◆人生とはかくも美しきことなり◆
「いーい、寝顔してますねぇ……」
柔らかい頬を指で押せば、くすぐったそうに身を捩る姿。
パシャ、と音がして一枚の転写紙が落ちる。
(太乙も面白いもん作るよなぁ……)
万能の科学者は、時折悪戯に宝貝を作り出す。
これもその一つだった。
被写体を写し取り、紙に刷りあげることの逸品。
(おー……かわいいなぁ……)
何枚か写し、それを眺めては笑いを堪える。
(持って帰ろう。そうすれば普賢の顔がいつでも見れる)
薄明かりの午後は、どこと無く幸せ。
いずれ来る優しい夜を迎えるための時間。
二人だけで過ごせることと、同じ景色を共有できること。
紆余曲折はあっても、こうして此処にいられる幸せ。
(唇とか、ちっちゃくて薄いな……女の子ってやっぱ……うん……)
泣き顔も、拗ねた顔も、潤んだ瞳で甘える仕草も。
自分だけが見ることを許される宝物。
「……なぁに?……」
額に触れる手に、唇が嬉しげに笑みを浮かべて。
「んー……?幸せを噛み締めてるところです」
誰かに笑われても、彼女を手放すことなど考えられないから。
「一緒に寝る?あったかくて気持良いよ……」
受け入れるように伸びてくる手。
その甲に口付けて、導かれるままにその褥に。
「確かにあったかいな」
「うん……太極符印(あれ)つかったから、室温は悪くないはずだよ……」
目を擦りながら、指が示すのは彼女の宝貝。
彼の莫邪の宝剣とは対極の位置に存在するものだった。
静と動。男と女。激情と冷静。
道士たちは訝しげに二人を見つめるばかり。
「なぁ……俺らって、なんで一緒にいるか不思議がられてんだぞ。知ってたか?」
男の腕の中で、少女はすこしだけ瞳を開く。
見上げて来る瞳の色は、逆行も相まって鮮やかな白銀。
「……うん……色々言われてるよねぇ……」
もぞもぞと動いて、ぴったりと身体を合わせてくる。
「そんなに正反対かなぁ……」
「いや、この間天化が来たときに言われたよ。似てないように見えて、似てるって」
「本当?嬉しい……」
午後の日差しを暗幕で塞いで、この瞳は君への想いの前に。
優しい夜を一緒に待とう。
「嬉しいか?」
「嬉しいよ。好きな人に似てるっていうのは……それだけ一緒に居れたから、似てくるんだもの」
「そうか……だったら、俺も嬉しいよ」
触れるだけの接吻を悪戯に重ねて、暖かさを確かめ合う。
数え切れないほど、喧嘩をして。
言い合いとこぼれる涙。
それでも、隣にあるべきはずの影が無いだけで感じる不安。
例え自分の未来に光など無くても、恋人が笑っていてくれればいいと思えるような感情。
「ボク……ね……」
眠気を封じながら、途切れ途切れに発せられる甘い声。
「……道徳を……好きになったこと……誇りに思うよ……」
好意を口にすることは多分にして誰にでも出来うること。
しかし、「誇れる」と言えるのはそうそう出来ないことだ。
その笑顔が、声が、息遣いが。
薔薇色の鎖となって縛り付けるのだ。
困難なことは、それを解く気が更々無いこと。
そして、その鎖を愛しいと思うこの感情。
「俺は、いつまでお前にそうやって思ってもらえるんだろうな……」
「ずっと」
たったそれだけの言葉で、胸が温かくなる。
強がりな少女がこぼす小さな本音を、一つも残さずに受け止めようと手を広げて。
舞い降りたその心を抱きしめて、抱きしめて。
「俺も、お前のことが誰よりも愛しいよ」
「嘘吐き」
「酷い言い草だ。嘘なんてついてないぞ?」
「弟子とほうが大事でしょ?いっつも嬉しそうな顔して天化のこと話すし」
ぎゅっと襟元を掴む手。
それを優しく解いて、細い指に唇を当てた。
(……傷……何を隠してんだ?)
