◆檻◆




「なんのつもり?」
少し気の強そうな瞳。
穏当な外見にそぐわず、睨みつけてくるその目が欲しい。
後ろ手に縛られたその手には仙気を封じる枷。
その細く白い足首にも同じように鎖を絡めた枷が喰いついている。
何度も外そうと試みたのか、赤く擦り切れ血が滲んでいた。
傷は乳白の肌を赤く犯し、その存在を誇示する。
「外して」
「外せって言われて外すと思うか?」
「道徳」
紫陽洞の奥深く。廃墟に似た場所に彼女は幽閉されていた。
破邪の符は全ての気配を消し去り、誰にも気付かれることは無い。
「なんのつもりか……困ったな。理由が見つからない」
優しく笑う瞳。それなのに底知れぬ恐怖を感じた。
ここに封じられて三度目の月を見た。
手を伸ばしても、届くことのない外界。
「そうだな、お前があんなこと言うからだな……」
引き裂かれた道衣は既に布きれと化して久しい。
「人間に戻るなんて……」
小さな顎を取って口付ける。
押し退けるための手は縛られ指は空しく動くだけ。
「おとなしく待ってろよ。後でまた来るから」
髪を撫でるその手は確かに恋人の手で、愛しかったはずなのに。
裸同然の姿。
未だその瞳は屈することなく生きていた。



始まりは些細な一言だった。
「全部終わったら……?」
「そう、この封神計画ってやつが全部終わったら普賢はどうする?」
何気なくそんなことを聞いてみた。
いつものように普賢は書物に目を通し、道徳はそれを見ながら珍しく同じように兵法の書を紐解く。
より効率的なトレーニングを考えるには書物も必要だ。
「そうだね……どうしようかな……」
少し困った顔をして、普賢は小さく笑った。
「人間(ヒト)に戻ろうかな」
「え……」
「悠久の時を生きるより、ヒトに戻って死のうかな」
既に一族は絶えて最後の一人が普賢真人。
仙人として生きながらえるよりも人間に戻るという。
「なんで……」
「だって、あなたは僕を残して逝くから」
時間の退行が遅いだけであって仙道にも死は訪れる。
「あなたが死ぬのを見るのが嫌だから。だったらボクが先に逝く」
「でも、今更戻ることなんて……」
「とりあえず決めてるのはそんなことかな……」
納得の行かない言葉で頭の中が少し混濁する。
「俺の気持ちは……?」
「あなたもボクのことなんかすぐに忘れるから」
不安に苛まされる夜は終わらない。
噂に聞くのは下山した時の話。女官たちは挙って彼を囲むのだという。
その度に少しずつ胸に刺さる棘。
抜けない棘は、奥に奥に刺さっていく。
「お前は俺のこと忘れられるのか?」
「忘れられないよ。だから、ヒトに戻ろうと思う」
少しだけ、悲しそうな瞳。
「あなたのことを思いながら人として死のうと思うよ」
言葉はあまりにも残酷で無力。
手放すことが出来なくて、ずっと傍に置いていたくて。
先走った感情は彼女を閉じ込めることに集中した。
「ボクは仙人になってまだ日が浅いからね。きっと大丈夫」
それは自分に言い聞かせるような言葉で。
その言葉が彼の中の枷を外した。



