◆ありふれた夢でも◆
ありふれた幸せなんて言葉は本当はいらないのかもしれない。
願って願って、抱きしめたいものなのだら。
「道徳がここにいて、モクタクもここに居てくれる……夢みたいだよね」
愛弟子は下界で忙しく走りまわる。
それを後方から支援するのが自分たちの役割だった。
「風邪引いてないかな、あの子って熱出すとなかなか下がらなくって」
「過保護過ぎるぞ。モクタクだって男なんだから」
溺愛しすぎる師が時には疎ましいと少年は理由を付けて逃げ回る。
柔らかすぎるその手は恋心を熱くさせて。
「そうだね。でも、やっぱり可愛いものだよ」
まだ冷めない花茶に口を付けて、一口。
両手で碗を包み込んでほんの少しだけ俯く姿。
その背中が愛しくて抱きしめたいと思ってしまう。
「こんな風にボクたちは過ごせるのに、いっつもあの子達にばかり危険なことを
させちゃうね……」
怖いのは失うこと。それ以外の何物でもない。
「その分お前は帰ってきたときにモクタクをぎゅーっと抱いてるだろ?」
「うん……でも、そういうの好きじゃないみたいだし……」
師匠は師匠で悩みを持つ。ましてや柔肌の乙女十七。
悩ましげなその眼差しは他の仙道を迷わす媚薬。
莫邪の宝剣で牽制しながらその視線を独り占めするのがこの青年。
「気長に行こうぜ、時間だけはたっぷりあるんだしな」
「うん。道徳が居てくれて本当に良かった」
窓枠に積もる粉雪を見つめながら長椅子に二人で凭れる。
肩を寄せ合って暖めあえることのこの喜び。
「雪だね……どうりで寒いと思った」
だらりと寝そべる男に覆いかぶさって、その鼻先に悪戯気に口付けて。
背中を抱いてくる手に瞳を閉じた。
「そうか?俺はお前とこうしてるからあったかいけどな」
腰帯をするり、と解かれて内側に手が滑り込む。
ほんの少しだけ感じる冷たさに普賢は小さく声を上げた。
「だぁめ。昨日もいっぱいしたでしょ?」
「モクタクよりも愛されてんのかなーって、俺も不安なわけですよ」
「不安?」
誰かを恋しく思うことはそれだけ弱さを伴ってしまう。
けれども、この恋が生きていく力になる。
いつも、いつでも、どんなときでも信じられる相手がいること。
理解しあえるように重なり合う思考を大事にして。
うまくいかなければぶつかり合って喧嘩もする。
そうやってゆっくりと二人で歩いてきた。
「好きの種類が違うよ」
「奴も男だからな。油断はできねぇ」
そんな何気ない言葉がやけに嬉しくて、彼を愛しいと思ってしまう。
自分よりも頭一つ分背の高い恋人は人懐こい熊のようだと親友は笑った。
どこにいても大きな声で自分を呼んでくれる。
「道徳だって周城の官女に囲まれてるくせに」
「俺は浮気しねぇって何回も言ってるだろ?」
愛弟子の様子を見に行っては帰って来ない彼に対してやきもきしても。
それは言わずにいつも飲み込んでしまう。
嫉妬しても埒が明かないならしなかったことにしてしまえばいい。
だから彼の過去も聞かずに来た。
「鼻の下伸ばしてたって、望ちゃんに聞いたもん」
「あのな。あれはたまたま目付きがお前に似てただけでな、別に俺は……」
「本当?」
じっと覗き込んでくる銀色の瞳は、雪の結晶のような透明さ。
(そういう顔されると……弱いんだよな……俺)
ふわふわの雲の上にでもいるかのようにこの心は今でも舞い上がってしまう。
手を取ってその指先にそっと唇を押し当てた。
「お前はなんでそう可愛いんだろうな。普賢」
ほんの少しだけ頬を膨らます仕草。
「可愛くなくていいもん」
「俺ってば仙界一の幸せ者だな。お前と二人っきりでいられるんだから」
ひょい、と膝抱きにして持ち上げる。
「いいよっ!!自分で歩けるよ!!」
「掃除してて足、捻ったんだろ?黙って運ばれなさい」
左足首に巻かれた包帯は降伏の証のようで、否定する言葉を封じてしまう。
