◆夏の魔物◆





「こうも暑いと死ねるな……」
額に浮かぶ汗を拭って、道徳は首を捻った。
「こんなに暑いのに、どうして腕なんて怪我したの?」
肩口の見える部屋着と、超短裙(ミニスカート)から覗く脚。
陽の光の魔法は、どこか淫靡な色をそこに加える。
「ちょっと捻ったんだ。自分でも馬鹿だと思ってるよ」
「そんなことも思わないけど……あなた、どうやってヨウゼンの所に行くの?」
先日、四不象が西周からの書状をもって正式に彼の所に依頼に来た。
そしてその内容に問題が大ありだったのだ。
「ヨウゼンの相手をするのに、その腕じゃダメなんじゃないのかな」
「片手がつかえりゃ、問題ないだろ?」
包帯の上を、指先がちょん、と突く。
「でっ!!!!」
「怪我してるからダメ。断ってくるよ」
背中が開いた上着と、肩甲骨。
手を伸ばして、その誘う腰を抱き寄せたい。
「お前の黄巾の操縦は、あんまり上手いとは言えないぞ」
「でも、片手じゃ無理でしょう?だったら、ボクが行くしかないじゃない」
だったら先に着替えさせなければと思う男心。
狼の群れに肉を投げ込む必要は無い。
「俺も行くよ。断るにしても、当人が行かなきゃ駄目だろ?」
「そうだね。じゃあ、いこっか」






白布と麻の色袷の妙。灰白の髪がそこに艶を与える。
少女を後ろから抱く形で、操縦席に二人で乗り込む。
「暑くない?」
「いや。太極符印(それ)って便利なんだな。涼しくて気持ち良い」
「うん。室温とかも操作できるからね」
慎重に総縦貫に掛かる手の上に、無傷の右手が重なって。
「もうちょっと、加速しても大丈夫だぞ」
「本当?未だに上手に出来ないの」
密着した体制で、そのまま左手も同じように重ねる。
「きゃ!!」
「日が暮れる前に着きたいだろ?お前の夜間飛行はちょっと危険だ」
夜の散歩は、ゆっくりと星を眺めながら。
何も予定をいれずに二人だけで楽しみたい。
「そんなに下手でも無いと思うんだけどなぁ……」
「あとで氷菓子(アイス)やるから、黄巾の操縦だけは控えてくれ」
そこまで言われれば、流石の普賢でもしゅんとしてしまう。
項垂れる横顔に唇を当てて、機嫌を窺ってみる。
「何でもかんでもできると、俺が寂しいんだよ。必要とされなくなる」
意外な言葉に、目だけで男の顔を見つめた。
「そんな事無いよ。道徳が居なくなったらボク……悲しくて、どうにかなっちゃうよ……」
夏の風は、小さな本音を呼ぶ匂い。
むせ返るような熱さの中で、本能だけで交わりたい。
「本当はヨウゼンとか玉鼎みたいな奴の方がお前には似合うんだろうな。本の話や
 歴史の見解とかぶつけ合うこともできるだろうし。俺にはそっちは無理だからさ」
空中でその動きを停止させて、少女は振り返った。
男の顔を覗きこんで、視線を重ね合わせる。
「本当にそう思ってるの?」
「…………………」
「だったら、どうして一緒に居るの?どうして……」
「本気で思ってるわけ無いだろ?俺ほどお前に似合う奴なんていねぇだろ」
抱きついてくる身体を受け止めて、右手で髪を撫でる。
適度な不安は人生の香辛料。入れすぎ混ぜすぎには細心の注意が必要。
素材の味は殺してしまわないように。
「馬鹿……」
「悪い。試すつもりじゃなかった」
触れるだけの接吻と、甘い言葉。それだって大事な味付けになる。
「本とか読まなくたって良いんだ……ボクが読めば良いだけでしょう?」
「うん……」
日が沈むまでには、目的地につけば良い。
こうして、二人で喧嘩できるような関係の方が自分たちには心地良いから。
「寝るときに聞かせてくれよ。そのほうが俺には良いと思う」
「子供みたいだね。そのほうが好き?」
「いずれは子供だって授かれるさ。予行演習だと思えば良いだけだろ」
自分と彼との間に、もう一つの命を。
陽の当たるこの場所で、二人でそれを待ちながら今日も夜を迎えるのだ。
君と出会えたこの幸せを、毎晩祈るように。






