◆運命の人◆
星に願いを掛けようにも、雪模様ではそれも叶わない。
素足に小さな靴では外にも出れないと小さく呟く。
「長靴でもあればいいんだろけども、その道衣(ふく)じゃなぁ……肩も出てるし
風邪引いてもしらないぞ」
「長靴欲しいな」
雪を唐傘で防ぎながら、ゆるりと彼女はやってくるのだ。
今しがたもそうして肩をぬらしながら来た。
「太公望のところに行くついでに、見てみるか?」
小さく横に振られる首。
親友であるはずの彼女のところに向かうのに、憚るべき理由は無い。
「喧嘩でもしたのか?」
「ううん。あんまり洞府を空けるのも問題があるんじゃないかなって。帰ってくるのに
時間も掛かるし、何かあったら……って考えるとね」
少し寂しそうな唇と、俯き加減の顔。
長い睫が伏せられて醸し出される物憂げな影。
(そうやってると……綺麗だよなぁ……)
手を伸ばしてよしよし、と頭を撫でる。
純粋であることは遠い昔に忘れてしまった。それでも、こうして誰かと肩を寄せ合えることの嬉しさ。
「さっきね、ここに来る途中に少しだけ雪がやんで空が見えたの。星が凄く綺麗で……それで、早く
道徳に逢いたいなっておもったんだ」
広がる夜空に輝石を溢したような星たち。
喉に入る空気の冷たさと比例する息の白さ。
「雪やんだら、一緒に見れるな」
「うん。あ、甘酒持ってきたの。あっためるね」
冬の寒さは二人の距離を詰めてくれるから、どうしても嫌いになれない。
「あ、俺も手伝う」
「そう?ありがとう」
雪菜を掘り起こす指先が割れないようにと、紫陽洞(ここ)にも彼女の愛用品が増えた。
馬油の乳液やら蜂蜜の入った美容液。
切子細工の施された硝子瓶の中に閉じ込めて、眺めては目を細める。
それでもお気に入りのものがやっぱり減りは早い。
ただ、その違いが彼にはいまだに解せ無いけれども。
「指、割れそうだな……」
左手を取って、その甲に唇を押し当てる。
「大丈夫だよ、ありがと」
心を殺すのは彼ではなく彼女のほう。生まれ来る嫉妬を封じて、修羅場は己の中だけで。
「いーや、全然大丈夫じゃねぇな。明日からちょろっと養生兼ねて出かけるか。紫陽洞(うち)と
白鶴洞(あっち)は慈航にも頼めば問題ねぇだろうし。はい。、決定!!」
「け、決定って何!?」
「心身ともに疲れきってる普賢さんに休日をってことだよ。ま、俺も一緒に休むんだけどさ」
ここ最近、彼女の笑顔に見える小さな曇り。
心労は気付かぬうちに彼女を追い詰めてしまう。
動ける場所も崑崙と精々西岐の一部だけ。
籠の中の鳥のような生活はこの先もずっと続くのだ。
「でも、どこに行くの?」
「普賢は行っておいたほうが良い場所だと思うけどなぁ」
含み笑いの恋人と、その胸を叩く小さな拳。
「陳塘関。家庭訪問と近況報告してやるのも悪くないだろ?」
かの地に降り立ったのは愛弟子を迎えるときのただ一度だけ。
異例の速さで宝貝を手にしたモクタクの修行風景を伝えたい気持ちは確かに在るのだ。
「うん。楽しみだね……でも、元始さま許可くれるかな……」
「ニ、三日空けるくらいだったらいいんじゃないか?雲中子だって普通に一月とか空けるし」
釣鐘星を追いかけながら二人で飛び出す理由を見つけて。
自分たちを知る人間が少ないところで羽を伸ばさせてあげたい。
「陳塘関ならナタクの件もあるし、仙人が紛れ込んだって誰も気にしないだろ?」
時々彼は、自分には思いもつかないことを言い出す。
それは暖かくて優しい光。
「俺は周で天化の親父さんには何度かあってるし。普賢だってモクタクのこと色々と
話したいだろ?」
「じゃあ、ちゃんとした格好……」
