◆手を繋ごう◆





「道徳、ほら、雪」
窓の外で降り始めた雪を見て、普賢は嬉しそうに笑う。
「ああ、もうそんな季節か。窓開けっ放しにすると風邪引くぞ」
「うん。明日には積もるかな……積もったらいいなぁ……」
あれこれと思案してはうふふと笑う声。
(雪が降るだけもそんなに嬉しいもんなのかね……まぁ、綺麗だろうけども。邪魔になったら太極府印で
 じゅーっと行くんだろうけども……あんなにはしゃいで……)
掌で溶ける真白の雪は、まるで砂糖菓子のように心まで甘やかにしてしまう。
一瞬で形を変えるのは人の世と同じ。
世情の雨がその罪を背負って雪になり、心を潤す。
「そういえば、道徳と最初に雪を見たのってどれくらい前だったのかなぁ……」
「二十年位前だろ?いや、もっと前か。どうも最近時間の感覚がおかしいんだよな」
甘い香りの華茶を入れて、道徳の前にそっと差し出す。
男一人が暮らしていくには、目にすることのない一品。
普賢とこうなってからは随分と彼女の身品が増えてきた。
(離れてるのもアレなんだよな……早く嫁に来いって言ってんだけども……)
その話をいくらしても彼女は首を縦には振らない。
どの様に詰め寄っても「もうちょっとだけ、待って」とかわされてしまうのだ。
(まぁ、気は長いほうだから良いけどね)
出された華茶に口をつけて、ちらりと件の人を見る。
窓を開けて、降り積もる雪を見ながらうっとした表情。
(あーゆーとこは女の子だよな。物騒なものは持たないほうがいい。綺麗な指してるんだし)
剣を握り、弟子に指南する姿さえも彼から見ればどこかしら可愛らしく思えてしまう。
ほっそりとしてしなやかな指に無骨な剣は似合わない。
いっそ花でも持たせてやりたいとさえ。
(あー、でも……だから俺、惚れた欲目って言われんのかな)
痘痕も笑窪と言うように、恋してしまえばどんな傷だって可愛らしく思えるもの。
彼の場合はそれが過剰なまでにあるが故にいつも友にからかわれるのだ。
(まぁ、恋人も居ないような慈航に馬鹿にされる筋合いはないけど)
甘やかなだけの女ではなく、強かに美しくありたいと願う。
それで居て酷く脆い一面。
危うい均衡が心を掴んで離さない。
(しばらくはこうやって二人でのんびりしてるのもいいよな……うん……)
完璧なものなど必要ない。
穏やかに、緩やかに流れるこの時間が心地よかった。
ただ、二人で居られるこの空間。
「いい加減にしとかないと風邪引くぞ」
「だって、綺麗なんだもの」
珍しくわがままを言う声がやけに愛しく思えて後ろから抱きしめて頬を寄せる。
「どうしたの?」
「風邪引かないように。くっついてりゃ少しは温かいだろ」
「そうだね。道徳は温かいから、風邪引かなくてすみそう」
窓に手を付いて、普賢は雪の降るさまをじっと見上げて小さく笑う。
「つもったらまた、太極府印で溶かすのか?」
「雪ダルマでもつくろうかな」
「そういや昔、慈航と競ってどっちがでかいのを作れるかやったなぁ」
すっと手を伸ばして窓を閉める。これ以上風に当たるのは身体に障るから。
風邪を引いたら引いたでそれもまた楽しいことも出来るのだが、拗らせた時が恐ろしい。
(いや、本当に俺……依存してるかも。どうしようもない……)
昔はそれなりに自分のことは自分でやってきた。
それがいまやこの体たらく。
(花の一つくらいでも贈ろうかな……でも、何がいいんだか……)
肩口に顔を埋めれば、しっとりとした肌が誘ってくる様。
(やば……いい匂いがする……)
誘う香りは脊髄を直に侵していく。
降り積もり雪に重ねた下心。
淡く溶けるか、昇華するかは誰にも分からない。