まだ午後の暑さは肌を焼き、呼吸を妨げてくれる。
額の汗を拭いてくれる細い指先に目を閉じたのは、依頼主のほうだった。
「利き手を負傷なさっては、道徳様でも剣は持てませんからね」
「持て無い事も無いんだけどな。お前が期待するような稽古はつけられない」
剣術だけなら、師である玉鼎真人に仰げば良い。
それをせずに道徳真君に頼み込んだのは、彼の総合的な剣術と武術を体得したかったからだ。
玉鼎真人は剣術と間合いで相手を詰める。
道徳真君は力と多角的な視点で相手を打ち砕く。
「では、今の僕は利き手の無い道徳様よりは上だと捉えてよいのですね?」
「見てみないことには分からないけどな。天化や太公望じゃ三尖刀とは合わないだろ?
 槍を使うって言ったら黄竜とか……」
ふと目に止まるのは傍らの恋人。
少しだけ熱線に染められて赤くなった肩口が愛らしい。
「普賢、お前どうだ?」
「何が?」
「お前、槍使えるからさ。様子見でヨウゼンと手合わせしてみないか」
「いいけど、この格好で?」
短い裾から伸びる、魅惑的な脚。
屈めば、覗く胸の谷間。
「明日着替えを買って来てから。今日は無理だろ、陽が傾いてる」
「うん。ボク、望ちゃんの所に行って来ても良い?」
「ああ、行っておいで」
道衣ではなく、部屋着でゆるりと現れたのはそれだけ戦意を持たない証拠。
無駄な事はしたくは無いと、男は首を振った。




一度話し出せば、夜中であろうが止まる事など知らない。
「ははははは、阿保じゃのう。剣士が腕を痛めるとは」
「あんまり言わないで。回復も早いはずだから」
前菜を小皿に取り分けて、道徳の手元に置く。
普段ならばここで終らせるのだが、利き手が使えなければ箸も持て無い。
「口開けて」
「ん」
端に手を添えて、そっと口元に箸先を向ける。
「師叔!!俺っちにもあれやって!!あれ!!」
「師叔!!僕も!!」
「太公望!!」
我も我もと叫ぶ男達を尻目に、太公望はため息をついた。
「武吉」
「はい!!おっしょーさま!!」
一番弟子を自負する少年が、炒めた筍を小皿に取って匙で掬う。
とろり、と蕩けた餡が甘みと旨みを含んで生み出す芳香。
「はい、あーんしてくださいっ!!」
「うむ」
あれこれと世話を焼かれても、焼くのはお断りだといわんばかりの視線。
「天化、おぬしは香草を残さず食えるようになれ。ヨウゼン、おぬしは煮豆じゃ。
 発、おぬしは国王なのだからわしらとではなく旦たちと食事は取れと何度も言うておろうが!!」
少女の言葉にくすくすと、普賢が笑う。
「道徳も、春菊食べれるようになろうね」
「いや、あれは人の食うもんじゃねぇから」
里芋を団子にして、香草の餡を掛けたものを口にしながら苦笑いも一緒に飲み込む。
「いいけどね。一個くらい食べれないものがあった方が、作り甲斐もあるし」
その言葉に、男三人は声を失った。
「す……師叔!!あんなこと言ってるさ!!」
「師叔!!なんだったら僕が食事を作ります!!」
「太公望の手料理食いてぇええええ!!」
両手で耳を塞いで、少女は顔を顰めた。
「わしは良妻賢母には向かんのじゃ。甲斐甲斐しい女が好みならば他所を当たってくれ」
追い縋るように手を取られて並べられる愛の言葉。
まるで眼中に無いと、二人は勝手に世界を作ってしまう。
「腕、痛く無い?食べにくいでしょ、ごめんね」
「いや、食わせて貰えるだけでもありがたいから。箸も持てないってのは大失態だ」
「治るまで紫陽洞にいようか?何も出来ないでしょう?」
右手が小さな頭に触れて、そっと髪を撫でる。
「そうして貰えると、嬉しい」
「うん」
誰かの視線を気にするよりも、この夏の魔法を利用するだけ利用したい。
「氷菓子(アイス)食べよ。暑くて死にそう」
「飯食ってるだけでも汗かくくらいだしなぁ」
口の中で蕩ける果実の冷たさ。他人の喧騒は適度な音楽。
唇を染めるのは甘い言葉の方が良い。
「御風呂、どうしよ……片手じゃ服も着れないし……」
「身体とかまともには洗えねぇな」
「一緒に入ったほうがいいよね」
「そうだな。それに、そのほうが時間もゆっくりと使えるだろう?」
服を脱ぐことすら儘なら無いのだから、それも仕方が無い事。
そして、その言葉にまた男達は反応してしまう。
「師叔!!俺っちも師叔が一緒なら風呂入るさっ!!」
「太公望師叔!!御背中でもどこでも洗います!!」
「俺もお前と一緒に一回でいいから風呂場であんなことやこんなことをしてみてぇんだ!!」
あれこれと並べられる御託に握り締められる打神鞭。
「えーい!!!うるさいわ!!だったら腕の一本でも折ってこんか!!」
風の刃が室内を駆け巡り、逃げ惑う男達に少女二人は顔を見あわせた。
くすり、と笑って氷菓子に手を伸ばす。
「馬鹿の相手は疲れる」
「楽しそうで良いね、望ちゃん。人数がいればいる分だけ、楽しいでしょ?」
困った顔で視線を投げても、親友にはすぐに見破られてしまう。
この騒がしい毎日が、愛しくてたまらない。
「ボクは、この人だけで十分だけどね。適材適所があるみたい」
「わしはもう少し迷ってみるよ。そう焦ってもどうにもなるまいて」
匙で掬って、男の口に冷えた果実の菓子を運ぶ。
羨ましげに見つめてくる男達の視線を無視して、道徳はそれを飲み込んだ。




