◆七色の月◆
「おい、お前熱あるんじゃないか?」
こつん、と額を合わせるのはいつもならば彼女のほう。
ぼんやりとした瞳で男を見上げてため息を。
「わかんないけど、なんか寒い」
「寝てたほうがいいな、風邪かもしれないし。酷くならないように」
子供にするように頭を撫でて、寝室へと促す。
肩まで上掛けと毛布で隠すと、程なくして聞こえてくる小さな寝息。
(寝つきいいのな……一緒に居てとかも言わないし……)
少しだけ冷たくなり始めた風が窓を揺らす。小柄な彼女が寒がらないようにと薄い毛布を
もう一枚上からそっと掛けた。
彼女がここに出入りするようになってから馴染みの薄かったものが鎮座し始めた。
厨房には大小様々ななべと調理器具。細かく分けられた色とりどりの調味料。
小瓶に入った蜂蜜さえも、花の種類で味が違うと数種ある。
茶葉にいたってはどれがどれだか認識できないほどだ。
(こう……一人で茶飲んでも美味いわけでもないんだよな……)
甘い果実や手作りの菓子。焼きたての月餅に熱々の餡饅。
蜜を絡めた飴芋。香ばしい胡麻団子となによりも甘いその笑顔。
そそくさと茶器を片付けて、部屋を移る。
紫陽洞に織機を持ち込んだのは彼女が最初で最後になるだろう。
気に入った色の糸は何個あっても困らない。
そういいながら彼女は布地を織り上げていく。
一目一目、丁寧に。肌に触れたとき心地よいと感じられるように。
(俺には何がなんだかわからんけども……)
白紙に書かれた数字の羅列。彼女が布地を織る際にする最初の作業。
どの糸をどこに。模様の位置をここに。
(こんな風にしてたんよな)
同じように糸を掛けてみようとしても、得て不得手はあるもので。
模様を壊してしまわぬようにと、彼はそっと元に戻した。
手持ち無沙汰な心と身体。出来ることといえば彼女の熱が下がるようにと祈ることくらい。
まだ夜の気配は遠く、足音さえも聞こえない。
長椅子にだらりと身体を預けて、ただ静かに瞳を閉じた。
(やべ……寝てた……)
身体を起こして、辺りを見回す。
そして、いつもあるはずの姿とぬくもりがないことに改めて気が付いてしまう。
それだけ自分の中に彼女が入り込んでいるということ。
(まだ寝てるだろうな)
窓枠から見える蕩けそうな夕日。巣に戻り行く雁と翅を閉じ始める蝶。
音を立てないように、静かに扉を開く。
「あ、道徳居た……」
まだ半分とろんとした灰白の瞳。
「起きたのか?」
小さく頷いて、寝台から降りようとするのを制する。
「お腹すいたでしょ?何か作るよ」
「いいよ。俺がやるから。もう少し寝てろ」
そうは言われてもここ何十年か彼がまともに料理などしていないことはよく知っている。
寝ていろと言われても、思わず難色を示してしまう。
「でも、道徳お料理苦手でしょう?」
そういわれれば言葉が出ない。確かに得意なほうではないからだ。
「だ、大丈夫だ!!俺だって長年仙人やってるし!!」
「そう?」
彼の背中を見送って、なんとなく不安を感じて肩掛けを引き寄せる。
二人で下山した際に選んでくれた浅黄色。
自分では思いつかないその色に、胸が温かくなった。
(指とか切ってないといいんだけど……)
ひりひりと痛む喉をさすりながら、恐る恐る厨房を覗いて見る。
普段ならばすぐに気が付くはずなのに、余裕がないのか振り向いてもくれない。
けれども彼が懸命に自分のためになれない料理に挑んでいるのは確かなこと。
(どんな味でも、何が出されても……心意気で食べてみせるから)
素知らぬ振りをして寝室へそっと戻る。
上掛けを被って眠った振りをした。
本音の心はどきどきと。眠れるほど悠長にはなれない。
(うれしいな……こんなことがあるなんて思わなかった)
心配な反面、うれしくてたまらないという気持ち。
どんなものでも世界で一番美味しいに決まってるから。
