◆乙女文楽◆
「少し熱があるね。泊って行ったら?」
ふらつく足もとの恋人に少女が声をかけた。
急に寒くなり始めた季節は心まで少し離れてしまいそうで不安になる。
「ん?大丈夫だぞ。でも泊ってく」
こつん、と触れた額が熱い。
そのまま男の首を抱くようにして体を寄せた。
「やっぱり熱あるよ」
「少し寒いかな……」
「普段、病気しないから気にならないのかもしれないけど……酷くならないうちに治ったほうが良いし」
薬師としてもそれなりの功績がある少女。
苦いものは得意じゃないと呟く彼の為にいつも糖衣で包むような心遣い。
「お風呂作っちゃうから、それまで少し横になってた方がいいよ」
背中を後ろから押されて寝室へと連行される。
こんな時はわざと逆らわないで従ったほうが何かと楽しめる。
「ちゃんと寝ててね」
「へいへい」
ぱたん。扉が閉じるのを確かめて毛布を引きよせて。
ほんのりと恋人の香りが鼻孔を擽る。
(そういや……普賢の匂いって落ち着くよな……)
出会ってから一緒に過ごす日々を重ねて、それが段々と自然になって。
慣れ切ったころに大喧嘩を繰り返してそれでも互いに思ういあう。
当たり前を積み重ねすぎて最近は「好き」の一言が聞けない。
夜の帳の外でも愛の言葉がほしいと思うのは我儘だろうか?
(たまには熱も出してみるもんだな……あさましいけど……)
粉雪は一面を白く染め上げ、この世に不浄など無いように思わせてしまう。
(あー……でも、うごけねぇのはな……)
眠る瞼に降り注ぐのは何千年も昔の光。
それは星にも似て思い出だけを照らしてしまうから厄介だ。
糸を手繰るようにして得る混濁した意識下。
耳の奥で何かが木霊した。
「珍しいね、ボクにお土産だなんて」
香ばしさを詰めた革袋を少女に渡して青年は苦笑した。
「師叔は甘くないと飲みませんし、天化君も同じ。武王も甘党。折角の西国渡りの宝香も
物腐れになってしまいます。普賢様ならば上手にどうにかしていただけるかと」
海老茶の豆はほろ苦そうに転がるばかり。
「珈琲豆なんて、書物くらいでしか見たこと無かったよ」
「他にも可可茶(ココア)と香草香精(バニラエッセンス)もございます。なにぶん、僕では
有効活用ができませんし」
厨房を自在に操れる少女ならば、この材料たちを可憐な菓子に変えることなどたやすいだろう。
「作りたいのは山々だけど、道徳が寝込んでるんだ」
素敵な魔法も、綺麗な夜空も。彼がいればこそのもの。
甘い香りに誘われて見せてくれる笑顔がないならば。
「道徳さまが。それは……天変地異の前触れかもしれませんね」
「でも……甘いものだったら少し食べてくれるかな?熱があるくらいだけどこじらせるよりは
良いかなって」
「師叔もここのところ遅くまで執務をなさってます。せめて、夜食に好きなものを持っていければ
少しは心も安らぐかと」
見え隠れする下心と隠すこともない本心。
「君の点数稼ぎの対価に、この材料ってことだね。請け負っても良いけど、君の恋敵の
師匠がそこの奥で寝込んでる。さあ、どうしようか?」
銀色の瞳が悪戯に片方だけ閉じられる。
「朱紅と漆黒の糸などいかがですか?普賢様ならそれで蝶も飛ばせましょうに」
駆け引きは巧妙に。
「蝶の羽根はすぐに溶けてしまうよ?」
胡蝶も恋も逃がせば大事。
「夜に飛ぶならば金と銀も必要でしたかね」
「朝に羽化するならばその空の色が無ければ捕らわれてしまう」
一筋縄で陥落できない軍師の親友は、同じように難攻不落。
「わかりました。明朝までに届けますので」
「取引成立ってことだね」
「俺が寝てる間にそんなことがあったのか」
焼きあがった菓子を頬張りながら彼はけらけらと笑う。
口元の破片を少女の指が優しく捕えた。
「寒いから染めるのさぼっちゃった。これで新しいの織って……黒に赤で華と蝶でも」
銀色の髪と瞳と逆さまの黒。