細かな傷と、僅かな皹。
「何、隠してんだ?」
「教えない」
ほんの僅か、砂時計の砂が一粒落ちるほどの合間に。
少女は変貌を遂げる生き物。
「教えないと……」
そろそろと、手をずらして。
「くすぐるぞ」
「ひゃあんっ!!や、やだやだやだ!!!」
「白状しなさい。何を隠してるんだ?」
はぁはぁと息を切らして、普賢は目だけで笑って道徳真君を見上げた。
「どうしても言わなきゃダメ?」
今度は甘える目線で、男を擽る。
湧き上がる気持を押さえ込んで、同じように視線を重ねた。
「駄目」
「道徳に、たまには美味しい物作りたくて、ちょっと練習してたの」
「それだけじゃ、こんなに傷出来ないだろ?」
「だって……果子凍(ゼリー)とか、上手く作れないもん……」
彼の特別であり続けるためには、それ相応の努力が必要。
仙女も、宮中の女官も敵は山積みなのだから。
彼が彼女に近付く男を遠ざけるように、彼女もまた、彼に目線を送る女を牽制する。
努力なしで、恋は続くことなど無い。
「馬鹿みたい。騙し合って、喧嘩ばっかりして」
腕の中で呟かれる言葉。
見えないはずの表情が見えるようになった気がしても。
時折、その距離が酷く遠くに感じてしまう。
涙は、頬を濡らすもの。
それが、どうか暖かなものでありますようにとどれだけ祈っただろうか?
「喧嘩できないよりもずっと良いような気がするけどな」
「わかってるけどね……」
本当の愛だったのかしら?そんな言葉を何度も繰り返した。
同じことの繰り返しのような日々でも、離れられない。
「浮気性で、ふらふらしてて、それに……たまに、体目当てなのか無ーって思うけど……」
「おい……それ、酷くないか?」
「それでも好きなんだから、望ちゃんに悪趣味だって言われちゃうんだ」
女同士の秘密の会話は、男心など見向きもせぬまま。
気ままな小鳥は、小鳥なりに悩みを抱える。
「……ありがとな、それでも好きでいてくれて」
「お礼言われるようなことしてない。ボクが勝手に好きなんだもの」
眠りに落ちるほんの一瞬の間。
君は、本当の言葉を呟く。
「死ぬまでじっくりと時間かけて愛するから」
「……うん……」
気の遠くなるような時間を共有できることと。
君に出会えたこの偶然。
人生は、かくも美しいものだと思わせられる。
(浮気性は、誤解だ。俺はお前じゃないと……起きたら言うか……)
腕に感じるこの重み。
それは彼女の心のそれ。
(ふらふらしてる暇なんか無いだろ?お前一人で手一杯だよ)
夕闇はまだ遠く。柔らかきこの午後を。
気だるく過ごせるだけの余裕がようやく持てるようになったばかり。
白紙の地図に、二人で標を付けられるのはまだ遠くに。
「何、やってんだろうな……この二人……」
眼前の光景は、女を抱きしめて長椅子で眠る男。
冬だと言うのに、室温は小春日和。
(なんて不毛な恋なんだ……)
肩を落としても、恋は自分を離そうとはしてくれない。
「モクタク?お帰り……」
ゆっくりと身体を起こして、欠伸を噛み殺す。
「師匠、これ……」
床に落ちた一枚の転写紙。
拾い上げて、普賢にモクタクは手渡した。
映し出されているのは自分の寝顔。それも相当に無防備なものだった。
(もう……しょうがない人なんだから……)
同じように、安心しきって眠る姿。
それだけ、自分を信頼してくれているという証は、その誇りをより強固なものにする。
「師匠、天化が師伯の所に来た時のこと覚えてますか?」
「え……?」
「天化が師伯のことをおっさん呼ばわりした時に、激昂したこと」
「…………そうだね。だって、ボクだってこの人を名前で呼べるようになるまでに
何十年も掛かったんだもん。それに……力の無い者に、この人を侮辱はさせないよ。
これからも……ね?」
眠る男の額に触れる指先。
前髪を静かにかき分けて。
「天化と勝負して、勝つ自信はありますか?」
「ボクが、負ける必要があるの?」
「天化も、俺も、強くなりましたよ。ヨウゼンさんも」
「君たちの後ろには至高の軍師がいるからね。そうなって当然だろうし……でも……」
足元に転がしていた太極符印がゆっくりと発動する。
「共同戦線でも張って、ボクに喧嘩を売りにきたの?買っても良いよ。ただし、手加減は
一切しない。この人の弟子と、ボクの一番弟子にそんな失礼なことは出来ないからね。
出ておいで、天化。気配も消せないようじゃ道徳真君の名前に傷が付く。あなたも