四度目の月を虚ろな表情で見上げる。
ここは音も風も湿度すらない。
「普賢」
「……何?」
「お前って意外と根性とかあるよな」
ふい……と顔を背ける。自分に出来る精一杯の虚勢だ。
どう足掻いてもこの枷は外れることは無い。
無駄なことをして悪戯に体力を減らすことは避けたかった。
「我慢比べしてみるか?」
「…………」
「お前が勝てたら、ここから出してやるよ」
「本当に?」
「ああ」
影を落とした顔は、表情が読めない。
その時彼は暗い笑みを浮かべていたのだ。
「嘘なんか付くはず無いだろ?普賢」
口移しで飲まされたのは小指の爪ほどの丸薬。
喉を堕ちる感覚と、それが弾けて溶ける感触が神経を走り抜けた。
「……何……これ……」
「頭の良いお前ならすぐに分かるよ」
体中に広がるのは甘い感覚。枷が擦れるだけでも熱くなるのが分かる。
「さて、我慢比べと行くか。普賢」
「……や……」
乱暴に組み敷かれて舌を吸われる。
ここに封じられてから何度犯されたのか、もはや憶えてはいなかった。
何度蹂躙されてもまだその目は諦めることなく、生きている。
あたかも思い通りにはならないと言う様に。
「…っ……ふ……」
ぴちゃぴちゃと音を立てて口腔を犯され、掛かる息だけで痺れが回る。
(……何の薬……嫌……)
唇が離れてようやく許される呼吸に肩が震えた。
「良い友人を持つと便利だよな。さすがは太乙と雲中子の共同作品。効果もきつそうだ」
(……何のために……そのなもの……)
光を失わない目は道徳を軽く睨んだ。
灰白のその目。いっそ抉って飾っておきたい。
「これだけで濡れるんだから、今から面白そうだな、普賢」
首筋に降る唇。強く吸われてまるで噛み付いたかのような痣を作っていく。
「ああっ!!」
「どれだけお前が正気でいられるか……この薬が全部無くなるまで平気だったらここから出してやるよ」
目の前で振られたのは小さな瓶。透明の入れ物には琥珀色の丸薬が中程まで詰まっていた。
(……嫌……気をしっかり持たなきゃ……)
思う心とは裏腹に振られるだけで身体は跳ねる。
「やぁっ!!やめ……っ!!!」
舌先で乳首を嬲られ、上がる悲鳴。時折立てられる歯。
痛みすら快楽に変えてしまう。
「やだっ……!!」
「いくら叫んでも外には聞こえない。好きなだけ叫んで良いんだぞ」
そのまま、つつっと舌は濡れながら下がり、腰骨を軽くなぞる。
程よい柔らかさのその身体は幾度と無く愛し、どこが弱点なのかも知り尽くしていた。
わざとそこを外し、枷の付いた足首に接吻する。
「はっ……ん!!」
親指を舐められて、その爪を吸われた。
(……どうにか……しなきゃ……)
足首に付いた枷には長い鎖が繋がれている。右と左を繋ぐ同じく仙気を封じる鎖。
(……力じゃ勝てない……どうすれば……)
力の入りきらない脚で蹴り上げてみる。
その足首を掴み道徳は力任せに捻り上げた。
「痛っ!!!」
「まだそんなことできるのか……やっぱりお前根性あるよな」
愛液の溢れた入り口を指先が掠めるようになぞる。
「…あっ!あんっ!!!」
びくびくと震える腰。押さえつけてくる手すら刺激になる。
人差し指が関節一つ分だけ沈むと、肉壁は従順に絡み付いてきた。
「やぁっ……やめて…ッ……!!」
「嘘言うなよ。だったらなんでこんなに濡れてんだよ……」
焦らしながら、指を増やす。それでも浅く出入りを繰り返すだけ。
「どうして欲しいか言ってみろよ」
涙目。声を上げたくなくて唇を噛んだ。
「抱いてください、お願いしますって言ってみろよ」
「……やめて……嫌……」
悲しげな眼。まだ彼女は自分を保とうとしている。
溺れることよりも、選んだ未来を進むために。



