◆彼の爪◆
関所の一つとして栄える町は、行商人の屋台が連なる。
「まずはどっか泊まるとこ……っと、まずは着替えを探すか」
普段着とはいえ、街中では少しばかり異色。
どうせまぎれるなら人の振りをしていたい。
「着替え?」
「そう。着替え買って、そのあと符印を宿に預けてあちこち回る」
大切そうに抱えた太極符印は、どうしても人目を引いてしまう。
加えて普賢の外見も大きく加担していた。
「さ、行こう」
人の目など気にせずに歩けるように、彼の指先がそっと絡んで。
その暖かさにどきり、としてしまう自分がいる。
「どうした?」
「ううん。こうしても良い?」
指を解いて、静かに彼の腕に自分のそれを絡ませた。
短く切られた彼の爪。
自分に触れる手が凶器にならないようにと彼は呟く。
(爪……形、綺麗だよね……)
自分たちを知るものは殆ど居ない。だからこそ普段よりも少しだけ多めに甘えても。
距離を縮めて心を近付けて、君の息が掛かるところまで。
「普賢、ほらこれどうだ?」
店先に飾られた薄桃色の長衣。桜に鶯がちょこんと座った柄は一足先に春を呼ぶ。
まだ雪は止まずとも人はいつも暖かな季節を思うから。
「綺麗……」
「ほら、こういう色ってあんまり持ってないだろ?それにこれだったら前垂れ長いし」
下穿きとあわせて一対になるように作られたそれ。
そしてその隣にかけられた短衣。
先のそれが刺繍は前垂れに、もう一方は胸元に。
どちちらも甲乙は付け難い。
「あとはこれに見合った長靴(ブーツ)探してだな」
そしてふと、一つの疑問が生まれた。
「道徳!!人間相手だから何か買うには……」
「これ、なーんだ?」
皮袋の中できらめくのは数え切れない金貨。
「ど、どうしたの……誰か恐喝したの?」
「こら。たまに俺が周軍の稽古付けてんの知ってるだろーが」
元々兵士としての教育を受けたものではない周軍の兵士を教育できるものは少ない。
天化を育て上げた実績と垣間見る彼の武術は王のみならずその力を認めるには十分。
「いらねーっても言ったんだけども、まぁ飾って置いても良いかなってさ」
だから、心配は要らないと加えて。
「ね、こっちが良いな。可愛い」
指すのは丈の短いそれ。首元を飾るふわふわの白い羽ときららと笑う桃水晶。
「あ……うん……」
「でも、道徳がそっちのほうが良いなら、ボク……」
「いや、こっちのほうがいい!!うん、あとはこれに合う長靴を探して……」
手早く買い込んで今度は靴屋へ飛び込む。
小さめの脚に合うように店員が選んだものを眺めながらあれこれと考える。
「どっちがいいのかな……こういうの、初めてだからよくわかんないや」
「さっきの服着て決めたらどうだ?」
「うん」
小部屋を借りて早速着替える。すらりと伸びた脚にその場に居た人間の視線が集中した。
咳払い一つでそれを跳ね除けて、そっと椅子に座らせて。
「これなんかどうだ?」
膝よりも少し上までの長さ、かかとはほんの少しだけ高くなっている。
柔らかな皮は優しい朱色。はきやすさと歩きやすさも容易に想像できた。
「爪先や踵、痛くないですか?」
「うん。少しだけ余裕があるみたい」
「もう一つ小さいのをお持ちしますね」
買い物という行動に慣れ親しむ前に、彼女は仙道として生きることを選んだ。
太公望ほどではないが、普賢もまた人間としての何かを欠いている。
「あ、これだと良いみたい」
「んじゃ、これそのまま履いてくか」
「うん!!」
履いてきた靴は皮袋に入れて、新しいそれの飾り紐の長さを工面してもらう。
椅子に座りながらあれこれと店員と話すのは若い娘の恋の話。
「素敵な彼氏さんですね。羨ましい」
「うん……すごく優しくしてくれるよ。たまに怖いときもあるけど」
「それ、何ですか?すごく不思議ですね。でも……綺麗」
彼女が示すのは傍らに置いた太極符印。
青白く光っては幾何学模様を浮かび上がらせる。
「これ?これは宝貝」
「宝貝?」
「うん。ボクたち仙人なんだ。だから、こういう所とかでお買い物とかしたことなくて……」
それが事実ならばきょろきょろと辺りを見回す彼女の仕草も。
どこか達観したような話し方の彼の素振りも。
納得が行く物だと少女は頷いた。
「仙人さまでも、恋人はいるんですね」
「本当は駄目なんだけどね。でも、好きになっちゃったからどーにもならないみたい」
知らない相手だからこそ言える惚気もあるから。