寝た振りは止めて起きて」
ぱちり、と双眼が開き、男はゆっくりと身体を起こす。
「何だ?鼠でも迷い込んだか?」
「二匹、ね」
卓上の莫邪を手渡されて、それを受け取る。
「何でお前は俺んとこに顔は出さないのに、普賢の所には来るんだ。天化」
二人に名指しされて、渋々と姿を現す。
「売られた喧嘩は買うぞ、俺は」
「夕食前の良い運動になるね。ボクも汗、かきたいし」
「普賢、汗かけるほど動かせてくれるかが問題だぞ。俺ら、強いから」
言い切れるのは、裏づけされた強さと経験。
そして、重ねてきた時間の重さ。
「普賢さんの太極符印は反則さ。そんなの使われたら元始さまだって死ぬさね」
左手を一振りして、掴む一本の赤い剣。
塚元を彩る美しい飾り房。
「これで良いよ。剣には剣を持っていく」
「そういうわけだ。お前ら、表に出ろ」
「何なのさ!!この二人の連携はっ!!」
防戦を強いられたのは弟子二人。
攻撃に出ると読んでいた道徳真君は普賢真人の援護に回っている。
代わりに前線で剣を振るう少女。
しかも、唇には笑みまで浮かべている有様だ。
「モクタク!!呉鉤剣って……」
「動きが不規則なんだ。莫邪みたいな破壊力は無いけど、変則攻撃が可能だ」
髪を一纏めにしてモクタクは普賢の後ろにいる男の首を狙う。
大地を蹴り上げて、普賢の懐に飛び込む形を取りながら、脇腹の僅かな隙間から剣先を
突き出して、切りつけていく。
「貰ったさ!!!」
仰け反るように、身体を捻る普賢に切りかかるのは枝葉から飛び降りた天化。
体重をかけて宝剣を振り下ろす。
「甘ーい。腕がガラ空きだぞ、天化」
がきん!と宝剣同士がぶつかり合い、光の粉が散っていく。
体力の無い普賢を高く飛ばせるために、己の肩を台にさせて。
身軽な分だけ少女は奇襲攻撃をかけることが出来るのだ。
二刀流の二人に対して、師表二人は一本だけ。
それも、利き手ではない方だ。
「寝て起きてだし、腹減ってきたな」
「そうだね、お夕飯の準備しなきゃ」
背中合わせで微笑んで、今度は一転して同時に攻めに転じる。
破壊力だけならば最高位の男と、わずか数十年でその頂点の座を射止めた女。
敵に回すには、分が悪すぎた。
「!!」
二人の剣を弾き飛ばして、その喉元に剣先を突きつける。
「六十点。まだまだだな、黄天化」
「八十五点、追試は要らないよ。モクタク」
「高得点だな。何でだ?」
「これ」
僅かだが、切り落とされた灰白の髪。
その数本を拾って、普賢は嬉しげに笑う。
「妥当な点数だな」
「ね?」
満身創痍の少年二人。ずるずると引きずって、自分たちの前に座らせる。
「これ、自動撮影もできんだよ。一枚撮っておこう、記念に」
「うん」
舞い落ちる一枚の転写紙。
笑顔満開の恋人たちと、憔悴しきったその弟子達が一杯に写されていた。
夜の帳もすっかり落ちて、紡いだ糸で織り上げる布地。
織機を動かすのも久しぶりと、少女は呟く。
「何作るんだ?」
「あなたの上着。この間、引っ掛けてたでしょう?」
「あー……滅多に着ないから良いよ」
それでも、その後姿が愛しくて。
織り上げられていく紫紺の布地を、ただ見つめていた。
「もう少しだけやったら、今日は終わりにするから」
「ん……風引くから、あんまり遅くまではするなよ」
繰り返される毎日も、一日たりとも同じ日は無い。
人生とは、かくも美しきもの。
この織り成す生地のように、誰かと誰かの想いが交差して行く。
そして、それはいつか誰かの寒さを癒し暖める
すれ違っても、喧嘩をしても、全てが美しい模様となり一枚の布となる。
最後の一糸が結ばれて、その人生を綴る物語は終わるのだ。
「あ、もう寝てる」
腕を伸ばして、眠る癖が出来た彼の隣に潜り込む。
こうして、誰かに暖められて、暖めることの出来る喜び。
「おやすみなさい、良い夢を」
鼓動を重ねて、閉じる瞳。
冬の星空はどこか優しく見つめてくれる。
まだ、折りあがることのない二人の布地を。
あせることなく、ゆっくりと作りあげりることがきっと、人生というもの。
その模様はまだ未完成。
これから、幾重にも重なる糸を夢見て、眠りに落ちた。
かくも美しき我が人生。
傍らに居る君を、誇りに思う。
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23:28 2005/02/09