うずくまる様に身体を丸め、自分を保つためにさまざまな思考をめぐらせる。
薬は道徳が去る前に必ず与えられ、身体は絶えずその効能に犯されている状態だ。
(ボクは……なにを見てきたんだろう、あの人の……)
自分を犯す男が、酷く悲しげに見えるのは何故だろう。
「見える物だけが真実じゃない……見えないものを見ようとすること…誤認と誤解……」
うわ言のように呟きながら、目を閉じる。
意識を集中させることで自我の崩壊をなんとか引き伸ばす。
それだけが普賢に出来ることだった。
(……今日で五日目……忘れちゃダメ……憶えておかなきゃ……)
ただひたすら耐えて体力の低下を防ぐ。
彼が戻ればまた同じように犯されるのだから。
五度目の月は欠けた半月。昔二人で見上げたことを思い出した。
(……ヒトに戻るのは……あなたのためだよ……)
あの日々にはもう、戻れない。
「普賢」
「…………」
「そう睨むなよ。面白いもの持ってきてやったんだから」
そう言い道徳はそれを取り出した。
(……首輪……?何のために……)
それを普賢の首につけて、金具を止める。繋がれた鎖の元は彼の左手に。
「!!」
強く引かれて、向う脛が大地に擦れる。
「いい格好だな。そうしてると」
「……酷い……」
「どっちがだよ。人間に戻るなんて言うほうが酷くないか?」
傷だらけの身体と、少し腫れた乳房。
「まだ、まともなんだな……さすが十二仙。いや、崑崙一の才女か」
斜め下を見ながら俯く顔。
「こっち見ろよ。ちゃんと俺のほうを」
じゃらじゃらとうるさい鎖。
「…ぅ……んっ……」
「お前の場合は俺なんかと違って攻撃の殆どは宝貝に頼ってるんだよな」
「……あ!…はぁ…ッ…!……」
荒々しく乳房を掴まれる。
ちゅっ…と音がして唇が突起を噛んだ。
「ああんっっ!!!」
甲高く甘ったるい声。
「こんな時、逃げようがないってことだ」
「……もう……やめて……っ……」
人形のようにされるがまま。普賢はただ、涙をこぼした。



月も無い新月の夜。光も何もない空間。
(今日で……半月……忘れちゃダメ……)
額に浮き出る汗が髪を誘い、体力を少しずつ奪っていく。
「起きてたのか?」
「……………」
「昼間、太公望に会ったよ。お前のことを探してた」
(……望ちゃん……)
「何か書庫から持っていったみたいだけれども……伝えてくれって言われたから」
じゃらじゃらと伸びた鎖。
「……望ちゃんには……何もしないで……」
掠れた声。それさえも劣情を刺激するには十分で。
「太公望に?俺の趣味じゃない。そっちは天化にでも任せておけば……」
「あなたまさか……天化に何かさせようっていうの!!」
それはここに封じられてから久しく見ることの出来なかった彼女の狼狽する顔。
「そんなわけないだろ?第一、天化はそんなこと出来るようなやつじゃない」
「……そう……良かった……」
ほっとしたような表情を浮かべた。
「他人よりも自分の心配をしたらどうだ?」
「やっ!!」
強く鎖を引かれて、首が絞まる。
「……外して……こんなの嫌……」
同じ答えと分かっていても、言葉が見つからない。
後ろ手に縛られた両手。もがいて出来た爪痕が痛々しかった。




