◆天球儀◆
上掛けに包まったまま、素足だけが覗く。
その足首に触れる唇に肢体が震えた。
「いたずらしないで」
そうはいうものの、嫌がる素振りは無い。時折くすくすと笑う薄い唇。
「あんまり意地悪しないでね。泣きたくなるから」
「んじゃ、やめとくか」
摺り寄せられる頬に、少女は瞳を閉じる。
「髭、伸びてるよー……」
細い身体を抱きしめて、男はその白い喉元に唇を押し当てた。
月が昇るよりも少し前にこうして絡まり始めて。
今は真夜中の半分あたり。
「そりゃ、俺も男だから髭だって伸びるさ」
「伸ばすの?」
「伸ばすの嫌なんだろ?」
じっと、見上げてくる銀色の眼。それよりも少しだけ濃い色の睫。
手を伸ばしてそっと普賢は道徳の背中を抱いた。
「だって、道徳が髭剃ってるところみるの好きなんだもん」
背中を見つめながら、彼女は一日の予定を組み立てる。
どうせ同じ計画ならば彼のことを見つめて思いつめたい。
「珍しい趣味だな」
「そう?望ちゃんだって天化の髭剃ってるところ好きだって言ってたよ」
冬の肌寒さは人恋しさをより強めてしまう。
いつ降るとも知れない真白の雪を待ちながら、こんな夜は二人で過ごしたい。
「もう一枚、上に掛けるのがあったほうがいいか?」
その声に、宝貝を引き寄せる。
裸のまま球体のそれを抱いて、空調を整えようとしたのを男の手が制した。
「?」
「部屋あったまったらお前が俺に抱きつく必要がなくなるだろ?」
周りから見れば相思相愛の間柄でも、いざ向き合えば揉め事は多々山のよう。
文句を言い合えばやむまでには夜になることもしばしば。
「そんなこともないけど……でも、そうしちゃおうかな」
「おいで」
差し伸べられるこの手の暖かさを、誰かに譲ろうなどと考えたことは無い。
この寒さのせいにしてもう一度肌を重ねた。
柿に刃を入れながら、どこまでこの皮を途切れさせずに剥けるかと鼻歌交じり。
「器用なもんだな」
「そう?文殊のほうが器用だよ。お皿とか作れるし」
「俺のは暇つぶしだ。キンタクなんざ壷まで作りやがる」
出された焙茶に男は静かに唇を当てた。
「壷何ざ増えても、中身がねぇからな」
土産だと渡される小さな壷。
「道徳にも教えてあげて。あの人、お皿割っちゃうんだよね」
普賢の言葉に文殊はくくく、と笑う。
色眼鏡の奥、鋭い光を封じた二つの瞳。
「そういや、いつだったかな。ガキが俺のとこに相談にきたことがあったっけな」
二つ目の柿を剥きながら普賢は小首を傾げた。
「聞きたい、っていったら怒る?」
「いんや」
「じゃあ、聞かせて」
浮かない顔で青年は男の前でうなだれる。
「おっさん、俺……なんでこうもだめなんでしょ……」
文殊広法天尊は先代からの師表の一人。
若い仙人にあれやこれやと慕われる。
「お前が駄目なのは今に始まったこっちゃねぇ」
「だってよー……普賢とうまくいったまではいいんだけども、それから一っっ回も
紫陽洞(俺んち)こねぇんだぜ!!俺から白鶴洞(あっち)行くっつってもそれも
駄目!!だしよー……遊ばれてんでしょうか、俺……」
がっくりと肩を落として道徳は卓上に顎を乗せた。
文殊は彼が道士見習いのときからの相談相手。
年上の男でもあり、老いたらこうありたいと願う理想の一つ。
「単にお前ぇが性欲捨て切れてねぇだけだろ、そりゃ」
「だって俺だって男だぜ」
「仙人だろ」
「ぅ…………」
仙道は殺戒と愛欲を禁じるというのが大前提に掲げてある。
師表に座するものならば手本を示すためになおさらだ。
しかし、事も在ろうか道徳真君が惚れたのは同じ師表の普賢真人その人。
「女抱くなって習ったろ?おめーも」
「まぁそうなんだけど……そうもできないって言うか……」
煙管でかつん、と青年の頭を打つ。
「いでっ!!」
「修行不足だな。お前も太乙も」
同期の親友もまた、先代からの師表に恋をした。
何かと悩みを打ち明けあうものの、解決には至らない。
死に至る病ともいえるもの、それが恋。
「文殊、女には興味無し?」
