◆永遠と名付けたのは白昼夢◆
「腕、腫れ引いたみたいだね」
男の腕に手を添えて、少女はにこり、と笑った。
「治りは早い方なんだ。これでヨウゼンの相手ができるな」
着慣れた道衣を纏って、少女の額に唇を落とす。
ちゅ、ちゅっ…と愛し気に鼻先に触れて、静かに唇に重なった。
「続きは、一汗掻いてからだな」
「今じゃないの?」
小首を傾げて、普賢は道徳を見上げた。蕩けそうな丸い瞳が瞬きを繰り返す。
「ふ、普賢さんっ!?」
「冗談だよ。夜まで我慢する」
くすくすと笑って、上着の金具を止める指先。
(そんな顔されっと、俺が我慢できなくなるだろ)
男の気持ちなど知ってか知らないでか、誘うような薄布の上着。
ひらひらと飾りが風にそよぎ、その肌の白さをいっそう際立たせる。
「勝てそう?」
「どうして?」
「負けたら、ヨウゼンに乗り換えちゃおうかな」
「おい!!」
時折そんなことを言っては、少女は知らずと男を振りまわす。
「俺が完封勝利したらどうする?」
じっと見上げてくる灰白の瞳。
「勝つのが当たり前だと思ってるから」
左手を取って、祈るように唇を当てる。両手で包んで大切な物を護るように。
「御武運を、道徳師兄」
「……そうだな。お前の前でみっともない姿なんか見せられないな」
誰かの為に生かされて生きているといことを。
君がくれるこの暖かさが再認識させてくれるから、足を止めずに進むことが出来る。
「格好良いとこ、見せてね」
「任せな。惚れ直させてみせる」
伸びた髪を縛り上げて、着なれた道衣では無く剣武服を身に纏う。
右腕には防護用の腕当て。指を痛めぬようにと手袋も。
「珍しいのう、おぬしがそのような格好とは」
「道徳師弟が相手ですからね。動きやすいにこしたことは無いと思って」
袖無しの上着から覗く腕。
普段見えないのも相まって、精悍な体の片鱗が窺える。
「宝貝は使用禁止。剣は一本でも二本でも可能。それが条件ですし」
「して、どうする気じゃ?」
洲桃をかりりと齧りながら、視線がちら…と向いて。
挑発するように目が細まった。
「道徳様は二刀流ですからね」
「ふぅん……」
珍しくそんなことを口にして、太公望は指先を舐め上げる。
「勝てそうか?」
肩よりも少しだけ下に伸びた黒髪の美しさ。
部屋着姿は。休日の証と彼女は髪を縛る事無く燻らせるばかり。
「そのつもりです」
「そうか。それは楽しみじゃのう」
「……それだけですか?師叔」
二個目に口をつけて、太公望は小首を傾げた。
「こう、頑張って……とか……その……」
結び目を解いて、少女は青年の髪に指先を通してくすくすと笑う。
愛用の柘植櫛をさらら…と通して、それを編み上げていく。
先端を組紐で結んで、その耳元で囁いた。
「失態を精々演じぬことだな。天才の名が泣くぞ?」
甘い言葉よりも、叱責の方がこの男にはひびく事を知っている。それが少女の恐ろしいところ。
傾国の美女よりも、ずっと魅惑的な声。
「そのような男には、わしとて用無しじゃ」
「厳しい言葉ですね」
背中を軽く押して、少女は男の前に立った。
「道徳相手に一本取れれば御の字じゃろう?」
「わかりました。貴女の前で道徳真君から一本取りましょう」
「?」
「滅多打ちにしてみせるってことですよ、師叔」
条件は宝貝の使用は禁止。どちらかが降参するまでと簡単なものにした。
正面で相対し、軽く礼を取る。
黒髪の青年と濃紺の美丈夫の対峙はそう見れるものではないと、宮中の兵士が周り取り囲む。
「珍しい対決じゃからのう」
「ねぇ」
月餅を齧りながら、少女二人はゆるりと椅子に腰掛ける。
二人を守るように発と天化がその隣に位置を取った。
「んで、普賢ちゃんはどっちが勝つと思ってんの?」
「道徳」
あっさりと答えて少女は冷えた果実水に口をつけた。
攻撃と破壊力だけを取るなら師表の最高位に座する恋人。
「天化だってそう思うでしょ?」
「確かにコーチが本気出したらいくらヨウゼンでも勝てないさね」
それを耳に入れながら太公望は扇子で口唇を隠す。