飾り紐を整えて、そっと脚に。
「ありがとう。すごく素敵」
「仙人様って占いもできるんですよね?私……恋占いをしてほしくて……」
小さく頷いて符印に指を掛ける。
「三日後に好きな人に告白してごらん。きっとうまくいくよ」
「本当ですか!?」
唇に指先を当てて。
「しっ……大きな声を出すと運命の人が逃げちゃうよ?」
「はいっ」
銀髪の仙人は、どこか不思議な光を持っている。
雑踏にまぎれても彼と彼女はきっとわかってしまう。
ほんのりと違う空気の色で。
「普賢、行くぞー」
「じゃあね。がんばって」
見上げる彼の横顔に、早まる鼓動。
見慣れているはずなのにまるで初めて意識したときのよう。
「ん?俺になんかついてるか?」
違う、と首を横に振って。
「んじゃ、俺があんまりイイオトコでぼんやり見てたか?」
「うん」
隣に並ぶだけで精一杯だったあのころ。
いつの間にかどこかで惰性が生まれていたのかもしれない。
馴れと親しみは情に変わって、それでもどこかときめきを求めてしまって。
当たり前という名のぬるま湯に浸かっていていた。
「面と向かって言われると照れるな……」
「道徳も服、変える?」
ふんわりと柔らかな胸が腕に当たれば、慣れなど吹き飛んでしまう。
(やっぱ可愛いよなぁ……俺、本当に駄目仙人……)
殺すべきはずの愛欲はますます燃えがってどうにもならない。
愛は罪深いほどに交われる厄介なもの。
生かすも殺すも自分の気持ち一つ。
「そうだな。俺も着替えるか」
今度は彼女があれこれと店先を覗き回る番。踵を鳴らしながらくるくると目を動かす。
そして彼が普段は選ぶことの少ない白の上着を手に取った。
「んー……どうしよう……」
黒髪と対になるその色にどうしても目が留まってしまう。
「これ?」
「ぅん……」
珍しく返事がはっきりとしないのは、彼女がこういう行為になれていないから。
恋人と街を歩いて出店を冷やかすことも、これが初めてのこと。
「んじゃ、これにするか」
手早く清算を済ませて今度は宿屋街へ。裏通りに入って少しだけ角を曲がった場所に
今夜の部屋を決めた。
青年と少女の組み合わせもさることながら目を引くのは彼女の容姿。
灰白の瞳と髪の少女など、まず滅多なことでは拝めないからだ。
「えーと、ここか」
言われた通りに進めば二人で泊まるには十分な小さな部屋。
椅子に腰を下ろして卓上に符印を降ろした。
「莫邪も置いていくの?」
「いや。俺のは懐に入るし」
途中、冷やかしついでに覗いた屋台で買った髪留めで、前髪をちょこんと留め上げる。
紫水晶の蝶が控えめに舞い飛ぶそれは、今度は枝の変わりに普賢の髪に。
「道徳がそういう格好してるの……なんだかどきどきするかも」
額に触れる彼の手が、いつもよりもずっと優しく感じるのはどうしてだろう?
唇を掠めるだけでも心臓が爆発しそうな感覚。
「荷物置いて飯食いに行くか」
「うん」
何時もよりも熱く感じる指先を絡ませて街へと飛び出して。
少しだけ甘え方を上手にして恋人同士でふらりと歩く。
「あ……ここ、寄ってみたい」
男の手を引いて入り込んだのは化粧品を取り揃えた小さな店。
所狭しと煌びやかな硝子瓶が並んで視線を奪う。
「女ってのはこういうのが好きだよな」
彼の呟きなど聞こえない振りをしてきょろきょろとあたりを見回した。
小さな瓶に閉じ込められた練香水はほんのりとした甘さ。
透き通るような桃色に引かれて、彼女はそれを手にした。
「これ?」
「うん。駄目?」
「全然。色も綺麗だしな」
何個あっても足りないと香油たちの数は増えるばかり。
けれども仙界から出ることの少ない彼女の楽しみの一つと、彼はそれを咎めた事は無かった。
「道徳、道徳。こっち」
「んー?」
試し塗りでもしたのか普賢の指先は鮮やかな緋色。御丁寧にどれも微妙に違う爪に
道徳真君は苦笑いを噛み殺した。
「手、出して」
「俺に塗っても気持ち悪いだけだろ。それに、男の手だぞ」
「ね、お願い。一本だけ」
上目遣いで強請られれば断りきることなど不可能に近い。
少女の最大の武器はその視線。
「わかったよ。ほら」
左手を取って色の付いた小さな刷毛を爪に滑らせる。
選んだのは深煎りされたような黒に近い茶。
中指一本だけを丁寧に染め上げて、くすくすと笑う。
「なんで中指?」
「内緒」
何時もと同じ仕草のはずなのに、ぐっと愛らしいのはなぜだろう?
