◆苺月夜に杯を◆





「ん?普賢の眼鏡か?」
床に転がる眼鏡を拾い上げて、光にすかしてみる。
少しだけ細工の施された縁取りは少女の可憐さを引き立たせるためのもの。
(目なんか悪かったかな?)
少しだけ歪む世界に眉を寄せて、二度ばかり頭を振った。
「気持ち悪くなってきた……何なんだ」
当の本人はのんびりと台所で茶支度。
「普賢!!」
少しだけ苛立ちの混じった声に、少女が顔をのぞかせる。
「そんな怖い声出さないで」
「こ、怖い?」
「うん」
篠籠の中にあれこれと詰め込んでなにやら秘密に準備をして。
男の腕に細腕を絡ませてそっと見上げた。
「お花見に行こうと思ってたんだけども……ご機嫌はいかが?道徳師兄」
触れる柔らかな乳房の感触に息を呑む。
慣れていたはずでもいつでも恋人の誘惑は魅惑的だ。
「いや……悪くはないが……」
「不精髭そのままでもいいから」
指先が男の顎先に触れる。
重なった視線と銀色の瞳は光をそのままに写し取ったかのよう。
「剃る…………夜桜でも良いだろ?」
「じゃあ、お茶じゃなくてお酒が良いね」





揺らめく月光はまるで水葉に似ていて、儚げなのに強かな女の横顔。
並んで歩けば若草が足に絡まる。
「たまにはいいな。お前とこんな風に歩くのも」
目指したのは青峰山の山中。
二人だけが知っている秘密の場所。
「昔、天化が逃げて……あの時、あなたもすっごい顔して探し回ったよね」
「あいつは脱走が趣味だったからな。しかも、お前に逢いに行ったんだぞ」
「教悦至極。子供には珍しい髪の色だったからかなぁ」
「きれいなお姉ちゃんに逢いに行く!!だもんな。そのおねえちゃんは俺のだっつの」
桜の古木の下に二人で座して。
小さな杯に清酒を注いで少女は男に勧める。
「どうぞ」
風に舞い散る花びら一枚。
浮かんで告げる春の香り。
番傘を一つ、敷布と一緒に遊びで掲げた。
いつもの道服に絡ませた羽衣が幻想を描いて光を生む。
「仙女にゃ変わらないんだけどな……天女ってやつか?」
「違いがわかんないよ。ふふふ」
返杯されたそれに同じように口をつける。
薄紅色の唇は夜に映える魔性の色香。
意図せずとも男を狂わせようとしてしまう。
「な、膝借りても良いか?」
「どうぞ」
寝転んで少女の膝の上に頭を乗せて。
ほほに触れる指先に瞳を閉じて、すぐそばにいてくれる恋人に思いを馳せる。
今宵満月、百花繚乱。
「昔、あなたと出会ったときも桜が咲いてたね」
「……………………」
「折に触れて、いろんなことを思い出す。その中の一つ一つにあなたがいてくれるのが
 嬉しくて……幸せだなって思うんだ……」
花びらが舞うこの空間に二人ぼっち、二人きり。
一人では知り得ることのできないこの幸福感に浸ってしまおう。
「もうちょっとしたら百年になるのかな?」
「この先の何千年もずっと一緒だと思うぞ」
「そうだね。嬉しいな……本当に素敵な人とめぐり合えたの……」
ほろ酔い加減は恋人たちに魔法をかけてしまう。
「ねぇ、もしボクがいなかったらどうしてた?」
それは考えても見なかった世界。
そこにあることが当たり前だとおもっているからこそ、想像もつかない。
「つまんねぇ日々過ごしてたんだろうな。俺」
「?」
「人を好きになるってことを忘れてた。完全に人間捨ててたんだよ。けど…………
 お前と一緒に居るようになって、嬉しいこともいやな事も全部ひっくるめて俺に
 戻ってきたんだ。なぁ、普賢……お前はもしも仙道にならずに済んでたらどうした?」
あのまま一族を率いて、勝ち目のない戦に身を投じる。
名もない戦士としてその命を散らしただろう。
仙となり人を捨てて得た幸福。
現在(いま)は過去(だれか)の犠牲の上に成り立っている。
「気まぐれな仙人さまが拾ってくれるのを待ってたかな?」
「女の弟子、取り損ねた。もっとも、俺が拾っても竜吉公主行きだっただろうけど」
しっかりと膝を抱いて男は満足げに笑う。
「何を言ったって、何もかわりゃしねぇんだ。俺はお前を愛してるってことも」
「……馬鹿……」
染まる頬に綻ぶ唇。
君の声が耳にしみこんで、この夜を一層妖艶にしてくれる。
「なぁ、お姫さん」
伸びた指先が小さな唇に触れて。
「たった一つ、願いをきいてくれや」
呼吸さえもできない。
風も止まる、青い夜。
「俺が死ぬとき、目を逸らさないでいてくれ」
彼の手をとってそっと頬に当てる。
流れる涙もそのままに、ただそうすることしかできなくて。
「この手を……ボクは離さない……っ……」
「離したっていいんだ。ただ……目を逸らさないでいてくれりゃ……」
どうして桜は美しくて悲しいのだろう。
彼の告白はいつも唐突で、ただ一つの願いはかなえたくはないもの。
かなってはいけないものなのだ。
永遠を生きる仙道に死は存在しない。
けれども、すぐ近くまで来てしまった運命の足音。
「離さないっ……!!ボク、ボク……ずっと道徳と一緒にいる!!」
「泣かすつもりはなかったんだけどな……」