組紐と金具を外して、上着を脱がせる。
包帯を解けば、赤く腫れた腕が目に飛び込んだ。
「痛いよね、これじゃ」
「朝よりは大分ましになってるよ。そう、心配しなくてもいいぞ」
右手が腰を抱いて、唇が重なる。
ちゅ…と舌先が離れて糸を引いた。
「悪戯するなら、一人で入りなさい」
「俺を見捨てるか?普賢」
「え……?」
「もし、この先に俺が動けなくなったり、目が見えなくなったりしたら……」
頬に触れる右手の熱さ。
「その時は俺を捨てて、自分の生きたいようにするんだ」
ゆっくりと自分たちは老いて行く。先に仙人となった彼は、いずれは自分を残して逝くのだ。
肉体の老いは、どうにも出来ない事。
今はこうして若々しくいられるが気の遠くなる時間を得て、自分たちも朽ちていく。
「……ヤダ。そうなってもボク、道徳と一緒にいるもん……っ……」
「どうやったって、俺はお前に面倒掛けるぞ」
「それの何が悪いの?何がおかしいの?どうしてそんなことばっかり言うの?」
腕一本の自由が利かないだけで、これだけ何もできなくなる。
老いればこれが腕だけではなく、全身に広がるのだ。
「自分のしたいようにしてる、だから、一緒にいる」
「俺の目が見えなくなって、ろくに動けなくなったらどうする?」
男の手を取って、少女はその掌に指先で文字を認めた。
ゆっくりと、目を閉じてもそれを理解できるように。
「毎日、こうやって色んな事を話すよ。あなたの目になって、今度はボクが手を引く」
「…………………」
「道徳が御爺ちゃんになるころ、ボクだって御婆ちゃんになってる。一緒に動けなくなって
 ぼんやりと隠居するのも一つの方法でしょう?」
ぽろぽろとこぼれる涙を払う細い指。
その指先を取って、唇を押し当てる。
「そうだな……俺はうるさいじーさんになってお前に叱られるんだ」
「……うん……っ……」
「まだまだ、お前を守れる力はあるんだしな。気の遠くなるような話をしたって……っ!?」
ぎゅっと抱きついて、胸に顔を埋めてくる少女を痛む左腕で抱き締める。
「もっと、良い子の方が好き?もっと、大人しい子の方が好き?」
「人形みたいな女は好きじゃないんだ。我侭でも癇癪持ちでも俺は、普賢が好きだよ」
涙色の夜明けも、幸せの青空も。
君がいるからこそ、その色彩を感じることが出来るから。
「目、赤くなっちゃったな……なんか……」
「なぁに?」
「いや、兎みたいだなって」
銀の髪に赤い瞳。悪戯に心をくすぐる小さな白兎。
「俺はお前から見たら熊なんだっけ?」
「んー……うん……」
「はははは。抱きつぶさないように気をつけないとな」
裸の身体が向かい合わせで二つ。
恥かしげに小さな兎は先に扉の奥へと消えて行った。
(あんまり、馬鹿な事は考えないようにするよ。お前の涙には慣れちゃいけないんだ)
未だに身体に傷が絶えないのは、修行を怠らないから。
それでも、傷が増えるたびに恋人は悲しげな瞳になる。
「普賢〜〜〜!?」
ぱしゃ!と頬を打つ水鉄砲。
「あはははは!!避けられなかった?」
「お前なー、風呂で遊ぶなっていっつも俺に言ってないか?」
追いかけるように浴槽に飛び込んで、逃げ回る少女を追いかける。
やっとの思いで捕まえても、するりと腕をすり抜けていく。
「ね、これも出来る?」
浴巾を取り出して、小さな球体を作り出す。
「上手に出来ないの」
「貸してみな」
同じようにしても、彼が作るほうが形が美しい。
それを見つめて、普賢は道徳と向かい合わせになるように身体を置いた。
「天化がちっこいときにな、こうやって騙して風呂に入れてたんだ」
「お父様みたい」
「子育てには協力するほうだぞ、良い親父になれるようにがんばるからな」
「きっと、凄く賑やかな家になるね。楽しみ」
繰り返す甘い接吻(キス)は、触れるだけなのに肌が熱くなってしまう。
「やー……腕、痛いのに……」
耳朶を噛んで、ふ…と掛かる息にびくん、と肩が震えた。
「ここじゃ、ダメ……」
「違うとこなら、良い?」
ふるふると、横に揺れる首。
「天化とか、ヨウゼンとかいるからダメ」
お楽しみの時間は、少しだけお預け。
この腕の痛みが引くまでは、満足に抱きしめる事も出来ないから。
「腕が痛くなくなったらね」
「それまで我慢か。それも結構厳しいなー」
淵に肘を掛けて、男はため息をついた。
きゅっと絞った浴巾を、少女は男の頭に乗せる。
にこにこと笑って、隣に並ぶ小さな身体。
「肩まで浸かれって言う?」
「出るなら、百数えてからな」
理想と現実は、過酷なほどに違うけれどもそれさえも楽しいと思えるから。
この現実で戦う君を、いつまでも護れますようにと願う。
愛と恋だけでは生きてはいけないことくらいわかっている。
けれども、それが無くても生きてはいけないのだから。
嫉妬も疑念も負の感情も何もかもを含めてこその愛情。
だからこそ、ぶつかり合いながらまたより添える。
「それも、天化に言ってたの?」
「言っても、あれは十も持たなかったけどな」
玉虚宮で過ごしてきた彼女にとって、親密な関係を築く事の出来る師はいなかった。
始祖の懐に抱かれた二人の少女。
「そんな師匠、欲しかったなぁ」
「……………………」
「望ちゃんと二人で楽しかったけど、そんな風にはならなかったしね」
君が悲しいと思うことから連れ出せるのならば。
この腕なんか千切れても構わないのです。
「その分、俺がこれから大事にするからな」
「……これ以上大事にされたら、我侭いっぱいの子供になっちゃう」
柔らかな乳房のくれるぬくもりが、寂しさを消してくれるように。
この腕で君の痛みを消せるのならば、何も望みはしないから。