「ガキに興味はねぇな。六千も下の赤ん坊に突っ込んでも面白みねぇだろ」
「うわ、すっごい具体的で生々しい」
火を点けて紫煙を燻らせる姿。無精髭と色眼鏡の優男はのんびりと笑うばかり。
「大体な、おめーらは一緒にいるだけでこっちがこそばゆくなる様な空気作ってんだぞ。
その辺考えてんのか?」
彼が思うよりもずっと彼女は彼に恋心を抱く。
熱病にでも冒されたかのように潤んだ銀色の瞳。
吐息一つで湖さえも砂糖水に変えてしまえるほど。
「俺と普賢が?」
多少強引でも、彼女の心を開いたのは確かに彼。
「お姫さんは身持ちかてぇのか?」
「宝貝合金並に……」
遊びなれたこの男がこの体たらく。相手はなかなかの難関らしい。
「花でも持っていけ」
「もうやった」
「どっか連れていけや」
「それもやった」
あれやこれやで攻め立てても、鉄壁の防御の前には成す術無し。
火の無いところにさえ噂が立つのだから、火種のある自分たちならそれは予想以上の大火事に
なってしまう。
だからこそ、彼の腕を少しだけ拒んでそれを封じた。
「黄巾で二人乗りしてどっか行け」
「!!」
ぱっと顔を上げるものの、再び卓上に頭を乗せた。
「空中散歩じゃ見るもんねぇよ……」
「そこは俺に任せろ。仙桃十個で引き受けてやらぁ」
頼もしい言葉と物々交換。小さく頷いて青年は岐路に着いた。
庭の紫陽花を一枝もって白鶴洞に降り立つ。
呼吸を整えて扉をたたけば返って来る小さな声。
「こんばんわ。どうしたの?」
間近でみれば鼓動は高鳴り、抱きしめたいという欲求に駆られる。
宥めて賺して飲み込んで、平静さを取り繕う。
「散歩に行かないか?」
「こんなに暗いのに?転んじゃうよ」
「夜のお散歩。黄巾使ってさ」
そういわれてしまえば断る理由も見つからない。何よりも断りたくないと心が決断を下す。
差し出された手を受け取って、隣に並ぶ。
じっと見上げてくる瞳に、どきんとしてしまうこの心の行方。
(もっと近くに寄れないもんかな……)
ほんのりと冷えた肌と、小さな爪。
「おいで、安全運転なら良いだろ?」
こくん、と頷く小さな顔。
「道徳と一緒なら、どこでも良いよ」
少しだけ濡れた唇が、もっと誘ってと言っている様で。
肩を抱きながら飛びそうになる気持ちを抑えた。
「ボク、黄巾操縦するのあんまり上手じゃないから嬉しいな」
自分の前に座らせて、抱くようにして操縦桿を握る。
上着をきゅっと掴む指先と、胸に持たれる頭の重み。
「気持ちいいねー」
「そっか?良かった」
目指すのは文殊に指示された金庭山上空。
師表の一人、道行天尊の住む玉屋洞がそこある。
(文殊、何をしてくれんだろうなー)
星の無い新月の夜。月だけが酷く優しい。
頬を刺す風の冷たさを理由にして、青年は少女をそっと抱きしめた。
長椅子に座り込んで、一組の男女が空を見上げる。
「西瓜なんざ食ってるとは思わんかったがな」
巻き毛を簪でくるり、と留めて女はけらけらと笑った。
「儂が手塩に掛けて育てた西瓜ぞ?甘さも大きさも申し分ない」
皿に盛り付けた季節外れの果実に、仙女は目を細めて被りつく。
「太乙にゃ見せらんねぇ姿だな……道行」
煙管を銜えて文殊は小さく笑う。
「肥料は太乙に作らせた。今頃乾元山に白鶴が届けておるころじゃ」
「あの鳥が素直に聞くとも思わんがな」
伸びた素足はまだ二十代も頭の辺り。薄緋の爪がくすくすと笑う。
「道徳がのう、儂のところにきて土下座して『仙桃十個譲ってくれ!!』といったんじゃが……
おぬし、裏で何か噛んでおらぬか?」
「表で手助けしてやってんだよ。人聞き悪ぃこと言うなや、道行」
「ほう……おぬしが『男』の頼みを聞くとは珍しい。女子(おなご)の頼みならいざ知らず」
もしゃもしゃと玉蜀黍に噛りつく。一本握ってその先で文殊の頬を突いた。
「して、何をする気じゃ?」
「ま、ガキの恋愛の手助けっちゅうわけじゃねぇが……」
瑠璃瓶を構えて、文殊は親指で眼鏡を軽く押し上げた。
「百連発でもお見舞いしてるかと思ってな。清虚道徳真君の名に懸けて、普賢は守れよ?