「のう、道徳。普賢はどこに居るのだ?」
激務の合間を縫って太公望は旧友に会いに崑崙へと戻ってくる。
二人は同期ということもあるがそれ以上に同性ゆえの親密さがあった。
「ああ、俺も最近見てないんだ。本当にどこにいったのか……」
平気な顔で嘘がつけるようになった。
「普賢と話したいことがあったのだが……それと数冊書物を借りようと」
「書物?いっておくから持っていったらいいんじゃないか?」
太公望はじっと道徳を見つめる。
黒曜石の眼は何もかもを見透かすかのように一瞬だけ、微かに歪んだ。
そして何もなかったかのように笑った。
「そうさせてもらうか。すまぬ」
「ああ……」
目当てのものを胸に抱き、太公望は椅子に腰掛けた。
「茶でも入れるか?」
「珍しいこともあるよのう。遠慮なく戴くが」
この道士は自分の弟子と恋仲である。
もっとも、相手は天化のみならずなのだが。
道徳の動きを太公望はその眼で追いかける。同じであって同じではない。
(何を隠しておる……?)
悟られないように。
素知らぬふりで全てを凝視する。
「そういえばのう、人間の三大欲求は知っておるか?」
「三大欲求?」
「うむ。食欲、睡眠欲、性欲の三つ。この三つのいずれかの崩壊が、人間の崩壊を導くらしい」
出された茶菓子を口にしながら太公望は尚も続けた。
「仙道たるものはさしずめ二大欲求というところか。性欲は殆どなくなるらしいからのう。
まぁ、おぬしの弟子には言うても無駄のようだが。どうにもこうにも人の寝床がいいらしいぞ」
太公望の目が細く笑う。
「まぁ、それはおぬしとて同じだろうがな」
「……………」
「大仙たる十二仙の一人。いっそ仙道を辞めてみるか?」
「それもいいかもな。おれは嫉妬の塊だ……」
「……普賢は、おぬしが何をしようと、受け入れるだろうて。あれはそういうやつじゃ。
他人を傷つけるならば自分は傷つくほうを選ぶ。あれは強く脆い……自分を守る術を知らぬ。
だが……少しばかり安心できるのはおぬしが普賢を守る力があるということだ」
太公望の顔と普賢真人の顔がぼんやりと重なっては消える。
この二人は目線が同じなのだ。
そして抱える憂いも同じ。
「なんにしろ、あれはおぬしのことを好いておるからのう」
「……と言われたよ……」
「?」
「封神計画が終わったら人に戻るといわれたよ」
「え……」
「それで少し喧嘩をしたらこの有り様だ」
自嘲気味に笑う顔が、いつもよりも歪んで見えた。
「……まぁ、普賢の性格はわしよりも熟知しておるだろうからおぬしに任せるが……
あまりあれを泣かせるようなことはするな。わしにとっても大事な相手じゃ」
「ああ……そうだな……」
「わしは帰るよ。普賢の機嫌が直ったらまたくるとしよう。話も山のようにあるしのう」
見送られ、太公望は周へと帰っていく。
風の中に姿が消え、やがて何もなくなった。




(今日で……十八日……まだ……大丈夫……)
じんじんと痛む足首の感覚。それは生存の証、そしてまだ自我があることの証明だった。
「お前少し痩せた?」
まるでここに来る前のような声。
同じように顎を取られ、唇が重なる。
「外してやろうか?手枷」
「……………」
今までに無いくらいに優しい瞳。
「まぁ、タダじゃないけどな」
髪を強く引かれて、上を向かせられた顔。
噛んで切れた唇の端。少し赤く腫れていた。
「……っ……歯は……立てんなよ……」
後ろ手に拘束されたままの手が痛む。
舌を這わせて、なんとか相手の気を逸らさせようと。
「……唇も……使って……」
たどたどしく上下させて、甘く吸い上げる。
「…!!……」
鎖を引かれて、その反動で喉の奥まで差し込まれて咳き込む。
それを許さないとばかりに頭を押さえられ、強要された。
「……結構……上手いよな……お前……」
引き抜かれて、髪を強く引かれた。
「乗れよ。自分で動け。そしたら外してやるよ」
言われるままに腰を沈める。薬の効果も相まって身体は意思に反して甘い悲鳴を上げた。
両手で腰をつかまれ、逃げようとする度に強く繋がれる。
「!!……あっ!!やぁっ……!!」
「嫌だったらなんでそんな声……出すんだよ……」
「だって……こんなの……」
泣き腫らした顔。
「やだ……道徳……」
回る、回る、無常な夢と。
繰り返す嫉妬と骨まで溶かすような激情。
強く背中を抱かれて、息が上がる。
「……苦し……っ……」
「何でだよ!!何で人に戻るなんて……」
出口は見えない。
ただ、二人だけ、ここに居る。
心に相反するように身体は熱く互いを求めてしまう。
本当に欲しい何かを除いたままに。