小さな変化は日常を壊すための爆弾になって恋はますます加速する。
自分たちを知るものがいないときの彼女は、こうも少女めいていて。
普段のどこか落ち着き払った彼女の姿は影も形も見当たらない。
「何食べるの?」
「普賢は何食いたい?」
こんな他愛も無い会話がこれほどまでに愛しいと思える。
人の目など気にせずに甘える彼女の腰を抱いて、菜食専門と看板を下げた店に飛び込んだ。
「そういえば、俺……お前の食えないもん知らねぇや」
料理は殆ど彼女に任せきりで自分は待つだけ。
自分の苦手なものは彼女は知っているのに、自分は知らないということ。
「あんまり無いよ」
「あんまりってことは、あるんだろ?」
「んー……ぅん……」
出された前菜に箸をつけながら、うんうんと小さく唸って。
急かされるように額を指先で弾かれて、唇を開いた。
「擦った長芋が食べられない……」
「擦ったって……あのどろっとしたやつか?でも、お前よくそれに里芋とか茹でて肉
みたいに仕上げるじゃないか」
「そうすると食べられるけど、そのままは嫌なの」
炒めた竹の子を小皿に取り分けて、彼の前に。
最後の仕上げに出てきた豆の乳花を一匙掬う。
「はい、あーんして」
腕を伸ばせばふるん、と揺れる二つの柔らかな乳房。
今までのどれよりも甘い味が口の中いっぱいに広がった。
「楽しかったーーーーーっっ!!」
ぱたん…寝台に寝転んで少女は枕を抱いた。
ふかふかのそれに顔を埋めて、ちらりと視線だけを恋人に向けて。
「苛々とか吹っ飛んだか?」
「うんっ!!ありがと」
伸びた素足が誘うように煌いて、傍らに腰を下ろす。
瞳を閉じる彼女の髪を撫でながら額に軽く唇を降らせた。
「こーいうとこ泊まるの、初めて」
「たまには良いだろ?」
夕暮れ時を過ぎて、夜は更け行く。小さな灯り一つを残して薄闇を作ろう。
「……ふ…ぅ……」
唇が重なって舌先を絡ませる。ぴちゃり…離れようとすれば粘液が引き止めた。
呼吸器官を重ねて吐息を分け合うだけの行為。
ただそれだけのはずなのに、心がひどく乱れてしまう。
「ん…っ……」
「今日はここまでにしとこっかなー……」
「?」
生きて行くのには綺麗な思い出も必要だから。
彼女が楽しかったと思い出せる一日してあげたいと願ったからのこと。
「もう少し出かけるか?遊び足りないって顔してるからさ」
抱き起こして身支度を整えさせる。街は一時たりとも同じ顔などしないのだ。
「遊び倒すぞ、夜中まで!!」
「えええええええっっ!!!!」
「やらしいことすんのは、その後。まずは徹底的に遊ぶ」
くたくたになるまではしゃげることなど、もしかしたらもう無いかもしれない。
だから、切符をくれる彼の手をしっかりと握った。
「うん!!」
増してきた冷えに負けないようにと買い込んだ真白の羽。
普賢の首周りをふわふわと暖めて、彼女の幼さを妖艶さに変えていく。
「肉抜いてもらったから大丈夫」
小麦面は細めにきられて、野菜餡の中で泳ぐ。甘辛く味付けられたそれは体を温めてくれた。
「おいしー」
「屋台も楽しいだろ?俺が住んでたとこは港が近かったから出店とか行商が多くてさ……」
昔話を嬉しそうにするのは、本当に楽しいときだけ。
だから彼の話が聞けることを嬉しく思いながら耳を傾ける。
「よく親父に連れてこられた。兄貴たちが酒だめでさ、俺が代わりに鍛えられた」
「面白いお父様だったんだよね?」
「そ。ガキのころに俺を思いっきり叩き落したらしくて、ここに傷できたんだぜ」
前髪に隠された斜めに走る小さな傷跡。
彼と肉親を繋ぐ大事な大事な場所。
