってはいるものの、少女の判断能力に
曇りなどない。
「あれ?望ちゃん……ヨウゼンはどうしたの?」
「おお、普賢か。あやつなら眠らせた。まぁ、気絶しとるんだがな」
けらけらと笑って少女は次々に書簡を片付けていく。
話をしている間に山になっていたそれはもう跡形もなく、終えてしまった。
「道徳はどうした?」
「子供預けてきたからね。今頃格闘中かな?」
伏羲として生きる彼女にも、昔のように『望』と呼ぶ少女。
穏やかな陽だまりの中であれこれと話し込む。
「燃燈に用事があってきたんだけども、どこかしってる?」
その言葉に伏羲は指先をニ度ほど軽く動かした。
「じきに来るぞ」
その言葉の通りに燃燈道人が顔を出す。
始まりの人の力は便利だと、小さく彼女はつぶやいた。
「何のようだ、王奕」
「わしとちゃうわ。普賢がおぬしに用向きじゃ」
「そうか。私に何用だ、普賢真人」
しずかに席を立って少女は燃燈の前に歩み出る。
「!!」
胸倉を掴んで引き寄せて、息が掛かるほどの距離の中で囁いた。
「毎晩毎晩、宴会だって道徳連れ回すの止めてくれないかな?その度に子供が目を覚まして
泣き出すんだ。この間も言ったよね、三回いって分からなかったら……殺すよ?」
爪先が僅かに床には着くものの、男の身体を持ち上げるその力。
「わ、分かった……自粛する……」
「そう?なら良いんだ」
相も変わらず親友は、一途な恋を抱きしめる。
それが母となっても何も違わずに。
「燃燈。道徳よりもヨウゼンを誘ってくれ。できれば、たまには休みもくれてやってくれ。
あやつは自分の要求は一番最後に回すからな。昔からそうじゃ」
金色の衣をはたた…とひらめかせて伏羲は燃燈を見つめた。
「一人で責任を負う事もないと、おぬしが言えばヨウゼンも楽になるじゃろうて」
どこにいても、彼女は彼が困ればふらりとやってくる。
そして何もなかったかのようにまた、いずこかへ帰っていくのだ。
「完璧を求めるな、おぬしが完璧になれぬようにあれも同じだ。無論わしもな」
始まりの人は万能であるがゆえに、生命との融合を図った。
彼女もその役目を終えて今は行く末を考えるための時間なのだ。
「たまにでいい。休日を作ってくれ」
「王奕がここにいれば良いだけの話だろう」
「それができぬからな。わしの役目はもう終わった」
この世界にもう、最初の人は必要はない。
西周の名乗りの後、仙道を全て引き上げさせたときと彼女は何も変わらないのだ。
ここから先は第三世界の住人たちが決めること。
現に親友の子供のように、この世界で生れ落ちた生命も息衝きはじめている。
古い神話はもうおしまい。
自分の存在は害にはなれども、それ以上にはなりえないと横顔がつぶやいた。
ぺたんと椅子に座って、足を教台の上に投げ出す。
「……師叔……」
「おお。ゆっくりと休めたか?」
青ざめた顔は、まだ痛みが引かないと横に振られる。
それでも飄々と少女はそこにたたずむだけ。
「燃燈に話をつけた。これからはおぬしも定期的に休むがいい。何ぞあればわしが
あやつをしめるから心配は要らぬぞ」
それでも彼女が自分を心配してくれることはよく分かっていた。
転寝の間にも頬に触れる指先。
目覚めれば冷たい寝床に一人きりでも、確かに彼女の残り香はあったのだから。
「僕は、あなたがここにずっと居てくれればそれでいいんです」
青年の髪を指に絡ませて、少女は愛しげに引き寄せる。
こつん、と額が触れ合って閉じられる瞳。
「そうもいかぬよ。この世界に始祖は必要ない。いずれはわしも塵芥になる」