「いいよなー、俺もあれだけ思われてみてぇ……」
卓上に突っ伏して、発はため息をこぼした。
同じような状態の男が二人、同じように宙を舞うため息。
「普賢さまは……道徳さましか見てませんし、知りませんからね。尚更なんだとは思いますが……」
一人に縛られることを由としない女に惚れたのが最後。
普段の恋敵は、こんな時は仲間に変わるこの不思議さ。
「普賢さんはさー、どんなにコーチと大喧嘩してもどっか笑ってるさね。コーチもそれ、
 知ってるし。昔っからあの二人はあーやってきてるさ」
盗み聞きは予想以上の破壊力。
「太公望だってそーゆーとこはあっけどよー、滅多にみせねぇんだよな」
ぺたぺたと聞こえてくる足音に、三人は顔を上げる。
「何をしておるのだ、おぬしらは」
湯上りの香りを従えて、火照った肌を冷ます姿。
肌に張り付いた夜着が、その身体の線をくっきりと映し出す。
「……太公望……」
立ち上がって、男は少女の肩に手を置く。
「個人的に辛ぇことがあってよー……慰めてくれねぇか?」
「は?何があったのじゃ?」
そう言われれば、気になってしまうのが人間の心理。
「師叔!!俺っちも!!」
「太公望師叔!!僕も悲しい事が!!」
手を取られ、逃げ道は塞がれる状況。このままでは身の危険があると太公望は思案を巡らせた。
この状態から抜け出すにはただ一つ。
「武吉!!」
「はい!!おっしょーさまーっ!!」
「わしを抱っこして逃げよ!!全力疾走だ!!」
その言葉に、武吉は少女を膝抱きにする。
「待て!!国王命令だ!!止まれ!!」
「僕は、おっしょーさまの言いつけを守らなければ行けませんからっ!!」
欄干を飛び越えて、屋根の上を失踪する姿。
満月に浮かぶ影が、笑っているようにさえ見えた。
「武吉っちゃんはいいよなー……無条件であいつに可愛がられてっし」
目下、最大の恋敵は件の少年。
生まれては消えるこの気持ち。
「むさいけど、野郎だけで酒でも飲むかー、どーせ今頃、普賢ちゃんだって彼氏と
 楽しんでんだろーし」
どちらが良いと聞かれても、答えなどで無い事はわかっている。
目の前に花があれば、それに目を奪われるのと同じように。
「賛成、俺っちも飲むさ」
「参加しますよ。こんな夜だってありますからね」
笑う月に、背を向けて逃がした魚の事を思う夜。
夏の魔法が、今度は自分の方を振り向いてくれますように、と。




