◆春にして君を想う◆






「なんだ?太公望は一日休暇だぁ?」
納得が行かないと、発は四不象の襟首を掴む。
「御主人は働きすぎっす。有給休暇っすよ」
「俺は一言も聞いてねぇぞ」
ふわり。浮かぶ白い霊獣は一国の王を制止する。
「武王さんに言ったら、御主人がのんびりできないっす」
「今すぐ、捕まえてこい」
「ダメっす。それに、僕もお休みをもらったっすよ」
「待て!!四不象!!」
「嫌っすよーーー」
それきり、霊獣は天高く昇って消えてしまった。





「お師匠さま、髪伸びましたね」
肩の下で揺れる黒髪は、風に靡いてくすくすと笑う。
「切る間もないからのう。伸ばしっぱなしだ」
「でも、可愛いです」
「そうか?ならば、切らずとも良いな」
街着を纏い、軍師は少女となって街に降り立つ。
指を絡ませて、歩く姿。
「武吉、喉が渇かぬか?」
「はいっ」
「なら、あそこで休憩しようぞ」
指すのは小路の茶店。甘い香りが二人を誘う。
「それとも、わしとのデートは嫌か?武吉」
「そんなことないです!!すっごく嬉しいですっ!!」
肩が並んでしまう背丈でも、太公望はこの少年を懐剣として常に隣に置く。
考えようによっては補佐であるヨウゼンよりも信頼を勝ち得ている立場だ。
「お師匠さまは、僕よりもずっと年上なのに、なんだが同じくらいに見えます」
「若作りしておるからのう。これでも七十過ぎの婆じゃ」
太公望にしては珍しく、膝から下が見える丈の短さ。
ほっそりとした脚が、魅惑的に光る。
(おっしょーさまの脚……綺麗だな……)
白、赤、緋色。彼女が好むのはそんな色合い。
「武吉、何をぼーっとしておる?」
「おっしょーさまに見惚れて、ぼーっとしてました」
その声に、少女は首を傾げる。
「見惚れるほどのものか?」
「はい!!」
「そうか。ありがとう」
「世界で一番、お師匠様が好きです」
好意を寄せられることを嫌う由縁はない。
しかし、少年の父親の命を奪ったのは、紛れもなく己の失策のせいだ。
それでも、彼は彼女をうらむ事すらしない。
もっと、大きなものを見つめているから。





「のう、武吉。おぬし、仙人になる気はないのか?」
胡麻団子を広げて、小高い丘で街を見下ろす。
「仙人、ですか?」
「そうじゃ。未来を見る目を持つおぬしなら、良い仙人になるだろうて。わしの親友にな
 そんな者を育てるのに長けた奴がおるのだよ」
武吉は少しだけ困った顔をして、細い手を取った。
「僕が、弟子入りいたいのは太公望と言う道士だけです。他の仙道の人に師事したいとは
 思いません。たった一人だけです」
「わしは、お前の父を殺した女だ」
ざわつく風が、頬を撫でる。
生暖かいその感触は、まるで女の肌のよう。
「お前が抱く女は、お前の仇じゃ」
その手を、自分の胸に当てさせる。
この柔らかさの中に渦巻くのは一種の狂気。
一度、魅せられたら離れることなどできない。
「この身体はどういうわけか、男を引き寄せるらしい。おぬしもその毒に当てられた。
 羌の淫婦でも、一国の王をどうにかすることも出来る。宮廷の官女たちからも聞いておろう?
 軍師はその身体で得た。文王の囲子と」
どれだけ実績があっても、現実は厳しい。
女と言うだけであらぬ噂が走り回る。
加えて、武王の彼女への寵愛は官女達の反感を買うには十分すぎた。
「お師匠さまは、僕の命を救ってくれました」
「殺すには惜しい、そう思ったからな」
「確かに、お師匠様の身体は気持ちいいです。でも……」
太公望の手を取って、自分の手をぴったりとくっつけて。
「僕は、たった一人で妲己に向かったお師匠様が好きです。お父さんは死んでしまったけど……
 その根本は妲己です。みんなが逃げてたのに、お師匠様は一人で向かったじゃないですか」
「……………………」
「僕の好きな人は、一番に誇りを持つ人です。そんな人を好きになれて、傍にいれる。
 すごく、すごく、幸せです」




風吹く丘で、君がくれる言葉は。
生涯、忘れ得ぬものだろう。
この丘で、同じ時間を過ごすことの出来るこの『偶然』を。
貴女に、出逢えた事を、誇りに思う。




「武吉」
「はい」
「この先、わしが……わしが、何かに取り込まれて、わしである事を失ったら」
薄い唇が、ゆっくりと動く。
「わしを殺せ。死ぬならば、お前の手に掛かろう」
「嫌です!!」
「聞け。これがわしの遺言じゃ。一番弟子へのな」