「はぁい」
ぎゅっと首にしがみついて頬にそっと唇を当てた。
ちゅ…離れ際に耳元で「ありがとう」と囁く声。
降り積もる雪のように二人で時間を重ねてきた。
いままでも、これからもそれは変わらないだろう。
「あっれーーー!?普賢、足首どうしたの?」
庭で取れた杏を手土産にと立ち寄った太乙が声を上げた。
「うん。この間捻っちゃって……」
「ちょっと見せて。腫れ方が捻ったって感じじゃないよ、それ」
言われるままに足を出せば、踝の辺りに触れる指先。
少しだけ出っ張った骨に触れた瞬間に、普賢はきゅっと目を閉じた。
鈍い痛みと刺す様な感覚が一斉に間混ざり合う。
「痛い?」
「うん……っ……」
指先は触診しながらその常態を的確に太乙に伝える。
出された結論は彼女が持っていたものとはまったく別のものだった。
「皹が入ってると思うよ。折れてないからそう痛くないのかもしれないけど
いつ折れてもおかしくないかもしれない」
茶器を片手に青年が室内に戻ってくる。
「道徳。普賢の足、多分だけど皹が入ってるよ」
「皹?三日もあれば治るか」
「それは君だけだよ。普通に考えても三日じゃ治んないね」
交わされる言葉に不安の色が濃くなっていく。
「ね、太乙。お薬で早めに治るのとか作れない?」
医療は専門知識のあるものに頼るのが最も早い治療になる。
幸いにして目の前には適任の人間がいるのだから。
「皹は自然に治したほうがいいよ」
無意識に青年をじっと見上げる潤んだ瞳。
組んだ指先を唇に当ててぱちり、と瞬き。
「お願い。太乙ならなんとかできるでしょう?」
絡まる視線にうんうんと頷いてしまう。
(道徳はこれにやられたか……それを引いても女の趣味が被らなくて良かった……)
男心に刺さった視線を振りほどいて、彼女の願いを聞き入れるしかなくて。
心の底から親友と女を取り合うことがなくて良かったと安堵の息をついた。
「詰まんないなー……部屋から出れないなんて」
一週間で完治させる効果の薬の代償は、左足を一週間使わないということ。
自分で歩くことも困難になり、その結果室内に閉じ込められたと普賢はため息をついた。
「必要なものは何でも持ってきてやるぞ?」
「自分でしたいこともいっぱいあるの」
柘植櫛で髪を梳きながらぼんやりと窓から外を眺める。
「働きすぎだったんだ、少し休めってことなんだろうな」
「そういう考え方もあるんだね。じゃあ、そうさせてもらおうかな」
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる恋人の背中を。
見つめていられるこの幸せと空間を誰に感謝すればいいのだろう。
彼の両親が恋に落ちて彼が生まれたように。
その親からずっと先にたどっていけば終わりが無くなる。
「皹ってのは折っちまったほうが治りが早いんだけどな」
「そうなの?そのほうが良かったのかな?」
林檎を剥きながら兎を生み出す指先と、それを見つめる視線。
「お前の足を折るような奴が居たら、俺がそいつの首をへし折る」
愛情の深さは独占欲にも直結してしまって。
時折息苦しく思うことも出てきてしまう。
「そんな怖いこと言わないで」
「怖い?」
「そんなことをしたら、死んじゃうよ」
「俺の普賢に何かする奴は、俺が全部始末する」
昔、まだ彼のことを今よりもよく知らなかった頃。
やきもちを焼いた姿が想像できないと、冗談半分にその日にあったことを話した。
入山して間もない道士見習いの青年に声を掛けられた、と。
それは年頃の娘には良くある話。
ほんの少しだけやきもきしてくれればよいだけ、と思っていた。
しかし結果は大幅に違っていた。
青年の姿はある日を境に崑崙から消えてしまったのだ。
うわさに聞いたのは利き腕の腱を切ってしまい、道士として大成はできそうにないから