「堅苦しくないほうがいいんじゃないかな。俺も普通にしていく」
冬の寒さも君が居るから乗り越えられる。
無理はしないで一歩ずつ進んでここまでこれたから。
「あら!!あなたーーーーっっ!!モクタクのお師匠さまが来てくださったわよーーーっっ!!」
ぱたた…と走るのは李靖の妻の殷氏。
キンタク、モクタク、ナタクの母親その人。
「と言うと……白鶴洞の普賢真人様!!」
大騒ぎをしながら走ってくる二人を見ながら、普賢は笑いを必死にこらえる。
このにぎやかな二人が出会ったからこそ、愛弟子は自分のところに来てくれたのだから。
「お久しぶりです。モクタクの近況報告も兼ねて遊びにきちゃいました」
「嬉しいわ!!あら、そちらの方は?」
青年の姿に殷氏は視線を夫に向ける。
李靖は度厄真人の元で修行したことがある身。
ある程度の仙道の顔は知っているからだ。
「紫陽洞……清虚道徳真君様。ほら、武成王の息子さんの師匠に当たる方だよ」
「あら、じゃあモクタクのお友達のお師匠様なのね!!」
「いや、確か……お二人は婚約中なんですよね?師匠にそう聞いたんですが」
自分たちの予想よりもずっと噂話は饒舌らしい。
話し好きらしい殷氏の力もあって、女二人は急接近。
息子の活躍のあれこれに母親は手を叩いて喜ぶ。
愛弟子を誇れるのは師としても至上の喜びなのだ。
「女は話が長くなりますからね、昼間ですが酒でもどうですか?」
師表の中でも道徳真君は人当たりが良い事で知られている。
不真面目だと咎めて来ないのもまた彼の人柄だ。
「軽いものなら」
「ええ」
折角だからと部屋を用意され、断るのも受け入れることを選んだ。
それでもまだまだ日は高く、ほろ酔い加減は心を軽くする。
「モクタク、うちには滅多に帰ってこなくて……」
「うちにもですよ。あの子は良い足をもってるから世界中を飛び回ってるみたいで……」
「お兄ちゃんもナタクも……ナタクはたま〜に帰ってくるわね!でも、みんな良いお師匠様に
恵まれて幸せだわ」
こうして、愛弟子の話をその両親とする日など幻だと思っていた。
自分が出歩ける範囲はよくて西周。
話し相手も親友の太公望だけ。
「おにいちゃんはあのとーりの、のんびりやだし。ナタクはナタクで喧嘩っ早いところが
あるし。モクタクは調度良いけどあんまり背が大きくならなかったのよね」
「本人も気にはしてたみたいで。でも、剣術と武術を憶えるのが早かったのもモクタクです」
息子はふらりと帰ってきて、二言三言話してまたどこかへ行ってしまう。
「モクタクも言うけども、うちの師匠は崑崙で一番早く仙人になったって」
「あは……あの子、そんなこと言うんだ。来たばっかりのときはお母さんのご飯じゃないと
食べないってよく喧嘩もしたけど……あの子が来てくれて本当に嬉しかった」
まるで母親が二人いるようだと、青年は小さく笑う。
「道徳さまは家とかはどうなったんですか?」
杯に注がれた果実酒を飲み干して。
「家か…………どうなったんだろうな。俺が崑崙入ってもうじき四千くらいなるからなぁ……」
目を閉じれば今でも瞼の裏に浮かぶ家族の姿。
一度たりとも忘れたことは無い。
「俺が道士時代は、一回だけ家に逃げ帰ったな。母親が酷く年老いて……痩せた腕で俺を
抱いてくれた。そんときに、仙人になるまではもうここには来ないって誓った」
過去を多く話さない彼の、小さな昔話。
自分よりも若く見えるはずの青年は、仙となり悠久を過ごすことを選んだ。
それは肉親との永遠の決別。
「私も、あまりの修行のつらさに逃げ帰ってきた身です」
「度厄の修行はきついからなぁ。ま、雲中子とかよりは命に危険が無いだけ良いとしとけ」
彼の傍に彼女がいることが、いつのまにかあたりまえになっていた。