もしかしたら、どこかで悟っていたのかもしれない。
この先に起きる事の結末を。
彼女はいつも天を仰いでいた。
まるで、何かを懐かしむように。





「これ、武吉。唇が痛くなってきたではないか」
「だって、お師匠さまが悲しい事をいうから……っ」
言葉を封じたいと、少年は何度も何度も唇を重ねた。
「おぬしにしか言っとらんぞ」
「でも……っ」
力任せに抱きしめられて、身体が悲鳴を上げる。
「武吉!!痛いというに!!これ!!」
「お師匠さま〜〜〜〜〜っっ!!嫌です〜〜〜っっ!!」
子供なのはどちらも同じ。
素足に感じる風もそろそろ冷たくなってきた。
「武吉、そろそろ帰るぞ」
「嫌です。お師匠様がさっきの言葉を消してくれるまで離しませんっ!!」
「どれを消せばいいのだ」
「……お師匠様は、淫婦なんかじゃありません」
その言葉に、太公望はため息をつく。
「分かった、分かった。だから、わしをおんぶして城まで走れ」
背中に感じる温かさ。耳に掛かる息に鼓動が早くなっていく。
「武吉。わしの言葉も忘れるなよ」
「はい」
「おぬしは、わしの最初で最後の弟子じゃ」
「……はいっ……」
追い風を受けて、どこまでも行こう。
どこへ、どこでも、貴女が望む場所へ。




「武吉っちゃん、枕抱えてどこ行くんだ?」
「はいっ!!お師匠様が一緒に寝ろと言うので、お師匠さまの所に行きます」
「ちょっと待て!!」
武吉の肩を掴んで、発は激しく揺さぶる。
「今日は、どこで何してきたんだ?あ?」
「胡麻団子を二人で食べて、たーくさん、ちゅーしてきました。楽しかったです。
 それに、短い丈の服も着ててすっごく可愛かったですよ」
短衣など、城内で着る事はまずない。
「お師匠様を待たせちゃうんで、僕、行きますね」
回廊を枕を抱えて、少年は進む。
「待て!!その役目俺に代われ!!」
「嫌ですよ。僕だってお師匠様と一緒に寝たいです。それに、僕はお師匠様の一番弟子
 なので、お師匠様が代われと言うなら代わります」
太公望の部屋の扉の前、ヨウゼンまで交えての喧騒。
やれやれと、顔を出したのは髪を解いて夜着姿の太公望その人。
「何を騒いでおる……おお、武吉。早く入れ」
「はいっ」
「おぬしらも早く休め」
ぱたん、と閉じる扉とこぼれるため息。
「武吉っちゃんは……大穴だよな。いっつも太公望と一緒にいるし」
「師叔も武吉君には、優しいですからね……」