そわそわと待ち遠しい心を押さえ込んで、生まれてくる笑みを毛布を噛んで殺した。
「普賢」
「なぁに」
上掛けをそっとずらして顔を上げる。
「晩飯つくった、起きれそうか?」
手を引かれて身体を起こす。盆の上にのった小さな土鍋と小皿の上の浅漬け。
ひざの上に乗せて静かに蓋を開けた。
「!」
ふわん…湧き上がる暖かな湯気とやさしい匂い。
「おいしそう……」
「粥とかそんなのしか出来ないからさ……俺も同じ飯」
「一緒に食べよ。そのほうがもっと美味しくなるよ」
小さめの卓を持ってきて、二人で向かい合わせ。
くたくたに煮られた薬膳粥。葱と白胡麻とさっぱりとした塩。
「あれ、このお塩何か違う……」
「味見ながら三種類混ぜたんだ。難しい味付けとかできないしさ」
それでも、彼がつくりだたしたこの優しい味はきっと自分には真似はできない。
手間に敵う愛情は無し。背中を丸めながら四苦八苦する姿を想像すれば愛しさが増してくる。
「すっごく美味しい。ありがと」
「食い辛くないか?」
「こんな美味しいの食べたの久しぶり……熱も出してみるものなのかもね」
二人で育てたこの時間を、愛しさをこめて小さな種にしよう。
芽吹く春が来て、また一緒に愛でられる様に。
朝に夕に君がくれる思いを抱いて太陽を見上げることの喜びを。
幸せは一人で得るものではなく、二人で作るものだと教えてくれる君に。
「ごちそうさまでした。美味しかったぁ……」
頭を撫でてくる手に、瞳を閉じる。
君を思えば長い夜だって甘い時間に変わるから。
「片付けるから、普賢は寝てなさい」
「はぁい……」
乾いた大地に水が染み込んで行く様に、彼の暖かさが全身に入り込む。
背中を見送りながら、もう一度両手を合わせる。
小さく小さく「ありがとう」と呟いて。
それから少しだけ時間を置いて、今度は桶をもって彼が部屋へと戻ってきた。
「?」
「竹酢入れたから、少し気持ちいいかとは思うんだけどさ。汗掻いただろ?身体拭いたほうが
良いと思って。ほら、脱いで」
熱い湯に浴巾を浸してぎゅっと絞る。
「え、あ、自分でやるから良いよっ」
「背中とか拭けないだろ?裸は見慣れてるから大丈夫だって」
言われるままに夜着を脱いでそっと背中を向ける。
汗がふき取られる感触に思わずこぼれるため息。
「気持ちいいだろ?」
「うん……気持ちいー……」
耳、首、細い腕。気づかなかった傷跡といつも見るよりもずっと細くて小さな身体。
この腕に抱くときには気が付かないことを教えてくれる。
「腕……細いんだな」
やわらかく細やかな筋肉が構成する身体。自分とはまったく異質な構築ときめ細かな肌。
右耳のあいた小さな穴とうなじに掛かる後れ毛。
「そんなこともないよ」
「いや……女の身体だなって思ったんだ」
「変なの。そんなに違う?」
ふわふわの毛足に汗止めの粉を絡ませて、そっと叩く。
肌に吸い付くように白粉は消えて、さららと手に感じるなめらかさ。
「ありがと、すっきりした」
見上げてくる瞳の色は重ねた月日の分だけ優しくなれるから。
心の底から信じてみよう、愛してみようと感じられるように。
香油に灯を落とせば二人だけの空間が出来上がる。
うっとりと閉じた瞳と胸騒ぎ。無防備は最大の誘惑と色香。
「道徳?」
「いや……その、な……」
手を伸ばして男の身体を抱き寄せる。普段自分がされているように彼の耳朶にそっと唇を当てた。
自分がされて嬉しいことを一つずつ返して、それを繰り返して育てる気持ち。
「ここに、して」
重なる唇が少し乾いていることも、背中を抱いたときに感じるごつごつとした感触も。
「まだ少し、熱っぽいな」
柔らかい胸がくれる安定も、長い睫毛が魅せる艶気も。
「寝たほうが良いな」
「眠りたくないの」
時折つぶやく小さなわがままを叶えるのが、恋人の特権。
「お月様もあんなに綺麗なのに」