「困ったことに俺は親父似なんだよな……」
「じゃあお父様も格好良かったんだ」
「酒飲むと陽気さが倍になって、よくお袋に怒鳴られてた。やっぱ、遺伝子ってのは
出るのかもな。俺もなんか小言とか好きみたいだし。まぁ、お前限定だけども」
うろうろと歩けば、様々な視線が飛んでくる。
ある意味で外敵の無い仙界で過ごす少女の姿は、人間としては異質になってしまう。
(あれ……?道徳どっかいっちゃったかな……)
きょろきょろと辺りを見回しても彼の姿は無く。
(でも、すぐに見つけてくれるよね)
こんなときは自分のこの銀髪が彼を導く目印になる。
あまり動くのも手間を増やすとそこに佇む事を選んだ。
「どうしたの?こんなとこで誰か待ってんの?」
「うん」
少し冷えてきた指先に息を掛けて、彼女は小さく笑う。
「そんな男より、俺らと遊ぼうよ」
「駄目。それに、後ろで怖い人が睨んでるよ?」
誰かに声を掛けられるなど、いったい何十年ぶりだろうと呟く声と。
背後の男の気迫に逃げ出す姿。
「ったく、どこにも馬鹿は居るもんだ」
普賢の手を引いて、抱き寄せる。
「どこに行ってたの?」
「ほら、これ」
手渡された紙袋を開けば、立ち昇る甘い湯気。その香りでそれが何かはすぐにわかった。
「蒸かし饅っていろんな種類あんだな」
その中でふわふわと優しい桃色の餡饅を取り出して二つに割った。
「はい、はんぶんこ」
「好きだろ?俺はいいよ」
「ううん。好きだから、はんぶんこしたいの」
彼はたくさんの光をくれる。七色に輝いて、心を満たしてくれる彼だけの魔法。
寒さも接吻一つで消してしまう。
「あそこも、入ってみるか」
「うん!!」
手を繋ごう。ずっとこうしていよう。
「仙界入ってなかったら、こーいうこともあったんだろうな」
「でも、仙人にならなかったら……道徳に逢えなかった」
「ん?そんときはきっと、俺が攫いに行ったでしょう。仙骨あったんだし。ま、弟子に
手を出した大馬鹿者扱いはされただろうけども」
きっと、自分には彼以上の恋人は出てこない。
そして彼以外を望むことなども無いだろう。
彼と季節を重ねてゆっくりと老いて行けるのならば。
もう、過去を恨むことなどしないと思った。
「うぁ〜〜〜〜、死ぬ……」
椅子に座ってだらりと体を投げ出す。
「すごかったよねー。ボクも涙出ちゃった」
普段の疲れも取ろうと入った店は、指圧と美顔、そして按摩を主にしたところだった。
先に普賢を美肌(エステ)に送り出して、あれこれと考えて選んだのは特別仕様。
ちょうど出てきた恋人を連れて、二人で申し込んだ。
「うがあああああああっっっ!!!!」
「きゃあっ!!痛ったーーーい!!」
同時に始まる指圧に反応する叫び声。へろへろに力の抜けきった身体を引きずって向かった
別室では全身の指圧と按摩が待っていた。
ごきごきと首を回して歪みを直す。
肩や腕などの関節、腰への刺激は普段の疲れを存分に取り去ってくれた。
それでも爽快な疲れとすっきりとした視界はその効果を証明する。
「でも、気持ちよかったね」
「だな。あちこち疲れてんだろうな」
首巻きをそっと椅子に掛けて、寝台に腰を降ろす。
「お風呂入ってこようかな」
「おー……露天とかあったはずだぞー……」
「うん。でも、そこだと鍵掛けられないから、誰が入ってくるかわからないし……」
「?」
伸びた手が、そっと重なる。
「一緒に入ろ?」
仕上げは一番甘いもの。
取っておきの特別仕様。
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13:59 2006/02/09