眠れないのは痛みではなくて、暑さのせいだと結論付けて。
隣で寝息をたてる恋人に覚られないように身体を動かす。
「痛い?」
「……なんで、ばれるかな」
「熱もってるもの。何か、冷やすものもらってくるね」
寝台から抜け出して、官女達の部屋へと向かう。
からかわれるのさえやり過ごせば、害は無い。
本来、色恋の無い仙道の恋愛劇は官女達にとっては恰好の話の種。
仙道と国王、仙道と仙道。
そこにあるそれぞれの物語は、書物を紐解くよりもずっと魅惑的だ。
「あの、氷か何かと巾を借りたいんだけど……」
その声に、夜番をしていた官女達が振り返る。
「あら、軍師さまの御友達の仙人さま」
「違うわよ、武成王の御子息のお師匠様の御相手でしょ?」
「だから、天化さまは仙界の人になったの。その師匠の相手なんだからこの人も仙道
 なのよ」
あれこれと話がまわって、普賢は苦笑するばかり。
「あの……」
「ね、見たところあたしたちとそんなに変わらないように思えるんだけど、実際はどうなの?」
中でも一番若い官女が、身を乗り出してくる。
武王姫発は、仙界に身を置く軍師に夢中で一行に妃を娶ろうとはしない。
自分たちとなんら変わらぬ姿の仙道に、どんな魅力があるのかを知りたいのだ。
「毎日、どんなことしてんの?」
「え……と、書簡を作ったり、瞑想したり。あとはお掃除とかお洗濯とか……あんまり
 みんなと変わらないと思うよ」
「ね、ね。天化さまの師匠とは仙界に入ってから恋したの?」
「うん。でも、道徳のほうがずっと先にいたし、仙号も持ってたし」
「年上なんでしょ?いいなー、なんか頼れるって感じがする」
そばかすだらけの、愛嬌のある顔。
健康的な頬と、肉厚だが艶のある唇。
「仙人ってみんな綺麗な顔してますわね。羨ましい。色も白いし」
「外にずっといれば、ボク達でも日焼けはするよ。赤く腫れちゃって怒られた事も
 何回かあるし」
「道徳真君さまに?」
「うん。不注意とかふらふらしてるときは怒られるよ。ボク達も、もとは人間だし」
喧嘩もすれば、癇癪も起こす。心があるからこそ、幸せで苦しい。
「普賢……さま、とおっしゃるのでしょう?」
「九功山白鶴洞の普賢真人といいます。ここの軍師とは同期に仙界に入りました」
一方は「真人」の階位を持ち、一方は道士のままこの西周に居を構える。
対照的な二人は、彼女達から見ても不思議な関係だった。
「いつか、望ちゃんも崑崙に帰ってくるとは思うけども」
「武王様は、どうなりますの?軍師様に夢中でお妃を一人も娶ってませんわ」
「発が自分で決めると思うよ。ボク達は、人間の世界に関与しちゃいけないんだ」
それは、きっと親友もわかっている事。
「西周には、道士さまが沢山います。みなさま、仙界にいずれは帰られるのですか?」
小さく頷く姿。
「ボクは、本当なら百近い老婆だよ。道徳も四千を越してる」
「!!」
「望ちゃんも同じ……だから……」
一呼吸置いて、普賢は続けた。
「もう少しだけ、そっとしておいて欲しいんだ。発も望ちゃんも自分で結論をだすよ」
寄り添うだけが恋の形では無いと、少女は知っている。
いずれくる別れの日のことも。
「ああ、やっぱりここか」
「道徳」
「あんまり戻ってこないから、どっかで何かやらかしてなきゃって思ったんだけど」
この二人が、人間を捨てて大仙となったと誰が知り得るだろう。
「氷と、あと湿布。少しでも痛いのが治まればいいんだけど」
「帰ったら、薬作ってくれ。腫れさえ引けばなんとかなるから」
男はゆっくりと官女達に視線を向ける。
「太公望以外、ここで普賢の女友達はいないんだ。出来れば仲良くして貰えればありがたい」
男と違って、そう頻繁に下山する事は無い少女。
必ずしても、軍師が手空きである保証は無いのだから。
「明日も早いから、そろそろ部屋に戻ろう、普賢」
「うん」
連れられながら、振り向いて小さく手を振る。
彼女と自分達と何が違うのだろう?
時間の流れの中で、めぐり合えたのが同じように悠久を生きるものであればそれは
幸せというものになるだろう。
しかし、相手が人間ならば恋人が老いて朽ちるのを自分は十七の姿のままで看取らなければならない。
そのとき彼女はどんな気持ちで男の手を取るのだろう。
どんな表情をするのだろうか。
「軍師さまも、年取らないんだよね……」
亡き文王が健在だった頃と、髪一本も変わらない姿。
彼女の回りだけが、めまぐるしく変化して行く。
その真ん中でたった一人で佇む彼女に、青年は手を伸ばす。
その手を伸ばすことも、掴む事も二人が選んだ事なのだから。
「軍師さまは、亡き文王さまの事をお慕いしてたって話もあるけどね。だから、この
 西周に留まった。武王様は文王様のお若い頃に瓜二つらしいし」
「それじゃ、武王様も軍師さまもどっちも報われないじゃない」
武王の傍らに、静かに佇む軍師の姿。
「そうね。終わりが見えてる」
「じゃあ、どーして一緒に居れるの?」
先刻の少女の声が、耳の裏でこだまする。
「その意味を見つけるために一緒にいるのかも知れないわね」




