◆チェルシー◆





窓から入り込む風も、どことなく甘い気のする季節。
花も鮮やかに、娘たちも艶やか。
訪れた季節は心までもすこしざわめかせてしまう。
(さて、俺はどうやって普賢に逢いに行けばいいのか……)
太公望に用向きがあって下山するまでは良かった。
その出掛けに恋人と大喧嘩。
最後に見たのは涙顔。大きな灰白の瞳が赤く染まっていた。
(機嫌取りに、簪なんか買ってみたけど……あいつ、髪短いんだよな……)
少しだけ伸びた襟足と、跳ねた髪が彼女のトレードマーク。
頭上に浮かべた光の輪は、きららと輝き色を添える。
(もっと、違ったものの方が良かっただろうか……)
愛用の頭帯(ヘアバンド)を外して、はぁとため息を付く。
寝ても覚めても泣き顔が頭から離れない。
(どっちにしろ、この間のは俺が悪い。謝らなきゃ)
決めたら一直線。九巧山目指して全速力で走り出す。
そして、扉の前で結局躊躇してしまうのだ。
握り拳を作っても、そこを叩く勇気が出ない。
扉一枚隔てただけなのに、まるで別世界に居るかのように遠く思えた。
(ビンタでも核融合でも何でも来い!!)
小さく扉を叩く。
程無くして聞こえる細い声。
「どなた?」
「……その、俺……」
「…………………………」
「この間はゴメン、あれは俺が悪かったよ。だから、ここを……」
言い終える前に静かに扉が開く。
数日前と同じ泣き腫らした顔。
「……道徳……ッ……」
すい、と伸びてくる手。
(来るッ!!何でも来い!!悪いのは俺だっ!!!)
予想に反して、ぎゅっと抱きついてくる彼女を受け止める。
「帰って来ないかと思ったよぉ……ゴメンね、我儘ばっかり言って。もっと、もっと、優しくならなきゃ駄目だよね。
 ゴメンね、ゴメンね…………」
行き場のなかった手は、落ち着く場所を見つけて恋人を抱きしめて。
腕の中で泣きじゃくる普賢に少しだけ困惑しながらやんわりと頭を撫でた。
「いつもなら帰って来るのに、来なかったから……本気で怒ってるんだと思った……ボク、道徳に酷い事いっぱい
 言ったから、きっとボクの事なんか嫌いになったんだと思ったの……」
止まったはずの涙がぼろぼろとこぼれ出す。
「怒ってないよ、それに悪いのは俺の方……」
道衣に掛かる指。
「本当に怒ってない?」
「怒ってないよ」
見上げてくる赤い瞳。
「単細胞で、本読むの嫌いで筋肉馬鹿って言ったのに?」
「あー……うん……」
「掃除も洗濯も炊事も出来ないし、強引で子供っぽいって言ったのに?」
「まぁ……その……」
「体しか目当てじゃないくせにって言ったのに?」
「ちょっと待て!!!お前、いくらなんでも言い過ぎだろうがっ!!」
潤んだ瞳、長い睫。
じっと見つめられれば心は簡単に陥落してしまう。
(……降参です……馬鹿でも何でも言え!俺はお前が好きなんだよっ……)
「本当に怒ってない?」
形のいい額に、ちゅ…と唇が触れる。
「怒ってないよ」
「本当はね、大好きって言いたかったの……行かないでって言いたかったの……」
我儘も、感情も押し殺して彼女は師表としてそこに立つ。
素顔はまだ幼い少女。
少しだけ笑うことが苦手な、心の柔らかい女の子。
「でも、いっつもボクはあなたに我儘ばっかり言ってるから……っ……」
珍しく素直に感情を出す普賢に、少しだけ戸惑いながらも視線を重ねた。
「仲直り……してくれる?」
「うん……」
爪先立ちの少女と、少し屈む男。
ちゅ…と触れるだけの接吻。
「もう一回して……」
甘える声に、今度はも少しだけ深く重ねて舌先を絡めた。
たった数日離れただけで、この有り様。
心も体も、カラカラに乾いて潤いを欲してしまう。
「あ、そうだ。あのな、これ……」
取り出したのは銀細工に玉の付いた簪。
藍と紫の交じり合った水球。
「でも、お前の髪に挿すには……」
「嬉しい。ありがとう」
頬に触れる柔らかい唇。
いつだって世界は甘い恋に満ちているから。