ほんの数時間前の出来事。
(道徳、本当に片付け事嫌いなんだよねぇ……今更だけど)
散らばった書簡を拾いながら普賢はふいに恋人のことを思い出していた。
雨の気配は、二人の距離を消し去る魔法。
(肌寒い……雪になるのかな……)
香炉に火を落として、室内を甘い色に変えていく。
仕掛ける罠は自然に、巧妙に、軽やかに。
そして、無意識の内に。
(雪、降ったら良いのにな……いっそ大雪になっちゃえば二、三日くらい一緒に居られるかも)
こじつけでもいい、なにか理由があれば誰かに咎められることにはならない。
公然の秘密ではなく、もう少し堂々としたいところ。
それが出来ればどんなに楽だろう。
出来ないまま、何もいえないままの自分がここに居る。
同じように、口に出して言えればきっと何もかもが変わるはず。
その一言が言えないまま。
(意気地なし……もう少し勇気があればいいのに……)
もう少し可愛い女で居られたならば、素直に甘えられたのかもしれない。
何かに付けて可愛げがないと口論になることもなくなるだろう。
(ただ、綺麗なだけな人形なんていらないじゃない……)
ため息はひらひらと形を成し、蝶の様に儚く落下する。
憂鬱と言う名の粉をまきながら。
(だったらボクじゃない誰かを選べばいい……ねぇ……)
頬に触れた粉は不安という気持ちに変わる。
頭を振って打ち消そうとしても、頭痛と揺れる心は明日まで見えそうで。
(やだ……別にいいのに……)
床に座り込んで、自分の身体を抱きしめる。
触れられれば、それだけでこの気持ちは溶けてしまう。
それなのに。
(すぐに怒るし、酒癖悪いし、嫉妬深いし……)
指を折って数えれば、キリがない喧嘩の数。どっちも譲らずに意地の張り合い。
折れて頭を下げるのは八割方は彼のほうだ。
(散らかし魔だし、それに……するの好きだし……)
抱かれた数を指で折るなら、日が暮れてしまう。
砂の中から宝石を見つけるような徒労に終わってしまうのが目に見えていた。
(でも……)
どれだけ不安に苛まされても、眠れない夜に責められても。
(好きなんだ……あの人のことが……)
両手で頬を押さえて、途方にくれるこの暗い気持ちを閉じ込めようとする。
目を閉じて、ただ待つだけの女にはなれない。
誰かに縋って、身を委ねて、傍で笑って、甘い声で囁いて。
一般的な男が求めるような女とはかけ離れた自分がここに居る。
考えれば考えるほど、糸は縺れて胸をきりきりと縛り付けていく。
熟れた傷口から零れるのは涙。
はらはらと散って、自分の気持ちを知らしめる。
(やだ……止まれ……)
泣き顔は見せたくはない。
(泣かない。こんなことじゃ。もっと……大事な時までとっておくって決めたんだから)
顔を洗ってぱちんと頬を小さく叩く。
鏡に映る自分の姿はまだまだ頼りない。
(もっと、強くなろう。もっと……)




「普賢、欲しいものってあるか?」
閉じていた瞳がゆっくりと開く。伸ばした手を取って、そっと絡めた。
「欲しいもの?どうして?」
上掛けから伸びた足首が目に眩しい。
「この間、天化の奴が大騒ぎしてからな。『師叔の欲しいものがわからないさ!』って。太公望もそうだけど、
 お前も何かをねだるとかはないなって思ってさ」
抱き寄せれば、肌のぬくもりが伝わってくる。
甘い香りの胸に顔を埋めればそっと頭を細い腕が抱いてくるのが分かった。
「欲しいものねぇ……聖典文章とか?」
「……なんだそれは」
「冗談だよ。そうだね……雪の花……とか?」
別に何が欲しいわけでもなく、架空とされる花の名を告げた。
雪華は曖昧な存在でその意味を定義はされない。
「……雪の花……ねぇ……」
細い背中を抱いて、目を閉じる。
「だから、冗談だってば。欲しいものはないよ。こうしてられるだけで十分」
たまには小粋に何かを送りたいのが男心。
下心も裏も捨てて、喜ぶ顔が見たいから。
(絶対に見つけてやる。たまには俺だって格好付けたいんだ)
柔らかい乳房に甘く噛み付けばかすかに肩が震える。
「本当に何も欲しいものなんてないよ、ね、だから……」
「分かった、分かったから」
笑いながら小さな頭を優しく撫でてくる。
長い人生には隠し事、秘め事も大事な隠し味。
匙加減は腕の見せ所とばかりに、言葉巧みに隠してしまえば良い。
甘く出るか、辛く出るかは誰にも分からない。