かちり……と音を立てて両手が開放される。
擂れて出来た傷は赤錆色でその肌を惨めに汚していた。
「どっちにしてもそろそろ外さなきゃいけなかったしな。関節がやられる」
「………」
やけに腫れの酷い左手首を普賢の指が摩る。
化膿しかけた傷口。いっそこのまま腐り落ちてしまえばいい。
この悲しい想いと共に。
「酷いな、傷」
「…………」
「見せてみろよ」
ぐい、と掴まれて傷口を舌が這う。滲んだ血液も何もかもを吸い取るように執拗に動き回る。
「薬……塗ったほうがいいな」
「ありがとう」
「なんだよ」
「さっき、関節がやられるって……」
「ああ……そのあたりは俺の専門だからな」
細い指が頬に触れる。
少しだけ何かが掠めたような傷を、そっとなぞり上げていく。
「……傷……出来てるよ……」
「ああ、昼間にちょっとな」
傷を消したいとばかりに、指がそっとその小さな傷を辿る。愛しくてたまらないと。
「……………」
ばさりと上着が掛けられ、腹部に暖かさを覚えた。
けれど、本当に暖かいのは身体ではなくもっと奥底の別な部分。
「寒いだろ。だから……」
「ありがとう……嬉しい……」
「でも、ここからは出さない。絶対に」
その膝に頭を乗せる。まるで昔の日々に戻ったかのように。
その髪に降る指も何もかもが、あの時と同じ。
でも……戻れないことは知っている。
「……道徳、聞いてもいい?」
「何を?」
「ボクが居なくなったら、悲しい?」
「…………………………」
「ボクが、封神台に行ったら……どうしてた?」
答えは無いまま、二人でこの閉鎖された空間で目を閉じる。
ただ、何かを探すように。






指先で土に文字を書く。無くした筈の自分の昔の名前を思い出しながら。
「何書いてるんだ?」
「昔の名前……でも、思い出せないんだ……」
人間に戻るのならば「普賢真人」の仙人名は返上しなければならない。
奥底に封じてしまった記憶は簡単に戻ることはなく、思いつく名を順に書いていたのだ。
「人間に戻るなんてやめろよ」
「決めたことだから……」
強固な意志は崩すことが出来ない。それは過ごした日々で熟知できていた。
「どっちにしてもここからは出れないぞ。どう足掻いたってここは俺の仙気で管理されてるからな」
「…………」
ただ、悲しげに俯く姿。
「どうしても出たかったら、俺を殺せば出れるぞ」
「そんなこと……」
「博愛主義の普賢真人様だから出来ないってか?」
「博愛でもないよ……」
書かれた文字を消して、もう一度指を滑らせる。
「自分の名前も思い出せないけれど、あなたの名前だけは忘れない」
一文字、一文字、指先はその名を刻んでいく。
「……………」
「…やっ!!」
鎖が現実に引き戻す。繋がれている限り、ここから出ることは出来ないのだと。
「お前って飾り気無いだろ?太公望とか道行と違って」
「…………」
「ほら、これ綺麗だろ?下山した時に見繕ってもらったんだけどな」
掌には小さな耳飾。青水晶で作られた小さな蝶。
力を入れてしまえば壊れそうなそれは、彼女を思い起こさせた。
裏側から伸びた支柱に金具を入れて留める。
至極簡単なつくり。
「でもな、これって耳に穴開いてないとダメなんだよ」
「……や…やだっ……」
自然と身体が引き気味になる。
「大丈夫だよ。すぐ終わるから」
「やめて!!嫌!!!!!!!」
ぶつりとした針の感触。耳朶を貫通し、鈍い痛みが広がってくる。
刺された部分が熱く、じんじんとした感触に力が抜けていく。
針の代わりに耳元で舞う二匹の青き蝶。
「…っ……ぅ……」
「泣くなよ。可愛い顔してるんだから」
「どうして……っ……」
痩せた指が道衣を頼りなく掴む。
「どうしてだろうな……俺にもわからないよ……」
二十三度目の月は物悲しく、赤い雫をこぼす。
ここに封印されたのは哀れな少女。ただ、されるがままにその身を晒す。
痛む身体を抱きながら、ただ、日々が過ぎるのを待つだけ。