良く晴れた日に、定例会議とは腑に落ちないと彼は呟く。
どうせ行くならば恋人と一緒にと思って白鶴洞に降り立つ。
「普賢、準備できてるか?」
始祖を交えての会議には、正装をして向かうのが慣わしだ。
道徳真君もいつもの道衣ではなく、紫紺の長衣。緋色の肩布と腰には莫邪。
(普賢はいつもの格好の方が俺的にはいいんだけども……まぁ、正装していかなきゃなんないしな)
肩口の覗く道衣はそれはそれで魅惑的。
(まぁ、あんまり見れないから、あれでもいいけどさ)
こつこつと小さな靴音に振り返る。
「ゴメンね、待った?」
「…………普賢……」
「そんなに、おかしい?」
じっと見つめて、小首を傾げる姿。
普段の彼女は跳ねた髪と、右耳にだけ耳飾をつけた姿で笑ってくれる。
だが、目の前に居る恋人は普段とはまったく別の姿で静かに微笑むのだ。
纏め上げられた銀髪。前髪も上に上げて、綺麗な額を出している。
ほんのりと乗せられた化粧と、首筋には夜華の香。
右耳にはいつか送った飾り。
「いや、ちょっと驚いた。別人みたいで」
一歩進む度に、しゃらんと擦れる簪。
「どうしても、つけたかったの」
「会議なんか行きたくなくってきた……」
恋人二人。わがままを呟けば、今度は師表という立場が重く圧し掛かる。
いつもよりもずっと魅惑的な彼女の手を取って、仕方ないと玉虚宮へと足を向けた。



議題の最中も、卓の下で指を絡めたまま離そうとはしない。
(少し、熱いな……熱でもあるのかな……)
指越しに伝わってくる、甘い気持ち。
横目でちらりと見て、視線を戻す。
自分のほかにも普賢に視線を向ける男達を彼は目だけで牽制していく。
白の長衣には真紅の糸で鮮やか刺繍が施され、普段とは違う普賢の顔を映し出す。
中でもその牽制など物ともしないのが玉鼎真人。
視線をぶつけ合って、互いに顔を背けた。
「道徳?」
「何でもないよ。気にするな」
「ん…………」
小声で囁きあって、道徳は再度目線を玉鼎に向ける。
あからさまに不機嫌な表情に湧き上がりそうな笑みを必死に押さえて、素知らぬふりを。
(俺の普賢にヘンな目線送るんじゃねーよ)
(誰が誰のものだと?その手を離せ外道が)
鼻先で笑って隣の恋人の耳元でわざと囁いて見せる。
どうにか定例会を終わらせて回廊に抜け出た時だった。
「道徳」
「何か用か?玉鼎」
議場でなければ、堂々と恋人同士に戻れる。
見せ付けるように肩を抱きよせて、道徳は玉鼎を見据えた。
「普賢から離れろ」
「恋人と一緒に居ちゃ悪いのか?」
間に何があったにしろ、彼女が選んだのは紛れも無く道徳真君なのだ。
それでも、捨てきれないこの思い。
「覚悟は出来てるようだな。表に出ろ」
「望むところだ。返り討ちにしてやるよ」
売り言葉に、買い言葉。
例え大仙でも一人の男。いつだって女を巡って剣を交えるのだ。
宝剣に手を掛けて、前に進み出ようとする。
「ね、やめて。喧嘩しちゃやだ」
「んでもよ、しつこいのは玉鼎のほうだから」
「お願い。ボクが好きなのはあなただから。大好き……ね、怪我とかして欲しくないの……」
潤んだ瞳で見上げられれば、敢え無く陥落してしまう。
ほんのりと染まった頬。
「ん……普賢がそう言うなら。帰るか?」
「うん……」
腕に絡まる細い少女のそれ。
額にそっと接吻して、抱きしめる。
体を預けるようにして、こつんと頭が胸に触れた。
「……普賢?」
「……………………」
「……って!!熱あんじゃねぇか!!」
力なく抱かれたまま、彼女は目を開けようとはしない。
その間にも腕に感じる体温はじわじわと上がっていくのだ。
「しっかりしろ!!普賢ッ!!」
膝抱きにして、九巧山へと全速力で駆けて行く。
苦しそうな息遣いと、額に浮き始める汗。
かすかに震える指先で、道衣をぎゅっと掴んでくる。
「何でお前まで付いてくんだよ」
「お前がまともな丹薬が作れんからだ」
傍に居たいのはどちらも同じ。
扉を蹴り上げて、寝台に横たえて。
苦しくならないように、襟元を少しだけ緩めた。
「問題はどうやって飲ませるかだな」
「俺がやる」
玉鼎真人の手からそれを奪い取って、唇で挟む。
そのまま顎を取って舌先で押し込むようにして飲み込ませた。
喉が静かに上下するのを確かめてから、今度は水を同じようにして流し込む。
「……珍しく、素直で可愛かったのは風邪引いてたからなのか……」
思い起こせば数日前から咳き込むことが多くなっていた。
季節の変わり目だからと彼女は笑っていたが、あの頃から兆候は出ていたのだ。
(ごめんな……お前が具合悪いのに気付いてやれなくて……)
小さな手を取って、そっと包み込む。
まだ少し熱い、恋人の手。
(直ったら、うんと大事にするから)
額の汗を拭きながら、自分の不甲斐なさを叱責する姿。
「後で、太乙も来るらしいぞ」
「分かった……」
時計の秒針が進む音さえ、もどかしい。
ただ、じっとしていることしか出ない自分が一番歯痒かった。