起き上がって涙を払う指先。
鼻先に悪戯に触れた唇に瞳を閉じる。
「悪い冗談だ。酒が過ぎた」
「嘘……酔うほど飲んでない……」
重なる唇と分け合う呼吸。離れたくないとしっかりとしがみついて来る腕。
「これから酔うから良いんだ。な、普賢」
こつん。額が触れ合った。
涙交じりの視線が重なって、少しだけ笑う。
「綺麗だな」
「うん。桜……素敵だよね……」
「お前がだよ」
耳を通り越して、輪まで赤くなればそれはきっと春の悪戯。
「もぉ……大馬鹿なんだから……」
「男なんて惚れた女の前じゃ誰だって大馬鹿だろうよ」
抱き寄せた肩、ほんのりと吹き行く暖かな春風。
「俺がじーさんになって、普賢がばーさんになって。んでも太公望とか相変わらずうるせーの。
 最高だよな……孫弟子とかもっと下もいんのかもなぁ……」
小さな小さな夢を語るくらい、きっと許される。
古木はずっと世界の流れを見てきたのだから。
願うことすべてがかなう世界など存在はしない。
いつだって試されて揺らされるのだから。
「ん?」
「ボクのお願い聞いてくれる?」
「おう」
肩にもたれて、瞳を閉じる。
「いつか、お嫁さんにしてね。いつかでいいから」
油断は禁物、唐突に降ってくる爆弾はよけきれない。
「俺の最後の女はお前だよ、普賢」
この空間にただ二人だけで存在して、何もかもを忘れてしまえたらどんなに幸せだろう。
この熟れた月はまるで苺のようで。
ざわめきを殺して本能だけを呼び覚ましてしまう。
「あ!!」
敷布にそっと倒されて組み敷かれる身体。
重なった手と視線。
「嫌か?」
「嫌じゃないけど……」
手を伸ばして甘えるように肩口に顔を埋める。
「ここじゃないとこが良いな。そのほうがしっかりとあなたを感じられる」
崩れるように折り重なって、心音を一つに絡ませる。
百万回の愛してるよりも、一度の抱擁で暖め合いたい夜もあるように。
「たまにゃそういうの抜きで呑むか。お前とこうやって酒呑むなんてそう、ないからな」
一人でなく、肩を寄せ合えること。
月光にまぶしい唇に散り行く、切ない花。
「仙人なんて究極の暇人だ」
「少し、いじってみようかな?」
手のひらに乗せられた小さな球体。
青白い光を放って空間を歪曲させていく。
一瞬だけゆがんだ星空が今度は一面の展望に。
それはいつか見た星の海を写し取ったものだった。
「この傘もそうだし、だったら……ね、たまにはきれいでしょ」
「すげぇな……どうやったらこんなもの作れるんだ?」
「太極符印の簡易版だよ。そこまで高度なものでなくても遊び程度ならこんな風にできる。
 あ、そうだ。お酒だけじゃなくて果物も持ってきたんだけども……合わないかな?」
苺を取り出して、そっと唇に押し当てる。
赤い果実は甘くて出会ったころの気持ちをよみがえらせるには十分で。
「甘いな」
「良いのが取れたんだ」
舌先が少女の指をなめ挙げる。
「お前の指が、な」
「やだ……誰に感化されたんだか」
「もう一個」
「自分で食べたら?」
「俺、苺よりもお前が食いたい」
耳元に触れる唇と、ささやく声。
内緒話は誰にも聞かれないように。そう、あの月と桜にさえも。
「愛でるか。花を」
「うん」
不確定な世界で君に出会えた。離れることがないように。
悠久を生きるものたちにさえ絶対は存在しない。
憎しみだけでは花は咲かないのと同じように、人は誰かを探してしまう。
回る世界はその速度を速めているのに、たった二人で取り残されよう。
「酔っ払っちゃった」
「嘘吐け。お前がこの程度で酔うわけないだろ」
「どうしてだろ?道徳とお酒呑むの久しぶりだからかなぁ?」
腕を絡ませれば柔らかな乳房が触れる。
その手をを取って甲に降る唇。
まるで御伽噺の二人のように、この小さな箱庭に息衝く。
「俺も酔ったかもな?」
「嘘吐き」
「酒じゃんくて、お前に」
君の大きな背中いとしくて、追いかけていた。
いつの間にかその腕に抱かれるようになっていた。
ただ守られるだけではんく、互いに支えあえるように。
依存しあうだけの関係は要らないと。
「大好き」
「こんの大嘘吐きが」
「ひどいなぁ」
月さえも笑う夜ならば、君と二人で見上げていたい。
真っ赤な月が恥ずかしそうに見つめるから。
見せ付けられるだけ見せ付けて、たまには人間のふりをしよう。
「もう少し酔わせて口説くか」
「期待してみようっと」






君の声が唯一つの誘淫剤。
『月も見れないようなところが良いな。そのほうが本能まっすぐで楽しいでしょう?』
鎖骨からずっと下、指先で確かめて。
『あなただけが見てくれればそれでいいから』
『視姦か?そりゃ』
『見るだけでいいなら、それでも』
『足りねぇな。確かに』




今宵満月百花繚乱。
乙女乱れ咲く苺月夜。



13:49 2008/04/14

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