淹れたての珈琲と焼き立ての菓子が器の上で優しく笑う。
豆腐を生地にして作り上げたそれは仙人仕様ではあるが味は申し分ない。
「まだ熱ある?」
「あることにしてときゃ、俺がここに居る理由ができるだろ?だいたい、紫陽洞(うち)に
帰っても寒いだけだ」
「そうだね。採寸もしたいし」
今頃は彼女の菓子を片手に、ヨウゼンは軍師を必死に口説き落としていることだろう。
簡単に靡かない少女は唇に春待ち草の笑みを浮かべるだけ。
「厄介な女に惚れると面倒だってわからねぇのかな」
「望ちゃんって厄介?」
「誰にも靡かねぇってのは誰も信用してねぇってことだ。誰とでも寝るってのもな」
「……………………」
苦いものは受け付けない。
苦い言葉を受け入れても、彼女が苦言を呈すことは少なかった。
「まだお前のほうがよっぽどまともだ」
その言葉の意味を考えてしまえば、苦さの増す珈琲。
大義の前に己の感情などは必要無いといつも笑顔の無表情。
「笑っててもな、笑ってねぇんだよ。自分の好きな女がそんな笑顔しかできねぇってのは
苦しいもんさ。普賢はちゃんと笑う」
何気ない一言には真実が込められている。
だからこそ人生は苦しくも美しく楽しいのだろう。
「まだお前も太公望も若いからな。ヨウゼンも天化も」
悠久を過ごす者にとっては百年などは瞬き一つする間と同じ。
「まあ、長く生きててもこんなの作る女は初めてだけどな。本当、美味い」
この人と出会わなければもっと違う風が吹いていただろうか。
どうやっても嫌いになることができないと思うようになったのはいつからだろう。
「年をとると、考え方も変わるものなの?」
過ぎる年月を幾つ数えて、ついに誰も人は自分のことなど覚えていないようになり。
人が畏れ祀るような存在になったはずなのに。
いまだ自分は人間だと感じることもある。
「変わるんじゃないかな?俺もよくはわからん」
少し困ったように笑う彼と一緒に過ごせることはきっと。
「これだけ生きててもまだ見つからねぇものもあるし」
人間であったことを捨てて得た存在には十分なのだ。
世界が黄昏れば終焉が囁く。
その淵をのぞきこむものを取り込むために魅惑的な夜を準備して。
(結局同じことばっかり考えて、仙人って余計に時間が余ってるから面倒なんだ)
いずれは何も考えないようになり、空気と同じ存在に変わりはてる。
それが融合でありまた悟りなのだろう。
(つまんないなあ。終わりが見えないから全然劇的じゃない)
まだまだ退屈を感じる若さ。
「ただいま」
珍しく書簡を開く姿に、少女は首を傾げた。
「まだ熱、あるの?」
「……俺だってたまには仕事するさ。まあ、天化の始末書だけどな」
彼の自慢の弟子は少々無鉄砲すぎるところがある。
それでも黙々と筆を滑らせ、唇が少し綻ぶところを見ればまんざらでもないのだろう。
「今度は何やったの?」
「んー……ナタクと場外乱闘やらかして仲裁しようとしたヨウゼンが巻き込まれてさらに被害が
拡大した。今頃、太乙と玉鼎も始末書やってんだろうな」
彼女の唯一の愛弟子はそこまで酷い不始末などは起こしたことが無い。
「モクタクはあんまりそういうこと無いよ」
「躾が行き届いてんだろ。ったく、天化のやつは師匠を舐め腐りやがって…だから俺は毎回
始末書と闘う羽目になるんだ」
しらない者が見れば、まるで兄弟のようにも見える師弟。
しかし少年はまだ純真すぎる。
彼のように胸に混沌を抱いて生きることも、闇を飲み込むこともない。
「じゃあボクも」
「始末書はないだろ」
「うん。無いけども飾りが壊れちゃったから」
蜻蛉玉と組紐、妖精たちの羽根を編みこんだ轡。
銀砂作られた鈴には仙気が込められている。
彼女にしては珍しく真紅と漆黒の糸を選んだ。
細い指先がそれをおもちゃでも弄るかのように組み合わせていくのに思わず見惚れてしまう。