それが彼女の唯一つの望みなのだ。
「おぬしはもう自由になれ。いつまでもわしに縛られるな」
「いっつも同じこといいますね。師叔も僕も」
繰り返すこの景色の中で、どれだけ手をのばしただろう。
翳した手には、広げた羽のような光が僅かに差し込むだけ。
「そろそろ帰るかのう。普賢の顔も見たことだし」
「駄目です。帰しません」
「おぬしの仕事も片付けた。ニ、三日は羽を伸ばせるぞ」
小さな身体を抱き上げて、視線を重ねる。
「少し軽くなりましたね。食事はきちんと取ってるんですか?」
青年の手を静かに外して、少女はふわりと舞い上がった。
自分がもう人間でも仙道でもない証を見せるように。
「伏羲の身体は何も求めぬ」
「あなたは伏羲じゃありませんよ。本当に身も心も始祖ならここには来ないでしょう?」
手を伸ばして青年の頭を抱きしめる。
耳の先に唇を落として、軽くそこを噛んだ。
「おぬしが欲しいのは太公望じゃ。わしではない」
「そんなことも……」
「伏羲のわしには憎しみはあっても、愛はなかろうて」
「……やきもち、ですか……?」
「うん」
以前の彼女ならば頑ななまでにでも拒否しただろう言葉でも。
始まりの人となってからは、ほんの少しだけ素直になっていた気がした。
「伏羲でも太公望でも本当はどっちでもいいんです。僕にとってはあなたが世界で一番
大事だから」
光のあるほうに進もうとしていた。
そして知ったことは彼女が光だということだった。
上着をぎゅっと掴んでくる指先と、こめかみに触れる濡れた唇の温かさ。
「変わらんな、おぬしは教主になっても」
具輪に指が掛かって、静かに引き下げる。
屈強とまでは行かないが均整の取れた美しい鎖骨と胸板。
「くすぐったいですよ……師叔……」
ぺたぺたと触れ来る掌。
今度はそれに飽きたのか頬に手を添えて唇を重ねてくる。
入り込んでくる舌先が歯列を割って絡みつき、噛みあうような接吻を繰り返す。
小さな舌が唇をなぞるように舐めて。
離れようとするのを今度は青年がその小さな頭を抱いて引きとめた。
「酷いなぁ……またここで逃げようとするんだから」
「わしはよくとも、わしの中の王天君が……」
「おかしいですね。その王天君の気配がまったくしませんよ?」
魂の半分は、いたぶるのは好きだが逆は嫌いだと蓬莱島に来る際にいつもどこかにでかけてしまう。
「さっき、太公望であるあなたは良いと言いました。師叔」
「……わ、わし用事ができたからかえ……」
「駄目です。さっき不本意ですが十分睡眠もとらせていただきましたし、夜間はここには
誰も来ませんからね」
片手で細い手首をねじり上げて、ぐ…と自分のほうに引き寄せる。
「長い夜は二人で過ごしましょうね、師叔」
室内に響く水音。
指先に絡まってくる愛液と切なげな少女の吐息。
「……んぅ……」
なだらかな腹部と小さく窪んだ臍。
前垂れを咥えさせて、露になった秘所を蹂躙する青年の指。
「ふ…ァ……ッ!!……」
指先を引き抜いてその上の小さな突起を擦り上げる。
くちゅくちゅと挟み込むようにして動かせばその度にびくびくと細い腰が震えた。
とろとろと零れてくる体液。
「ああ、そういえばあなたはこの椅子が好きでしたね」
飾りの施された教主の椅子に座って、世界を思う。
ここにくれば必ず彼女がそうしていたことを彼は知っていた。
「!」
ひょい、と椅子の上に座らせてそのまま両脚を肘掛に乗せて開かせる。
「この方があなたも好きでしょう?」
秘裂に唇が押し当てられて舌が膣内へと入り込んでいく。