彼女もまた、帰るべき家などもう無い身なのだ。
「ナタクも、道行の言うことは聞くんだけどな。太乙が何か言えば乾坤圏でどーん!だけど」
男には男の、女には女の事情があるから。
だから恋をして愛を育める。
「三人も子供が居るってのがうらやましいな」
「私は出来損ないですが、息子三人は道士として頑張ってくれてるみたいですしね」
「修行したくなったら、俺でよけりゃ相手になるよ。剣術と武術とかだけど」
やせっぽっちだった次男は、戻るたびにその身体つきが変わっている。
鍛えられた身体と無駄の無い筋肉。腰に携えた呉鉤剣は師から貰ったものだと少しだけ
照れながら誇らしげに笑うのだ。
「モクタクの剣の稽古をつけてくれたのもきいてます。あんなに立派になるとは……」
泣き虫な割りに強情なところがあったあの日の息子は。
足早に階段を駆け上って男らしい顔つきになった。
「基礎は普賢がつけた。俺はちょっと手伝っただけだし。あとはモクタクの努力だな。
負けん気強いし、よく天化と手合わせさせて……どっちも実践で鍛えられて伸びる」
封神計画に三人の息子は全員出撃、その名を響かせる。
「帰る家があって親が生きてて逢えるなら、逢いに行って良いと思うんだ……古いしきたりは
俺らの代で終わりで良いんだ……」
彼の呟きは、静かに李靖の心に沈んでいく。
それは道徳真君がこぼした数少ない本音だったからだ。
「帰りたかったですか?」
「そうだな…………嫁の姿くらいは見せたかったな。子供は難しいだろうけどさ……」
それでも、共に生きて行く相手がいるだけでも幸せだと笑う。
噂に聞くよりもずっと思慮深く、穏やかな心を持つ青年。
彼が師表に座する意味が、なんとなくわかる。
必要なのは柔軟な考えと人間を捨てずに仙となったもの。
「今度は……そうだな、二人で帰れる家を作るのが目標になった。色んな噂、飛ばされてっけど
俺には一番良い相手だよ」
「私にも殷氏が一番の女です。本当に彼女に出会えてよかった」
そんな話が出来るのも同じ仙界で過ごした身だからこそ。
酌み交わす杯が時間を緩やかに流してくれた。
のんびりと夕食を終えて、与えられた部屋で身体を伸ばす。
酒の力も相まって、今宵は互いにどこか正直。
「ん?どした?」
抱きついてくる少女の頭を撫でながら、その額に唇を落とす。
掛かる息がくすぐったいと、そっと胸を押す手。
「モクタクね、すっごく大事にされてた」
「みたいだな」
花が風に揺れるように、穏やかな笑み。
「ボクのこと、お母様にいっぱい話しててくれた」
自分が思うよりもずっと、少年は自分のことを思っていてくれた。
普段は滅多なことではそんなことを言わないだろう彼を思えば、それが嬉しかった。
「ねー……帰れる家があるって凄くいいねー……」
「俺は、お前がそこにいてくれればそれで十分だぞ。俺が帰る場所は普賢だから」
「よっぱらいさん……どうして今日は気障な事、平気で言えるの?」
ぎゅっとしがみついて、胸に顔を埋める。
腕の中で包み込んで耳元でそっと囁く。
「そりゃ、俺だって好きな女の前だったら気障な事だっていえるさ」
「ふぅん……」
手を伸ばして首にしがみつけば、背中を抱いてくる腕。
抱き上げるようにして、視線を重ねた。
息がかかるほどの距離と瞳に宿る光。
「一人にしないでね……急に居なくならないでね……」
絡みつく不安を拭い去ることは出来なくて。
一人で眠る夜には死神たちの歌が聞こえる気さえする。
これ以上大切な人を失いたくない。
「家は一人じゃ作れないだろ?だから、俺は普賢を独りになんてしない」
君を知ったその日から失うことの恐怖を思い出してしまった。