翌日から道徳は普賢がこぼした雪華を探して崑崙中を走り回る。
大法師二人や文殊天尊と先代からの知恵人に聞いても一行に手がかりはない。
(意地でも見つけてやるからな。待ってろよ、普賢)
今日も、今日とて彼は走り回るのだ。
「騒がしい男じゃのう」
ふわふわと宙を舞うのは道行天尊。
くるり、と回転するたびに巻き毛がぷわん、と揺れる。
「道行。丁度良かった。雪華を探してるんだが……」
「随分と難儀なものを。女禍の桃に並ぶのではないか?」
「じょ、女禍の桃!?そんなモンと同列なのか?」
ちょこんと岩の上に座って道行はニコニコと笑った。
「まぁ、焦らずとも千年ほど待てば見れるだろうて。中々に美しいものじゃったぞ」
自分よりも幼く見える仙女は、遥かな時間を抱いてきた。
「舞い上がって雲まで行けそうか?道徳よ。可愛いものじゃ」
ぴん、と額を弾かれ、苦笑するしかない。
「あれが言う雪華はおぬしなら見つけられるよ。何、物の例えとしてそういったに過ぎぬのであろうて」
耳元にはきららと揺れる紅玉。伸びた金の鎖がしゃらんと笑う。
「たまにはさ、俺だって格好付けたいんだ。道行」
「分かるよ。じゃがのう、見せ掛けだけのものは好まぬだろう?あれは」
女同士にしか話せないことも沢山ある。なにかを思うたびに普賢は道行の洞府に足を運んでいた。
自分には言えない何か。
些細なことでさえ、気になってしまう。
「探してみるしかないよな。ありがとう、道行」
ひらひらと手を振って、彼は再び崑崙中を走り回る。
ただ、恋人の笑顔が見たいだけ。
あの溶けそうな甘い笑顔に似合う花を贈りたいだけなのだ。





どれだけ探しても、件の花は一向に見つかる気配すらない。
苦手な書庫にも足を運んでみても、欠片ほどの情報すら得られないまま時間だけが過ぎていく。
(やっぱ……見つかんないのか……)
がっくりと肩を落としため息をついても、何も始まらない。
(たまにはさ、喜ばせたいんだよ……俺だって)
雪はただ、音もなく降り積もり景色の色を全て白に変えてしまう。
想像の中にある花は、きらきらとしていて手が届きそうなのに。
触れてしまえば一瞬で溶けてしまう。
(せめて……白い花だけでも……)
自分の不甲斐なさに苦笑すらでてこない。
花びらについた雪を払って、壊さないようにと胸に抱く。
まるで恋人を抱くように。
そして、いざ扉の前に立っても手をかける勇気が出ないまま、時間だけが過ぎていた。
(誰か来たのかな?)
この雪の中尋ねてくるのは余程の用件か余程の暇人かどちらかしかない。
人の気配は感じても、それ以上が無いことを案じて普賢は静かに扉を開いた。
「……どうしたの?」
「いや……その……」
頭や肩に積もった雪を小さな手が払っていく。
「冷たくなってる、風邪引くよ。入って」
触れた頬は冷え切っていて、どれだけの時間外に居たのかを伺わせた。
「ごめん、大見得切った割には見つけられなくて……」
沈痛な声。
困ったような笑みで彼女は彼を見つめた。
「ボクは、雪の華よりも……君がここに居てくれるほうが嬉しいよ」
「……それでも、見つけたかったんだ」
見上げてくる灰白の瞳。
小首を傾げて、仕方ないねと笑ってくる。
「大雪が降ったら一緒に居られるかなって思った。ね……ボクは、道徳とこうやって手を繋いでいられるだけで
 十分だよ。こんなに冷たくなって……ごめんね。我侭につき合わせちゃって」
絡めてくる指先の温かさと甘さ。
手を繋ごう。君と離れないためにも。
「これ……違う花だけども……」
「綺麗……どうしたの?」
白い蝶の舞うようなその花は中央を紫が彩り、柔らかい仕草で彼女の腕の中に抱かれた。
「雪の華じゃないけれども、なんとなくお前に似合いそうだったから」
「ありがとう。嬉しい」
白き花はその優美さで、彼女の笑みを見事に引き出す。
雪の季節に咲く繊細な花弁は硝子細工のように脆く、触れれば壊れてしまいそうな錯覚に陥りそうだった。
言うなれば雪の華のようだと。
「胡蝶蘭……大事にするね……」
「良かった。嫌いな花だったらどうしようかとも思ったんだ」
「蘭も好き。でもね、花よりもあなたのほうがずっと好きだよ」
「え………」
房事以外では好きだとは滅多に言わないの彼女の言葉。
「ちゃんと、自分で言いたかったの。大好き」
本当の雪の花は、彼女自身だったかのかも知れない。
触れたら壊れそうだと、躊躇いながらこの腕に抱いた。
花は、一見すれば短命ではかない物に見える。
その実は、凛としてその生命を謳歌するのだ。
「……普賢…ッ……」
「苦し……」
ぎゅっと抱かれて、乱れる呼吸。それでも、離れたくないと思い気持ちは同じだった。
繋いだ手を離さないように、互いの暖かさを失わないように。
伝えるべき言葉は口にしようと決めた。
「雪の華、見つけたよ」
「え?本当に?」
額に唇を落として、耳元で囁く。
「ここに、あった」
「……馬鹿……そんなにやわじゃないよ」
二つの影は静かに重なって一つになる。
「ね、胡蝶蘭の花言葉って知ってる?」
「いや……何なんだ?」
「……教えない。内緒」
頭一つ分背の高い恋人に、届くように爪先立ちで背を足して。
「好き……大好き……」
触れるだけの接吻は、甘やかで降り積もった雪でさえ溶かしてしまいそう。
一匙の砂糖で海までも甘くできる。
それが恋というものだから。