「お師匠様?」
「近頃夢見が悪くてな……おぬしとなら安心して眠れる」
武吉の胸に顔を埋めて、少女は目を閉じる。
「でも、僕も男です」
「知っておるよ。だから、こうして誘った」
背中を抱いて、くすくすと笑い声が耳に飛び込む。
「それとも、わしが相手では不満か?」
「おっしょうさま〜〜〜〜っっ!!」
覆い被さってくる武吉を抱きしめて、今度は優しい接吻を重ねた。
「痛くない接吻(キス)は、大好きじゃ」
「僕は、おっしょーさまとするのは何でも好きですっ」
「そうか」
身体を起こして、頬を両手で包み込む。
「武吉」
甘夏の果実を溶いたようなその爪。
夜着の袷を解いて、その肌に少年の唇が触れる。
「……んっ……」
上向きの乳房に口付けて、少しだけ力を入れてそこを揉み抱く。
掌の中で形を変えるものの柔らかさ。
ぎこちなかった動きも、だいぶ慣れてきた。
舌先、口唇、指、肌。
吸いつくような肌理の細やかな柔肉に、どくん、と心音が高鳴る。
「…ふ…ぁ…!……」
まだ、どこか優しい柔らかさを持つ指先。
未完成の身体は、少年ならではの柔軟性を持つ。
「お師匠さま……」
自分を抱く武吉の腕。出会ったころよりも随分と逞しくなった。
己が傷つくことを厭わず、離れる事無く傍にいる。
触れるだけの接吻の甘さ。
「随分と……立派な男になったのう……武吉……」
唇がそろそろと下がって、窪んだ臍に触れる。
柔らかな腹部となだらかなくびれの細腰が『おいで』と誘う。
「ぅあ!」
舌先が、秘裂に触れて。
「ぅ……っあ!!あ!」
唇がべちゃり…とそこを包むように貪りつく。
舌と唇が動くたびにくちゃ…くちゅ…と濡れた音が零れて耳を支配する。
腰を掴んで、女の動きを封じて少年はその身体を愛撫することに神経を注いだ。
「ひゃ……ぅん!!あんっ…!!」
上ずった嬌声と、もどかしげに動く腰。
震える手が頭に触れて、小さな抵抗を試みる。
ちゅ、ちゅっ、と啄ばむように触れる唇に絡まる半透明の体液。
「ん…ア!!……あぁ…ッ……」
歯先がひくつく突起に触れて、引っかくように動く。
「!!!!!」
びくん、と細い体が跳ねて太公望の四肢が力を失った。
「……僕も、お師匠様のことが……大好きなんです……」
唇の端からこぼれた涎を舐め取って、少女の頭をやんわりと手で固定する。
額に、鼻先に、形の良い唇に。
愛しいと降り注ぐ接吻の雨。
「姫発さんやヨウゼンさん。天化さんにだって負けません」
膝を優しく折って、濡れきった入り口に先端を宛がう。
ず…と腰を進めて肉壁を押し広げながら奥を目指す。
「お師匠様は…………僕のことが好きですか…………?」
小さく震える手を取って、少女は静かに唇を当てた。
親指を舐め嬲って、順番に舌を這わせていく。
「嫌いな男と……こんなことをするほど暇ではない」
小さな尻肉を掴んで、突き上げる。
「!!」
ぬぢゅ、じゅくっ…肌が触れ合うたびに淫音が薄暗い室内に響く。
不規則な腰の動きと、刻むように零れる吐息。
「あ、んんっ!!」
互いに大人になりきれない身体を絡ませて、舌先を絡ませて。
柔らかな乳房と胸板をぴったりと重ねてきつく抱き合った。
「……武吉……」
長い睫。火照ってほんおのと染まった肌。
少年の頭を掻き抱いて、その肩口に少女は顔を埋めた。
「おぬしの肌は……太陽の匂いがする……」
躊躇いも、後悔も。夜毎この身体をきりきりと締め上げる。
戻れないあの日々の、懐かしい匂いが自分を立ち止まらせるのだ。
傷跡が走る身体はお世辞にも綺麗とは言えないだろう。
それでも、彼女の身体は男を惹きつけて止まない。
「暖かいのう……」
思い出はいつも綺麗過ぎて涙がでてしまう。
誰かの温かさは、それだけで自分を弱くするから。
「お師匠様……好きです……っ……」
「ありがとう……」
とくとくと、流れる血液の奏でる柔らかな音。
命あるものはいずれ終焉を迎える。
「好きなんですっ……大好きなんですっ!!」
ぎゅっと抱き締めてくる腕。
薄かった背中も、抱き締めるには丁度良いほどになっていた。
「武吉」
喉元にちゅ…と触れる唇。
「身体ばかり成長して、おぬしはなーんにも変わらぬのう……わしに乗って泣く奴は
 おぬしだけじゃぞ」
見上げてくる瞳。
優しい闇色の大きな眼。
「お師匠さまは、いっつもどっかに行っちゃいそうです。お師匠様が居なくなるなんて
 絶対に嫌ですっ!!」
よしよし、と頭を撫でて太公望は身体をずらす。
「……んっ……」
まだ隆起したままのそれを引き抜いて、武吉の身体を押しやった。
「お、お師匠さまっっ!?」
「埒があかぬ。わしが上になる」
ぬらぬらと光るそれに右手を掛けて、ゆっくりと腰を沈めていく。
武吉の手を取って、腰に回させて支えの補助に。
「んんっっ!!」
結合が深まるに連れて、ぷるる…と乳房が揺れる。
「あ……っは!!あ、ああんっ!!」
根元まで咥え込んで、小刻みに振られる腰。
浮かんだ汗さえ、彼女を引き立てる宝石のよう。
麝香と混ざり合う肌の匂いに、掻きたてられる本能。
男ならば、この身体を嫌う者など居ないだろう。
少女が動くたびに、艶めかしい腿を体液が濡らす。
敷布に沈んで、これ夢ではないと証明した。
「お師匠様……っ…」
手を伸ばして、揺れる乳房を掴む。
「ぁン!!」
捻り上げて、親指でぐりぐりと押せば少女の膝ががくがくと震えた。
(僕でも……お師匠様にこんな顔させられるんだ……)
自分の上で乱れる美少女。
尊敬して止まないただ一人の存在。
(綺麗だな……すっごく……それに、あったかい……)
腰が動くたびにきゅん、と絡んでくる襞肉に奪われそうになる意識。
ただ、昇り詰めたくて次第に呼吸が重なっていく。
「……っは……あ!!あああっっ!!」
びくん、と一際大きく身体が震えて崩れ落ちる。
太公望を抱きとめながら、その奥に少年も熱を吐き出した。