おガキさまよぉ」
次々に発射される薬弾を、仕上げとばかりに女は水飴片手にのんびりと見上げた。
広がる味もまた、たとえられないこの甘さ。
「ほう……見事じゃのう……」
空を埋めつく光の華。生まれては消える魔法の洪水。
「今のおぬしだったら、抱かれてもいいと思うがな」
「やめてくれや。俺ぁ好きな女抱いて幻滅する趣味はねぇんだよ」
「意気地なしは変わらんのう」
切り枝に飴を巻きつけて、道行は男の口にちょん、と突き付けた。
少しだけ舐め取って首を振りながら「この味は苦手だ」と文殊が呟く。
まだ終わらないと花火は咲き乱れる。
昔話の思い出に浸れるように。
そして、生まれたての恋人たちのために。
「すごーい……」
間近で見る花火の鮮やかさに少女はため息をつく。
肩を抱き寄せれば、安心したかのように凭れて来る細い身体。
「ありがと……こんな素敵な眺め初めて」
ゆっくりと近づいてくる唇に、瞳を閉じる。
その瞬間最後で炸裂する閃光弾。
「!?」
「や……何……!?」
莫邪の宝剣を取り出して、降りかかる火球を切り裂きながら少女を護る。
こんなときに限って太極符印は布団の上。
「俺の後ろに隠れてろ!!」
いつでも、どんなときでも彼は自分の前に立って自分を守ってくれる。
それは作ったものでもなく義務でもなく、極々自然な動作。
周りから見れば滑稽だと思える姿も。
彼女にとっては何よりも愛しくて誇りに思えるから。
「あぢっっ!!」
「道徳!!」
空の上ではどれだけ騒いでも誰にもその姿が見えない。
だから、君を抱きしめて何度も何度も「大好き」と囁こう。
「あのときの火傷の跡、まだ左肩にちょっと残ってるよ」
時間は少しだけ流れて、曰くはあるが二人はいまや仙界で知らないものは居ない仲になった。
変わってしまうもののなかで、変わらないものも少しだけあるということ。
そして、あの時よりもずっと彼を思う時間が増えたということ。
「そりゃ良い記念だな。おっと、これも渡すんだったな」
陶器でできた美しい球体。描かれたのは流れる水と緩やかな雲。
「これは?」
「ん?天球儀って奴だ。ま、俺も聞きかじったもんで作ったから適当だけどな」
表面を指先で撫で上げて、描かれた星を指でなぞる。
「そろそろあいつも来るだろうし、俺ぁ家に帰るかな」
「今度、モクタクつれて遊びに行ってもいい?」
「俺んとこなら道徳も心配せんでもいいだろうしな。適当な食い物もって遊びに来いや」
彼がいつか、ああなりたいと言う男の背中は。
どこか父親にも似ていてそれでいて兄のようにも見える。
「うん、おいしいもの作って遊びに行くね」
ひらひらと振られる手。
見送って静かに頭を下げた。
ゆっくりと瞳を開けて、男の目を見つめる。
銀色の二つの眼はどこか宝石のように妖しく優しい光をもつから。
「昼間ね、文殊が遊びに来てくれてこれをくれたの」
小さな天球儀を指先でくるくると回す。
それを彼の指がそっと止めた。
「今度はこんな景色を見せてくれる?」
「そうだな。今度はこれだな」
君の指がこうして触れてくれることが何よりも幸福だから。
冬の一番最初の雪はほかでもない気味と一緒に見たい。
このさきも、ずっと。ずっと。
「お、雪……」
「本当だ……寒いわけだよね……」
柔肌の温かさを確かめるように後ろから抱きしめる。
君と出会ってから人生を憂うことなど、無くなった。
きっとこの先も。
「風邪引くからこっちおいで」
「うん」
はらはらと舞い落ちる粉雪。
最初の足跡を君とつけよう。
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23:33 2005/12/04