腰を抱いて肉芽を舌先で小突きながらちろちろと嬲って攻め上げる。
「あ!!ああんっ!……ア……」
布地越しにやんわりと乳房が揉み抱かれて息が上がった。
そのままその先端を吸われて、少女の方が竦み上がる。
「どこを触られても感じるのは伏羲の身体でも変わらないでしょう?師叔」
「そうしたのは……おぬしだろう……?」
何度も何度も熱病に冒されたような接吻を繰り返した。
呼吸と体液を交配させることで得られる喜びは、始まりの人にはなかったもの。
「ここが好きなら、ここで抱きましょうか」
少女の身体を浮かせて自分の膝の上に乗せる。
そのまま挿入を促して彼女の手を引きよせた。
「うぁ……ん!!」
肉棒が膣口を押し広げながら、ゆっくりと注入されていく。
男の身体にしがみ付いて何度も腰を振る姿。
「ヨウゼ……!!……」
塞がれる唇と満たされる何か。
空の器は寂しいと悲鳴を夜毎上げ続けていた。
「伏羲でも太公望でも……」
つながったまま少女の身体を抱きしめてそのまま壁に押し当てる。
「あぁっ!!や……」
「落ちたくなかったら、ちゃんと掴まって……」
腕の中で抱きすくめられるほどの幼く小さな身体。
この暖かさをどれだけ求めだろう。
「…ひ……ぅ……」
乱れる黒髪と寄せられる頬。
しがみ付いてくる腕と自分の名を呼ぶ細い声。
「……呂望……」
終わらない夜の真ん中で。
唯一つこの暖かさだけが真実だった。
「なんじゃこの鎖は……」
小さな首輪とそこから伸びる鎖に、少女は不満げに眉を寄せた。
「逃げないようにですよ。あなたが」
男に覆いかぶさってじっと瞳を見つめる。
「望は斯様な扱い、耐えられませぬ……」
潤んだ瞳に絆されそうになっても、頑として青年は首を振らない。
「だ、だめですっ。毎回毎回同じ手で逃げ出すんだから……」
「別にいいけどもー。わし、こんなの簡単に外せるしのう」
かちゃん。奇妙な音を立てて首輪は簡単に寝台の上に転がった。
始祖たる彼女にできないことなどないのだから。
「分かってますけどね。いくら僕だってあなたを繋ぐことなんてできませんよ」
「さっきまでは深々としっかり繋がっておったがな」
のろのろと身体を起こして、外套を身に纏う。
そして静かに青年の手を取った。
「わしの家に案内しようぞ、教主ヨウゼン」
ふわりふわりと連れて来られたのは亜空間の中の小さな部屋。
何かもが自然で不自然な小さな星だった。
切り取ったような空間に浮かぶ小さな家。
そこにあるのは長椅子と鏡、そして時を刻む古時計だけ。
「ここがわしの家じゃ」
彼女の美貌にはそぐわない簡素な室内。
ただかちこちと揺れる時計と、ひび割れた鏡を長椅子に座って見つめるだけの空間。
「わしがこのまま生きれば、いずれは第二の女禍になりうる。始祖とは斯様なものだ」
「………………」
「しばらくはこのまま生きるよ。その後にわしがどうなるかはわからん」
彼女を残す全ての始祖はもういない。
「わしが花になることを選んだら、おぬしはわしを見つけられるか?」
「ええ。どんな姿になっても僕はあなただけは間違えずに見つけられます」
「そうか、ならばそれで良いのだ」
突然の別れ。
一陣の風の後に彼女の身体は砂でも崩すかのように消えていった。
風葬だと言わんばかりに。
「師叔!!」
降り積もった灰を救い上げる。
こぼれた涙が僅かに死の灰を固めた。
小さな鉢の中で、咲く一輪の名も無き花。
教主の傍らで枯れることなく佇む。
名を問われ彼は小さくつぶやく。
花の名は『希望』だと。
BACK
16:32 2006/03/11