気付かれないように細心の注意を払う。
拘束されてはいるが、動きの取れるぎりぎりの範囲まで手を伸ばす。
破邪の封印と道徳真君の仙気の二つでもって管理されているならば、片方だけは外すことが可能だ。
陰陽の文字を小さく、小さく、彼に決して見られることの無いように刻み込んでいく。
今までの日々で大凡だが道徳真君の行動時間はある程度読めるようになってきていた。
確実な時間にのみ、普賢は文字を刻み付ける
(あなたが思うほど……ボクは……優しくなんて無いよ……)
岩盤にも垂れて息を潜める。
おそらく時間的に崑崙でも少しは騒ぎ立てて居る頃だろう。
(道徳のことだから……上手く……言ってるんだろうな……)
耳朶も、身体も熱く、普賢真人はため息をついた。
「憂い顔だな」
「……ここから出して……」
「嫌だね。最高じゃないか。俺とお前。二人だけしか居ないんだぞ」
屈みこんで普賢の頬に手を当てる。
「もう……こんなこと……やめて……」
耳を彩る蝶のように、翅を留められ動けない。
ここは展翅の箱。ただ、死に行くのを待つだけの箱。
「!!!」
懇願する声はもう要らない。
欲しいのは……その心だけ。
「あっ!!!やだぁっ!!!」
きつく乳首を噛まれて、逃げようとする腰を押さえつけた。
浮いた腰骨はやけに誘いがちに見えて、強引に足を開かせる。
「痛っ!!!道徳やめてぇっ!!!」
濡れた指先が後ろの窄まりに侵入していく。
「やだ!!!やだぁっ!!!!」
暴れる身体を締め付けるように押さえて組み敷いた。
「道徳!!!!」
「言ったろ?お前は俺の物だって」
その声が何かを崩した。
ぽろぽろとこぼれる涙と、無気力に光を失った瞳。
ぼんやりと小さく開いた唇。
「……さ……ま……」
ドクン。
「普賢……?」
今までに無い反応に道徳真君は怪訝そうに普賢の顔を覗き込む。
「兄……様……」
ドクン。
「……普賢……」
少女は恍惚した表情で男の首を抱いた。
「兄様……どこへ行ってたのですか……?私を置いて……」
懐かしむような瞳が、嬉しそうに笑う。
封印したはずの過去は決壊した水のように彼女を飲み込んだ。
「もう……どこにも……行かないで下さい……」
彼女が見ているのは自分であって自分ではない別の男。
しかし、それを考えることすら押さえるような笑みで彼女は笑うのだ。
「普賢……」
「兄様……?私の名前は……」
「ああ……すまない……」
「どこにも行かないで下さいね……兄様……」
腕の中の少女は幸せそうに笑った。





「普賢の家族?」
まくまくと桃を齧りながら大公望は道徳真君の方を向いた。
「ああ。聞こうとしたら核融合食らったからさ……」
ひりひりとする頬。仙気で防護壁を張らなければ全身大火傷であっただろう。
「あれも一族は全滅してるはずだが……そういえば……」
顎に手を置き、ふんふんと大公望は一人頷く。
「腹違いの兄が一人おったはずだ」
「腹違い?」
「うろ覚えだがのう……昔そんなことを言っておった気がする」



十二仙のうちの二人が姿を消して数日。
さすがに問題だと思い始めたのか捜索活動が行われていた。
「兄様……」
細い腕の中、男は目を閉じる。
何も必要ない。
ここで、ふたりで朽ちていければそれでいい。
「ずっと……一緒に居てくださいますか……?」
「ああ……ここに居るよ……」
仙道であることも、人間であることも放棄して。
ただ、寂しい魂が二つ。この籠の中でゆらゆらと揺れている。
生暖かい肌の感触と湿った肉。
それだけがここでの存在証明。