こつん、と胸に凭れる小さな頭。
そっと抱けば、とくんとくんと心音さえも聞こえてきそう。
「寒くないように、上着と肩掛け準備するか?」
「うん」
「あとでもっと酷くなってもしらないぞ」
「うん」
月がおいでと誘うから、そう理由をつけて二人で外に出る。
兎だって寄り添いたいこんな夜だから、二人で手をつないだ。
庭に出て見上げた月は十六夜。
完全なものよりも、どこか欠けたものの方が美しいと感じてしまう。
膝掛けと肩掛けを抱いて、二人で長椅子に座って。
片隅の蒲の穂を見ながら夏の尻尾を掴もうとした。
「もうこんな季節……」
もうじき紅葉が美しくなり椛や楓で鮮やかになる。
「あっという間に一年が過ぎていくんだね。冬までに織り上がると良いんだけど」
深緑に染め上げた糸で織り上げる布地で何を作ろうか。
寒さに凍えることがないようにと、少しだけ糸の強度を上げて織機に掛けて行く。
「道徳が風邪引かないように、あったかい上着を作りたいの」
自分のことなど二の次で、彼女はいつも彼や親友、弟子たちのことばかりを優先する。
前面に出ることよりも一歩引いた位置に居ることが多い。
かといって物静かなだけではなく、一度攻撃に転じれば徹底して相手を殲滅する。
彼が動で彼女が静。そんな風に言われることも多いがどちらもよく似た激情形。
それを表に出すか内に秘めるかの違いだけ。
だからこそ惹きつけ合ってこの恋に身を投じた。
「お前が居てくれればそれだけであったかいよ」
「……恥ずかしげもなくいえるなんて、ヨウゼンにでも感化された?」
「馬鹿娘さんが。俺だってたまにはかっこいい事言ってみたいんだよ」
ぽろり、ぽろり。こぼれる涙。
優しい人の言葉は愛となってこの心に沈んでいく。
困難でも苦しくても。奇麗事だけでも無く時に罵倒しあっても。
「泣くなって」
「泣いてないもん……」
「そうだ、お前って兎好きだろ?」
こくん、と頷くのを見て彼は静かに印を結んだ。
指先から生まれた光が月に描いたのは、彼女の好きな兎が二匹。
「すごい……」
「道士見習いの時に慈航と競ったんだ。どっちが上手く描けるかって」
もう一度指を滑らせて描いた文字。
月に浮かぶ『我愛称』に、目を見開いてしまう。
「俺はお前の一番で居られればそれでいいんだ」
「ありがとう……世界で一番大好き……」
この時間が泡沫の夢であっても、夢さえ見れない悲しい世界よりは遥かに幸せだろう。
「惚れ直したか?」
「うんっ」
熱っぽいのは君のせい。眠れない気持ちを分け合って。
「んじゃ、そろそろ戻りますか」
そっと膝抱きにして、邸内へと戻っていく。
七色の魔法が掛かった月光を小さな瓶に閉じ込めよう。
生まれたての月の雫を飲み込んで、優しい気持ちになれたなら。
この手で君を抱きしめたい。
「ゆっくり寝なさい」
「一緒に寝てくれないの?」
じっと見上げてくる視線を振り切ることなどできない。
いつものように左腕に感じる心地よい重みと暖かさ。
「あったかーい」
寒い夜も二人で抱き合えば暖かく過ごせることを教えてくれた君に。
同じように暖かさを返せることが、今すごく嬉しく思える。
「明日の朝には熱、下がってるといいな」
「うん……でも、下がらなくてもいいの」
「ん?」
「下がらなかったら、明日も道徳とこうしていられるでしょう?」
見え無いはずの唇が、笑っているのがわかるくらいに。
重ねた信頼とこの優しく甘い日々。
「そうだな。でも……お前が苦しんでるのは見たくないんだよ」
「ありがと……」
この細胞の一つ一つに刻まれていく君の名前。
永遠に忘れることのないように、深く深く閉じ込めた。
夢の中で見上げた七色の月。
今宵も二人、肩を寄せ合った。
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0:22 2005/09/16