うつ伏せで瞳を閉じる太公望の頭を、そっと撫でる手。
「……どうした?」
「僕もしてみたかったんです。お師匠様にこういうことを」
さわさわと黒髪を撫でる掌に、少女は再び瞳を閉じた。
傍らに寄り添って、にこにこと笑う顔。
じゃれうように覆い被さってくる武吉を受け止めながら、同じように彼女も笑った。
おそらくは、彼女が何も危惧せずに触れられる唯一の存在だったのかもしれない。
疑うこともなく、自分だけを見つめて慕ってくれる。
慕情と恋は、同じ感情。
「大好きですっっ!!おっしょうさまっっ!!」
「耳元で大声を出すでない、武吉」
力任せに抱き締められて、みしみしと身体が悲鳴を上げる。
「これ!!武吉!!」
「おっしょうさまっっ!!大好きですっっ!!」
「苦しい……っ!!」
桜の匂いと風の音。
御簾の外の事は、全部忘れてしまおう。
「武吉、そう思うならもっと優しく抱いてくれ。潰れてしまうよ」
「あ、はいっ」
「忘れるでないぞ、わしもおぬしを……」
耳元で囁く優しい声。
「おっしょうさま〜〜〜〜〜〜っっ!!」
「今さっき言うたことも忘れたか!武吉っっ!!」
ぺちん、と頬を打つ小さな掌。
「えへ……」
「ぶたれて喜ぶとは……」
腕の中でため息をつくのも。
「それでも、嬉しいです。お師匠様がここにいてくれるから」
憂い顔で佇む姿も。
「どこにも行かないでくださいね……四不象と一緒に、ずっと三人で一緒に居ましょうね」
風が届けてくれたあの言葉も。
「そうだのう。三人で居るかのう……」
「はいっ!!」






清流の根源。
巨岩の上で青年は印を結び、目を閉じる。
「武吉くん」
「普賢さん。珍しいですね、こんな所まで」
白の長衣に身を包み、普賢はしずかにそこに降り立つ。
「望ちゃん、来なかった?」
「お師匠様が来たんですかっ!?」
思わず立ち上がって、武吉は普賢の手を取った。
「うん。ちょっとだけどね。すぐに居なくなっちゃった」
「そうですか……」
「望ちゃん、君に逢ったら帰れなくなっちゃうからね。前にも言ってたよ。
 君ほど自分のことを愛してくれた人は居ないって」
あの日。
光の中で彼女はその姿を消し去った。
仙界で過ごしながら幾度となく彼女を捜し求めた。
追いかけても、彼女はすぐにその姿を消してしまう。
「普賢さんのところには、来るんですよね……」
「子供を見にね。望ちゃん、子供が好きだから」
「僕も、お師匠様に逢いたいです」
あのころよりも、背も伸びた。
仙人になることをせずに、彼女と同じように道士である事を選んだ。
「武吉くん、望ちゃんにそんなに逢いたい?」
「逢いたいです」
「逢って、どうするの?望ちゃんはもう、望ちゃんじゃないよ」
最初の人の一人として、彼女は『太公望』という人間ではなくなってしまった。
「逢って、もう一回好きですと言いたいんです」
「望ちゃんは、きっと帰ってこないよ」
「分かってます。お師匠様は僕なんかの言葉で自分の道を変えたりしません。
 僕は太公望の一番弟子です。誰よりも、お師匠様の考えは分かります」
「……付いて来て。まだ、間に合うかもしれないから」
武吉の手を取って、普賢は走り出す。
「普賢さん!?」
「道徳が引きとめてる。天化やヨウゼンには会いたくないって言ってたけど、
 君の事は言ってなかった。だから、もしかしたら……」
「普賢さん、僕、おんぶして走ります!!」
普賢を背負って、武吉は彼女の邸宅まで全速力で走り出す。
「そういえば、普賢さんもお師匠様のことを『望ちゃん』って呼ぶじゃないですか」
「だって……どんな姿になっても、例え本当は望ちゃんじゃなくなっても……」
ゆっくりと紡がれる言葉。
「望ちゃんは僕の一番大事な友達だもの」