「天才の名は伊達ではないぞ?」
「それを力で粉砕できるのが清虚道徳真君って人だよ、望ちゃん」
穏やかな笑みを浮かべながらも、二人の間に微かに散る火花。
「王様はどっちだと思うさ?」
「いや、わかんねーからまだどっちにも賭けてね……」
しまった、と口元を押さえるも後の祭り。
にこやかに微笑む少女二人の手には愛用の宝貝。
「配当金は、どっちがどっちなのかな?」
「わしらもその賭けに参加せんとのう」
男二人のやる気を引き出すのは他愛もないと二人は嘯く。
仙界きっての悪童二人、色恋沙汰さえふわりと流す。
敵に回せば一国をも滅ぼす力を持ち、微笑み一つで誤解を真実に。
組めば恐れるものはない。
それがこの二人なのだから。
「道徳がんばってーーーーーーっっ!!」
「ヨウゼン、負けるでないぞ!!」
その声に男二人が振り返る。首尾よく試合を始めようとした瞬間だった。
「な……なんだ!?その格好!!」
ふわふわの褶邊から伸びたまぶしい素足。太腿も露にして降り立つ姿。
「応援団(チアガール)」
手作りの房をもっておおはしゃぎする少女二人。
霊獣もその傍らでにこやかに笑って二人を乗せる。
「ご主人も普賢さんも軽いから、二人乗せても余裕っす!!」
騒げるときには思い切り騒ぐ。盛り上げるならとことんまで。
それがこの少女二人。
「太公望!!普賢ちゃん!!おやつ準備できてっぞ!!こっち来いよ!!」
「はーい!!」
女二人の姿をちら…と見据えて、道徳は目の前の青年に視線を移した。
呼吸を整えて、静かに間合いを取る。
それは青年が本気で相手に当たるときの小さな儀式だった。
(死ぬ前になんとか止めてあげないと駄目だと思うけど?)
親友に目線だけで伝えれば小さく頷いてくる。
そんなことはもうわかっている、できるだけ楽しもう、と。
「始め!!」
声とともに大地を蹴ったのはヨウゼン。長剣を軽々と振り回し、男に斬りかかる。
砂埃の中、打ち合う音だけが耳に響く。
金属の擦れる音、息遣い、舌打ち、衣擦れ、そして汗の落ちる音。
(片腕じゃやっぱりちょっと動きが鈍るんだね……それでも、ヨウゼンの方が押されてる……)
隣では親友がじっと二人を見詰めて細笑い。
「普賢さん、ヨウゼンさん押されてるさ」
耳元で小声で囁く天化に「そうだね」と返す。
二刀流で攻めてくると思った道徳真君は長剣一本。
それも、斬りかかることなく軽く返しているという事実。
「コーチもいっぱいいっぱいさ?」
「ううん。腕が痛いみたい……あんまり無理しないでって言ってるからあれだろうけども」
庇いながら男は青年の剣先を弾いていく。
利き腕ではない右手で剣を持ち、瞳は閉じたまま。
「ヨウゼンが遊ばれておるのう……あれの自尊心(プライド)が耐えられるかどうか……」
少女のため息は今晩のことを思えばこそ。
傷心の男を宥めるには必要以上の時間がかかることを良く知っているからだ。
「普賢、そろそろ止めさせるか。ヨウゼンの精神が崩壊する前に」
「あんまりいじめを容認するのもどうかと思うしね」
その言葉に少女は氷砂糖をかりり…と噛み砕く。
「いや、あれをいじめられるものはそうも居るまい。若干の刺激ならばよかようて」
広がる甘さとは裏腹な少女の姿。
知るも知らぬもどちらも幸せと、呟きながら。
「だ〜〜〜〜〜っっ!!痛っってぇぇ!!」
腫上がった左肩に少女の唇が触れる。
「な……何をなさってるんですか、普賢さん」
「痛いの飛んでいかないかな……って」
小さく笑う唇が今度は頬に触れて、視線が重なった。
「でも、あなたが楽しそうなのはちょっと悔しいのかもしれない」
独占欲は何時も暗く渦巻いて、心身ともに縛り上げていく。
だからこそ、人は誰かに優しくなれるのかもしれない。
この恋をとめられないように、嫉妬も止めれるものでもないから。
数字では割り切れないこの心の動き、口付け一つでなにもかもを許せてしまう。
「おつかれさま。帰ったら薬作るね」