素足で感じる回廊の冷たさに、目を閉じる。
「ごめんね、話しこんじゃんって」
「いや、たまには年の近い娘と話したほうが良いと思うぞ。太公望だけじゃなくてな」
立ち止まって見上げた月は、雲の上で見るよりもずっと綺麗で。
隣にいる恋人を、より美しく引き立てた。
「どうした?」
「ううん、お月様……いつも見るのよりも綺麗だね……」
「……なんで、俺、こんなときに腕がつかえねぇんだろうなー」
悔しげに頭を掻いて、男は普賢の頬に右手を当てる。
「抱き上げて、接吻(キス)してぇのに」
「治ったら、いっぱいしてくれるんでしょ?」
見上げてくる灰白の眼が、月光を受けて猫の瞳に変わる。
(兎じゃなくて、猫なのかも……)
夏の魔物の持つ細い腰は、毎夜毎晩誘惑して。
骨までしゃぶられながら触れられずにはいられない。
甘い唇を朱に染めて、肉を千切って飲み込む魔物。
「一度、狐狸精を見た事があるんだ」
「?」
「今の殷妃、妲己って名前になってんだな。俺が見た時は違った名前だったし」
いつの世も、女は魔物。男を食らってその肉を身篭る。
産み育て面影を重ねて愛情という名の鎖で縛り上げて動きを封じるのだ。
「傾国の美女ってのはこういうのをいうんだろうな、っては思った。けど……」
「けど?」
「お前の方が、よっぽど綺麗だ。仙にならなければ宮中にだって入れただろう」
「入らないよ。狭い箱は好きじゃない」
しなやかに発狂を促す夏の妖。
魅入られたのは不幸せなの事なのかもしれない。
それでも、噛み砕かれて飲みこまれ、その血肉になれることは至福以外の何物でもなく。
「そろそろ寝ないと、明日に響くぞ」
「……うん……」
この背中を見つめながら、彼の過去をそっと覗きたくなる気持ち。
永遠を生きる仙人も、独りの時間には慣れる事など無い。
(ボクは、あなた一人を支配できればそれでいいんだ)
伸びた影が二つ、ゆっくりと動く。
この夏の魔法は、解けそうに無い。



篝火のように揺らめくこの想いを。
君の肌に烙印のように刻みたい。
瞬き一つをも欲しいと思うこの気持ちは。
罪になりますか―――――――?




           


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16:27 2005/08/08

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