それでもその暖かさが、声が、それを忘れさせてくれる。
恋は一人きりじゃできない。
指先は誰かと手を繋ぐためにきっと発達した。
「どきどきするのは……どうしてなんだろう?」
「お前も相当酔ってんな。明日は街中泊ってみるか」
「んー……一緒ならどこでも良いよ……」
小さな傘の下でも、君が居るから薔薇色の世界に変わる。
口付け一つで大河だって砂糖水に変えられえるのだから。
後ろから抱きしめられて瞳を閉じる。
「よかったろ?家庭訪問して」
「うん……ありがと……」
恋人の手をとってそっと頬に当てて。
彼がここに居て、確かに生きていることを確かめる。
「お父様とお母様が無事なうちは……帰れるときには帰ったほうが良いよね……」
それは崑崙の流儀には反することだろう。
それでも人間であることを捨ててまで得る物に、価値を見出すことは出来ない。
「燃燈もな……燃燈ってのは普賢の前に十二仙にいたんだけども……」
「うん」
「燃燈とか公主はさ、崑崙しかしらねぇわけで……それが全部なんだよな。父と母がいるのが
羨ましいって言われてさ……そん時に思ったんだ。いつか嫁さん貰って子供ができたら
そんなこと言わせないようにしようって……普通の家で、帰ってきたらおかえり、って
聞こえてくる。そんな風な家に……」
寂しいからきっと人は誰かを求める。
この小さな世界の上で、たった一人の誰かを求めて。
いつどこで出逢えるかもわからない。それでも、その人だとわかることの出来る何か。
欠けたものを探して歩き続ける。
「道徳も、寂しかった?」
「………………………」
「きっと……燃燈さんは寂しかったんだと思うよ……」
唯一つ心を暖めてくれた恋は、最も禁じられたあの人と。
戒律で気持ちは止められない。
「俺は幸せだ。こうやって普賢と一緒に居られる」
運命の人はいつだってそばに居てくれる。
「道徳が、寂しいって言える場所になれると良いな……」
静かに向き直して、膝立ちで彼を抱きしめる。
弱音など言わない彼の心を少しでも癒せるように、と。
この降り積もる雪のように、時間を重ねて何かを築いて。
「寂しい?」
「……昔はな……今は、お前が居るから……」
人間は寂しさを嫌って優しい嘘を重ねてしまう。
「今までは寂しかった……けど、もう寂しくないから……」
この思いが君に届きますように、どうかこのまま運命の人で居てくれますように。
いつまでもいつまでも、そばに居るから。
「結局、格好良い所なんて見せられないんだ、俺は」
「どうして?世界で一番格好良いと思うよ。少なくともボクにとってはね」
命は生まれてやがて土に還る。けれども自分たちはそこから外れてしまった。
穢れを知らないような雪は、この世界の悲しさを抱いて降ってくる。
それでもその美しさは誰かの心を優しく暖めてくれるのだ。
吐く息が白くなり、肌を刺す冷たい風。
手のひらで溶けてしまう雪はこんなにも冷たいはずなのに、暖かく感じてしまう。
「おやすみなさい……」
「ん…………」
眠りに着く彼の顔を見つめながら、思うことは。
この人がどうしたら幸せに笑ってくれるだろうということ。
互いの努力なくしては自分たちの関係は維持できない。
けれども、もしも。
もしも、少しだけ思い上がっても良いならば。
彼の幸せには自分が無くてはならないのだと思いたい。
(明日は……どこに行こうね……道徳……)
疲れた羽を癒せるのはその腕の中だけ。
聞こえてくる幸せの福音に目を閉じよう。
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16:12 2006/02/03