乾いた唇が二つ重なって、舌先が絡まりあう。呼吸を分け合うようにして、互いの体を抱きしめあって。
ただそれだけの行為なのに、こんなにも胸が熱くなる。
ただ過ぎ去る日々は夢の如し、泡となって水に消えて。
あの肌を焼くような思いはいつしか秋風に晒されてその身を落ち着かせ。
降り積もる雪の如く、二人で季節を重ね合わせた。
窓に降り積もる粉雪を見ながら、織り上げた布地。
夏の初めから季節を重ね、織り上げた濃緑。隠しにと織り込んだ紫紺は彼を擬えた。
小脇の卓台に置いたのは林檎を煎じた果実茶。
「もうちょっとで終わりそう……何作ろうかな……」
君へ思いは、どれだけ季節を過ごしても色あせることなどなど無く。
ますます募り焦がれてしまうのはどうしてなのだろう。
「普賢、あんまり根詰めると風邪引くぞ」
「はぁい」
織機に布地を被せて、静かに明かりを落とす。
「何を作るんだ?」
並んで歩く影が、壁に映し出されて。
素足に絡まる冬の息吹は、寄り添うのに十分な理由を作ってくれる。
「何にしようか今考えてるところ」
くすくすとわらう恋人が、愛しいと思う気持ちを封じる術など無く。
堂々巡りの結論をいつも抱えるだけ。
「もしも、俺が……嫉妬に狂ってお前をここに閉じ込めたらどうする?」
男の背中を後ろから抱いて、少女は小さく呟く。
彼にしか聞こえないほどの声で。
「鳥は飛び疲れれば枝葉に止まります。師兄、鳥も中には風変わりもいるもの。
銀の羽根を持つ鳥ならばそれを望むやも知れませぬ……」
濡れた瞳も唇も、自分だけに向けられたもの。
額がこつん、と触れ合って同じ高さの目線に。
「馬鹿言え……本気にするぞ」
この男一人だけを支配できればいい。それだけで十分すぎる。
「やー…………」
首筋に口唇が触れて、軽く吸い上げれば生まれる小さな赤い花。
「目立つところは駄目って言ったのに」
「お前が変な挑発するからだろ」
ゆっくりと唇が下がって、その体をなぞり上げていく。
細い鎖骨を噛んで、乳房の先端を舐め上げられれば。
「…ぅ……っん……」
夜着を落とせば括れた腰が露になる。
「……道徳……?」
それがどうしてなのかが自分でも分からないままに、恋人をきつく抱いていた。
痛いと彼女が声を上げるまで、彼女の心が痛くなくなるまで。
ただそうすることしかできなかった。
何も知らない彼女を染め上げたのは自分。
いつの日か狂うのならば共に何もかもを忘れるほどに絡まりあっていたい。
「どうしたの?苦しいよ……」
「愛してる……ただそれしか言えないんだ……」
君が無垢なまま狂って行くように、この手を繋いだままどこまどこまでも堕ちて行こう。
「大好き……ずっと、ずっと一緒にいてね」
夢がかなうのならば二人で心中できればと。
それは無理なことだと呟いて、この禁忌に溺れよう。
仙となり君と出逢った。
仙として君を愛し、君に焦がれた。
嫉妬に狂うこの魔物を沈められるのはその甘い唇だけと囁くのは、どちらが先立っただろうか?
「重いよー……道徳……」
「圧死しそうか?」
「馬鹿。風邪引いちゃう……ああ、でもそうしたらそれも楽しいもんね……」
その言葉の一つ一つが足元に絡みつく。
逃げることなど決してできないように。
「明日、道徳がボクのこと忘れちゃっても……ボクはあなたのことが好きだから」
この思いが罪ならば。
自分たちは笑みを浮かべながら断頭台に登ろう。
其の階段の一つ一つを鼻歌交じりで。
「そろそろ本格的に風邪ひくな……俺もお前も……」
肌蹴た袷をそっとなおして、恋人を抱き上げる。
「裸足じゃ冷たいだろ?」
「わーい」
擦り寄せられる頬に感じる幸福。それは昼下がりの白昼夢のようだった。
「明日は二人ででかい雪達磨でも作りますか」
「楽しそう。おっきいの作って、太乙たちをびっくりさせたいね」
窓の外に降り積もるは雪に非ず。
それは恋人を思う誰かの優しさ。
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21:15 2007/02/15