「よ!二人揃ってどこに行くんだ?」
雪解けの道を歩く二人に慈航が声をかける。
「太乙のところにちょっとな」
「ふ〜〜ん。また変なもの飲まされんじゃないのか?」
くすくすと普賢は笑いながら、慈航を見つめた。
「慈航も行く?変なものを飲まされに」
「勘弁してくれ……ようやく雲中子から逃げ切ったとこなんだから。崑崙の女は豪傑揃いだからな。
 道徳も気をつけろよ。そこのお姫さんだって何時寝首を掻くかわかんねぇぞ?」
からかい半分の口調はいつものこと。
「別に。一人寝は寂しいんじゃないのか?慈航」
そう言われれば言葉もでない。どういったところで恋に落ちてるものには馬耳東風。
「それじゃ、俺たちは変なものを飲みに行くから」
ひらひらと手を振って二人はてくてくと進んでいく。
しっかりと指を絡めて、離れないように手を繋いで。
「変なもの、飲むの?」
「まさか。飲みたいのか、普賢は」
けらけらと笑いながら普賢は首を横に振った。
「ね、我侭言ってもいい?」
きゅっと繋いだ指先に力が篭る。
「時々で良いから、こうやって手を繋いで。それだけで良いから」
不安は、指先が触れるだけで解けるから。
掌で解けた雪のように。
「時々じゃなくて、ずっとこうしてような」
彼は彼女の手を引いて、少しだけ前を歩く。
歩幅の小さな彼女に負担が掛からない程度分だけ。
何かを変えるためには、自分で動かなければ何も変わらない
だから……その小さな一歩を二人で踏み出すことにした。
春に、夏に、秋に、冬に。
過ぎ行く季節をゆっくりと歩いていこう。
「そうやって笑ってくれるだけで、俺も十分だよ」
「じゃあ、今日から寝室別でもいい?」
「待て!!だから、その、それとこれは……」
「あははは。冗談だよ。道徳に抱かれるのが嫌なわけじゃないの」
ほっと胸を撫で下ろして、彼は安堵の笑みを浮かべた。
「でも、飾られた人形になるのは嫌。いっぱい話もしたいし……喧嘩もしちゃうんだと思う」
さくさくと足に絡む雪。
濡れてしまわぬようにと、抱き上げて道徳は普賢の顔を覗き込んだ。
「気が強くても、我侭でも、気難しくても構わない。俺が好きなのはお前だから。他に代わりなんて無いんだ」
首に手をかけてそっと頬に唇を当てる。
ちゅ…と離れて、冬の風が撫で上げていく。
「我侭くらい受け止める技量はあるぞ。そんなに不甲斐ない男じゃないつもりなんだが……」
「うん。知ってる」
「だったら心配なんかしなくても良いんだぞ。俺はお前がどこに居ても見つける自信はあるからさ」
その声が、指が、不安を溶かす魔法。
この雪が解けていくように、少しずつ心を覆う殻が剥がれていくのが分かった。
「そういや、あの花の花言葉って何なんだ?気になるんだけど」
「後で教えてあげる。早く行かないと太乙に本当に変なもの飲まされちゃう」
「うわ!急ぐからちゃんと掴まってろよ!!」
岩山を蹴って、道徳真君は乾元山を目指していく。
(やっぱり知らないでくれたんだ……でも……)
ぎゅっとしがみ付いて普賢は目を閉じた。
(それでも、あなたがあの花を選んでくれたのは偶然じゃないって思っても良い?)
彼女が指した雪の花は、本当は別のものだったけれども。
(ねぇ……ボクは一生あなたには勝てないんだね)
それよりももっと綺麗なものをこの腕に抱くことが出来たから。
心に咲いた小さな花は、枯れることなく永遠に咲き誇る。
それが雪の華なのだから。



真白の蘭は窓際で、今夜も二人を見守る。
雪を映したようなその白さと潔白。
絡まる影を見つめて、恥ずかしげに頭を垂れる。
冬の寒さは、互いの体温があれば凌げるから。





         『胡蝶蘭 花言葉
          幸せの訪れ 愛してます』







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