「珍しいな。普賢がそういう色を選ぶってのは」
ちら、と銀色の瞳が彼を見上げる。
「んー、赤と黒の布もらったからそれに合わせて。道徳のもいっつも同じような色になっちゃうから
同じように作っちゃおうかなって思ったんだけど……ボクとおそろいじゃ嫌?」
「お前、それ言ったら俺は嫌じゃない以外選択肢がないぞ。まあ嫌じゃないけどな」
伸びた手が銀色の髪をくしゃ、と撫でる。
随分と彼女は綺麗になった。
「?」
「ん……可愛いものだと思ってな。仙人やってて一番得したのはお前に出会ったことだよ」
場面も情景も関係無く呟く言葉はきっと真実で。
その中に禍々しい物を眠らせていたとしてもその情念ごと彼を愛しいと思う。
「なあ普賢」
頬に触れる暖かな手。
「罪の重さなんか数えたって花はさかねぇぞ。昨日のことは忘れちまえ。明日のことも考えるな。
悔むことのないよう、今だけを思え。罪を吸う花を思う姿は美しいが、囚われれば亡者になるぞ。
情念の花を切ることは俺の莫邪でも面妖なことになる」
胸の中に思うことは彼女もまた同じで。
罪を抱いて憎しみを飲み込んでこの場所に来た。
「莫邪の本来の使い方は罪と因業をを切り離すことだ。この季節は行き場の無いものが寄り代探してふらつくからな。
お前みたいに目立った銀眼は寄せやすいから病みやすい」
両手がそっと頬を包む。
「闇に飲まれないように、侵されないように、触れること無いように、気を付けるんだなお嬢さん。
鬼は闇にも夜にも無く……己の心の中に潜む」
額に触れる唇。
「魔除けのおまじないってやつだな」
「……お祓いくらいできるよ。これでも仙人なんだから」
「まだ子供だ」
「子供じゃないもん」
本当はまだ少し珈琲を苦いと思うように、彼女は実のところまだ幼い。
それを隠すために重ねた鍛錬も修練もわかるからこそ。
称えられもすればまた、悪しきものをして討ち払われて。
仙人とは曖昧で業の深い存在だ。
「早く始末書終わらせないと、子供は先に寝ちゃうよ?」
「ああそうだった。しかし眠くてな……こういうのって眠くなんだよ……俺……」
欠伸を一つ噛み殺して、こきりと首を鳴らす。
ぱたん、と閉じた扉が再度開けば小さな盆を持つ姿。
「はい、どうぞ」
淹れたての珈琲の香に、にこりと笑う瞳。
「ん?砂糖入れるのか?」
「無理しないことにしたの、子供だから」
「俺もそっち飲んでみたい」
「どうぞ」
茶器を渡す前に顎を取られ唇が重なる。
入り込んでくる舌先と分け合う呼吸に鼓動が早まって。
「あー、甘ぇな……うん……普賢が甘いから二倍に甘い。俺は砂糖なしで良いな、うん」
「そのうち飲めるようになるもん」
「それでも俺のとっちゃ激甘だな」
「…………………」
「…………何か言ってくださいよ、普賢さん……」
「……始末書、終わらせたら……?」
「……ほら、もっとこう……ぐっと来るような……」
潤んだ瞳に見つめられればどんな守りも陥落してしまうように。
「……子供だから先にお風呂入って寝てる。だから早く始末書終わらせたらいいと思うよ。
待ちくたびれたらそのまま寝ちゃうもの」
ぱたぱたと走り去る後ろ姿をぼんやりと見送って。
(そういやここのところご無沙汰だったなー……あー……って誘われてんじゃねぇか!!俺!!
始末書なんか明日だ!!明日っ!!)
気づいてしまえば追いかけるしか無くて。
「普賢ッ!!」
追いついてその手を取って。
「もう終わったの?」
「……っは……んなもの……明日で十分……ッ……」
「息を切らせて走るほどのことかなぁ」
「大事なんだよ俺にとっちゃ」
抱きしめるのも久々だと思ってしまう。
足りない心を埋め合わせるには夜が良い。
「おいで」
息を潜めて寄り添えば。
背伸びして並んで少し足りないくらいが丁度良い。
おやすみなさい、良い夢を。
眼ざめの香には甘い甘い珈琲はいかが?
12:28 2010/01/31