はがれた一枚の札の欠片。
(破邪の封印……道徳の文字だ……)
大公望はそれを拾い上げて、前を見つめた。
ぼんやりと浮かんでくる異空間への入り口。
(……普賢……そこにおるのか……)
おそらく対峙する相手は道徳真君。攻撃力だけを取るならば十二仙で最も強い男。
打神鞭を構え、意を決して内部へと足を踏み込む。
「!!!」
ばちばちと雷華が散り、拒絶するように空間がゆがむ。
「普賢!!!!」
「……しないで……」
男の身体を胸に抱き、少女は太公望を見つめた。
「兄様と私を離さないで」
「……それはおぬしの兄ではない。おぬしの兄は……八十年前に死んだのだ」
「嘘だ!!兄様はここにいる。約束を守って戻ってきてくれた!!」
二人の手が重なり、空間の歪曲と圧縮が強くなっていく。
「道徳!!」
「すまない……太公望……俺は……」
歪みが限界に近づいて。
「こいつと一緒に……堕ちる……」
「普賢!!!その男を見よ!!兄ではない!清虚道徳真君、おぬしと同じ十二仙の一人だ!!」
風の壁で身を守りながら大公望は手を伸ばす。
「おぬしの兄は死んだのだ!!あの日……おぬしのその手の中で!!!」
真っ赤に染まる視界。
剥がれてしまった感情は行き場を失い、ただ溢れるだけ。
血に染まった手。
自分を守り盾となり、兄は槍に串刺しになり果てたのだ。
「あ、あああ……嫌……」
誰も傷付けたくない。強い自己犠牲が産まれた瞬間。
自分の名前すら思い出せないように、彼女は一切の過去を奥底に封じたのだ。
「嫌ぁぁぁ!!!!!」
叫びと共に空間が破裂する。
ただ、静寂だけを残して。






培養液の中、普賢の身体は生れ落ちたままの姿で横たえられていた。
担当に当たったのは雲中子。
同性のほうが良いだろうという配慮からだ。
その細い身体には暴行の後がはっきりと見えるほど。
いくら同期であっても弁護の仕様が無かったと雲中子はため息をついた。
一途過ぎる思いは、方向を間違えてしまえば凶器となる。
ましてその力と想いが強ければ強いほどに。
「酷いね……薬じゃ治らないよ」
「普賢は……」
「心が壊れてる……しばらくは絶対安静。面会も太公望だけだね」
全身に繋がれた管が痛々しい。
彼女の命を繋ぐのはこの管と薬液。
「道徳は……」
「協議に掛けられてる。元始様は痴情の縺れ……にして降格処置だけに留めるんじゃないかな」
「そうか……」
硝子の箱の中、閉じられたままの瞳。
「また……皆で騒げたらいいな……」
「そうだね……昔みたいに……」
海水に似た培養液の温度は、彼女の身体を包み込む。
まるで胎内に戻るかのように。
それから数日がたち、季節がゆっくりと変わり始めていた。
「……………」
「普賢?目が覚めたのか?」
「雲中子……ボク……」
身体を起こすのを手伝いながら雲中子は眠っていた数日のことを普賢に話した。
「そう……あの人は……?」
「封印牢の中だよ。さすがに十二仙の一人を篭絡したから罪は免れないみたいだけれども」
「……罪……」
壊れるほど、愛してくれた。
それが罪になるのならば、同じように彼の心を奪ったまま消えようとした自分も同罪のはず。
ただ、男と女。力で勝てなかっただけで。
「身体を洗っておいで。それから食事をとる。まずは元気になれ」
「うん……」
湯気を従えながら、謁見様の道衣に着替える。
久々に感じる衣擦れの感触と、まだ少し痛む肌の感触がせめぎ合う。
「元始様に会いに行こうと思う」
「それで?」
「あの人を……」
「無理だね。道徳はそれ相応の罰を受けなければならない」
「罰……」
うつむく顔。
「それでも、行かなくちゃ……」
誰かを思う気持ちが罪というならば、罪人ではないものだと存在するのだろうか?
心に歯止めを利かせながら生きることはとても辛く引き裂かれそうになる。
(……罪に問われるのはボクのほうだ……)