「ん……頭、痛い……」
ゆっくりと開かれる瞳。
「普賢?」
「道徳……どうしたの?」
訝しげに覗きこんでくる。
「定例会の後、お前倒れてさ……それで……」
「え……そうなの?ゴメン……迷惑かけちゃったね」
すい、と伸びてくる手。
「起きて、最初に見る風景があなただと……安心できるね……」
殺し文句はいつだって彼女に先に決められてしまう。
「少し、寝てろ。まだ……本調子じゃないんだから」
掠めるような口付け。
まだ、ほんのりと熱い気がした。
「熱あるぞ……」
「違うよ。熱いのはそれのせいじゃない」
意味深な言葉は深読みをさせるためのもの。
時折彼女は巧妙な罠を仕掛けるのだ。獲物が気付かないように。
無意識の誘惑ほど性質の悪いものは無い。
「……喉、乾いた」
頭を押さえ込むようにして、唇を重ねる。
窓の外にはまだ忌々しい太陽。
待ち望む夜はほんの少しだけ、遠くに。
「まだ、ヘンみたい……この辺が痛いよ……」
手を取って、そのまま左胸に当てる。
掌に感じる小さな鼓動と、暖かさ。
分け合える為の夜はまだ来ない。
「熱、あるな……」
こつん、と触れる額。
「うん……当分治まれない……」
「治まらないの間違いだろ?」
乾いた唇が紡ぐ言葉。
「治っちゃったら、こうして居られないから」
熱に侵されているのは、彼女では自分の方。
冷める事の無い恋と言う名の病。
「そうだな、治れないな……」
「うん……」




入るに入れないまま、太乙真人と玉鼎真人は回廊で顔を見合わせた。
「不毛な恋は、やめたら?玉鼎」
硝子の薬瓶と、普賢の好きな果物は盆の上で鎮座する。
それを持ったまま、時間は過ぎていく。
「そうしたいのは山々なのだがな」
太乙真人も、同じように恋の真っ只中。歯止めが利かないことなど十分承知している。
「これ、置いて帰ろうよ。普賢の風邪が治ってからの考えな。玉鼎」
「そうするか。まぁ、諦めるつもりは毛頭無いのだが」
回廊に迷い込むのは春の風。
咲き始めた桜の花弁がはらりと舞い込んでくる。
荒地に近かった九巧山を、ここまで変えたのは彼女の努力の賜物だった。
春に、夏に、秋に、冬に。
一足ごとに進む季節の中、思いを育ててきた。
「熱が下がったら、花見でもしたいな」
「うん。あの樹は、九巧山(ここ)にきてから育てたのにあんなに大きくなったんだね」
自分の背丈よりも、ずっとずっと大きくなった樹は時間の流れを顕著に現す。
移り変わりの激しい人の世で、自分だけが時間を止めたまま。
「ずっと一緒に……色んな季節を見て行こうな……」
窓の四角に切り取られた景色。
「うん……春にも、夏の手前にも……沢山見て行こうね……」
ほんのり熱い掌と唇。
風に揺れ散る花弁を、二人で見つめた。





「そんで、コーチも風邪引いたらしくてさ。師叔もそんな丈夫じゃないんだから気をつけるさぁ」
太公望の後ろを歩きながら天化はあれこれと二人のことを話す。
普賢真人の風邪が完治したと同時に今度は道徳真君が床に伏したのだ。
紫陽洞に泊り込み、桜が散るまで結局は一緒に過ごすことに。
「わしには風邪など引いてる余裕は無いぞ」
言う傍から、太公望は小さく咳き込む。
「師叔?顔、青いさ」
「これくらい平気……」
「駄目。今日はもう休むさ。旦さんには俺っちから言っとくから」
背中を押されて自室へと押し込まれる。
(まぁ……天気も良いし、酷くならぬうちに休ませて貰うかのう……疲れもたまっておるし)
布団を被って、うとうとと眠りに落ちかけた頃だった。
「太公望!!!大丈夫かっ!!なんで俺にいわねぇんだよ!!」
「太公望師叔!!お薬を持ってきました!!糖衣錠です!!これから飲めますよねっ!!」
「お師匠様〜〜〜〜〜っっ!!」
「ご主人!!あれほど無理しちゃ駄目だってボクは言ったッスよ!!」
半泣きで抱きついてくる武吉と四不象の頭を撫でながら、彼女は小さく笑う。
「太公望。疲れている時には休んで構わないのですよ。貴女はこの国にとって掛替えの無い人なのですから」
「太公望殿。無理は良くねぇ」
いつも、どんな時も。
彼女の周りには光が溢れている。
「……うかうか寝込むことも出来ないのう……」
「師叔!!果物持ってきたさ!」



春の陽だまりの中。
ある日の甘い甘い騒動記。






                 




22:53 2004/04/12

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