赤子をあやすのは、甲冑に身を包んだ一人の少女。
黒髪を撫でる風の色は緑。
「ただいま、道徳」
「おお。何か付いて来たな」
それでも、彼女は眉一つ動かさずに赤子から目を離さない。
「普賢よ。また少しこやつも重くなったのう」
「毎日いっぱいお乳飲んで、いっぱい寝るからね」
子供を受け取って、抱きなおす。
「お師匠様……」
「久しぶりだのう、武吉」
そこに在るのは確かに自分の一番大事な人。
唯一つの永遠。
「元気そうで何よりじゃ」
「……はい……っ……」
「随分と背も伸びたのう。剣の腕は上達したか?」
「道徳さんや、慈航さんに教えていただきました」
「そうか。もう、一人でも大丈夫そうだな」
がたん、と椅子から立ち上がり太公望は歩き出す。
「普賢。またそのうちに来ようぞ」
「うん。待ってる」
静かに扉に手を掛けて、外へと向かう背中。
追いかけて、その手を掴んだ。
「待って……下さい」
「わしが居なくとも、もう大丈夫じゃよ、武吉」
「まだ、お師匠様に教えてもらいたいことが沢山在るんです」
「わしは、もう行かねばならん。手を……離してくれ」
振り返る事無く、彼女はそう答えた。
きっと、今手を離したらもう二度と逢う事は出来ない。
「僕も、お師匠様と一緒に居たいんです。僕も、四不象も、ずっと待ってたんです」
「太公望はもう居らんよ。わしは……」
「誰であっても、貴女は僕の師匠です」
静かに、彼女が振り向く。
「随分と、いい男になったのう……」
自分と背丈の変わらなかった少年は、頭一つ大きな青年へとその姿を変えた。
「そんなにおぬしに会ってなかったか……武吉」
「お師匠様……っ……」
頬を伝う涙に、触れる細い指先。
「困ったのう。まだ、泣き癖は取れぬか」
「好きです……お師匠様……」
困った顔で、少女は笑う。
彼女は何一つ変わってはないのだ。
自分達がどれだけ老いても、彼女は永遠に十七のまま。
押しつぶさそうな孤独と、寂しさを抱いて生きていく。
「スープーは?」
「四不象は、僕の家に居ます……お師匠様に逢いたがってますよ。行きましょう」
細い手首を掴んで、ゆっくりと歩き出す。
始まりの人の彼女がその手を解くのは造作もないことだった。
けれど、それをせずに彼女は導かれるままに青年の後ろを歩く。
「四不象、お師匠様を連れてきたよ!!」
「御主人っ!?本当に御主人っすか!?ヨウゼンさんが変化してるとかじゃなくて、
 本当に御主人なんすかっ!?」
「スープー」
「御主人〜〜〜〜〜〜〜っっっ」
飛びついてくる四不象の鼻先を撫でる手。
「御主人っ、御主人っっ!!」
「元気そうで良かった、スープー」
「御主人、どこに行ってたっすか?どうして、居なくなったっすか?」
泣きじゃくる霊獣をあやして、頬を摺り寄せる。
「御主人、もうどこにも行かないっすよね?もう……」
「スープー……」
「お師匠様、もう……どこにも行かないで下さい……っ……」
瞼の裏に映るのは、あの日の彼ら。
どんなときも、離れる事無く自分の傍に居てくれた。
「スープーや、まだ、飛べるか?」
「どこまでも行けるっすよ!!」
「武吉、まだ……わしと共に居れるか?」
「いつまでも。どこにだって行きます」
風の中に何度と無くその姿を二人で探した。
指先が触れると同時に消えてしまっても。
「まだ、やることが山積じゃ」
「お手伝いします。僕は……姫昌さまからお師匠様を助けるように言われてるんです」
「僕も、どこまでも飛べるっすよ!!御主人は軽いから、二人くらい平気っす」
四不象の背に乗って、少女は瞳を閉じる。
今も、何一つ忘れる事無く思い出せるあの懐かしき日々。
「行くぞ、武吉」
伸ばされた手を取って、青年もその背に飛び乗る。
少女を後ろから抱き締めて、逃がさないように。
「スープー」
「どこに行くっすか?」
「どこまでも。さぁ、行くぞ!!」





後に、語り継がれる神話の一つ。
その中にある小さな小さな恋の話。
風の加護を受けた少女と。
その手を取って走る少年のおはなし。





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2:48 2005/03/14

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