教主殿の奥深く、幾重にも張り巡らされた鎖。
その中央の結界の中、道徳真君は座して印を結んでいた。
「面会は数分だけです」
「分かってるよ。ありがとう」
一歩一歩近付いて、指を伸ばす。
「………」
周辺の空気に触れるだけでびりびりとまるで電流が走るかのような感触。
「道徳」
「……普賢……どうしてここに……」
「元始様に許可をもらったの」
普賢真人は屈み込んで、道徳真君と目線を重ねた。
「人間に戻るんだろ?」
「うん……」
「早く行けよ……でないとまた……俺お前のこと……」
普賢の手がすっと伸びて、結界に触れる。
「!!!!」
「普賢!!何やってんだ!?怪我するだろ!!??」
「早くっ!!!そこに……」
剥がれた爪。肉を裂いて滴り落ちる真っ赤な血液。
それでもなんとか内側にたどり着くのは十二仙の一人の力。
「早くっ!!!」
躊躇いがちにその手を掴む。
「ああっ!!!」
傷だらけになりながら狭く、動きの取ない陣の中に二人の身体が納まった。
「普賢………」
「良かった……そんな顔しないでよ……」
耳の奥で、男の声がこだまする。
「ごめんね。道徳……」
ぼろぼろの身体は、癒える事など無く。
崩壊した心は彼女の命を確実に蝕んでいたのだ。
ただ少しだけ違えた思いを、どうして拒むことができただろう。
嘘偽り無く愛してくれたという記憶を。
「……大好き……」
「普賢……?」
「……道徳のことが、大好き……ずっと、ずっと……」
最後に見えた笑顔は、悲しすぎるほど優しくて。
生涯忘れ得ぬものとなった。
「ごめんね……本当はずっと一緒に居たかったの……でも……」
唇が動くたびにその端からは血が零れる。
「あなたに置いて行かれるのが、嫌だったの……だから人に戻って……」
咳き込む背中をそっと抱きしめる。
「あなたを思って、死のうと考えた……ごめんね……馬鹿なこと考えて……」
力なく伸びた指先は震えて。
それでもどうにか恋人に触れたいと。
今この瞬間は。あの時と違わぬ恋人同士に戻れたのだから。
腕の中、身体は光の粉になり、さらさらと消えていく。
そして、魂魄が一つ、出口を求めて彷徨った。
「普賢!!!!」
内側からは決して破ることのできないその結界。
彼女は最後に愛した男のためにその身を挺して結界を破壊したのだ。
封印を解くために散った魂魄は、転生も叶わぬほどに消えてしまう。
それでも、彼女は恋人をこの忌まわしき牢獄から出したかったのだ。
自分の心を光の下に導いてくれたように。



闇の中、ただ一人。
今は無き恋人の幻影にとらわれる。
骨の一欠も残さずに。
すべて奪って消えたあの人を。
「普賢……」
未だはその心は。
魂の檻の中に。
彼女の居ない季節は、色を失いただ流れるだけの日々と化した。
四季を愛して、空を見上げるあの小さな姿はもうここには無い。
(お前の居ない日々を、俺はこれからどうやって過ごせばいいんだ?)
この檻を開くその鍵は。
今は亡き恋人だけ。
とらわれた心は永遠に、彼女のものになった。
『大好き、ずっと、ずっと』
在りし日の幻影は頬を撫でて彼を閉じ込めて離さない。
耳に、唇に。
冷たく脆い影が触れてはさららと壊れていく。





幻覚に溺れる日々は―――――――終わらない。





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23:55 2004/05/07







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