故郷へと帰っていったということ。
痛めつける必要は無い。
もっとも深い悔恨を残して、その先を絶てば良いだけ。
それきり、彼女は決して口軽くそんなことを言わなくなった。
いったとしても身の危険を自分でかわせる相手や、彼がその中身を見知るものだけを。
「モクタクにもいわれてるでしょ、道徳師伯は怖い、って」
「俺のどこが怖いんだか……」
寝台に腰掛けてやれやれ、と首を振る。
普段の彼は穏やかでこんなにも優しい。
だから。
だからこそ、冷静さを欠いた彼の恐怖は底知れない。
「道徳が軽く叩いたつもりでも、大怪我しちゃうこともあるの。そういうこと」
「んー……それは何とかするように考える……」
兎の入った小皿を手渡して、二個目に刃を入れる。
「子供ができるまでに直してね。ボクもすぐに癇癪起こすの直すようにがんばるから」
冷静沈着に一見できる彼女は、些細なことをいつまでも心にとどめてしまう。
事故処理ができなくなれば大泣きと大暴れ。
それを宥め賺すことができるのもまた彼だけ。
互いの均衡を保つために最良の相手をみつけられたのかもしれない。
「早く、道徳のこと……お父様って呼びたいな」
「なんか……気恥ずかしいな……」
ありふれた夢でも良いから。
「顔、赤くなってる」
こんな風に笑う彼を悲しませることが無いように、苦しませることが無いように。
恋は一人ではできなくて、愛は努力なしには持続しない。
離れ際にくれるさよならの接吻が綺麗なのは物語の中だけ。
一秒後でも振り返って、そばに居たいと涙が零れる。
「普賢がそんなこというからだな。焦んないでゆっくりいこうぜ。この足と同じだ」
好き、と口にしなければ気持ちは伝わらない。
それがどんなに不恰好でも叫ばずには居られない。
きっとそれが恋。
「やっぱし冬だな、寒ぃ……」
後ろから手を伸ばしてその背を抱きしめる。
暖かさと彼の匂いがくれるこの安らぎ。
「普賢?」
「こうやってあっためることしか、できないから……」
他者のことに立ち回ることができても、彼女は自分のことに器用では無い。
それを知ることができたのも、これだけ一緒に時間を重ねてきたからだろう。
「……大好き……」
耳朶に触れる唇の柔らかさ。呟く声の可憐さ。
君の居ない一秒はまるで永遠とさえも思える。
「おいで」
向き直して、足に負担の無いように抱きしめる。
後ろからそうして頬を寄せれば小さく「髭が痛い」と笑う声。
「お前の足は昼も夜も弱いんだな」
「馬鹿」
抱きしめる腕に指を掛けて。
「直ったら……」
上を向けば、覗き込んでくる鷲色の瞳。
重なってくる唇に目を閉じた。
「……ん……ぅ……」
舌先が絡まって離れたくないと糸が伝う。
「直ったら?」
「何でもないよ。気にしないで」
どこかで聞いた話のように。
捧げる物を持たない兎は燃え盛る火の中にその身を投じた。
自分を食材として、できる限りのこととして。
それはどこか彼女の思考にも似ていて彼は懸念する。
「いつでも、どんなときでもな」
「?」
「お前は一人じゃない。俺もいるし、太公望やモクタクだって居るだろ?だから、自分だけで
悩まなくて良いんだ。みんなで悩んで分け合って、それでどうにもならなかったらそんなもの
捨てちまえばいい」
この無骨な指と低い声がどれだけ自分を助けてくれただろう。
「直ったら、いっぱい接吻(キス)してね」
降り積もるこの雪は花となって風に舞う。
冬の寒さは春をより優しく迎えるためにあるものだから。
ありふれた夢でも。
君がいるから素敵なものになる。
どこにでもある光景でも。
君と二人だから美しいと思えるから。
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20:51 2006/01/02