◆穿つ雨を待ちながら◆




雷鳴遠く夏の気配。
窓穿つ雨に眼を閉じる。



「雨降ってるねー」
「そうですね。これでは外には出れません」
窓枠の外は灰色の空間。それを楽しむかのように男は目を細めた。
この雨は少女の住まう城にも降り注ぐ。
それを思えば愛しいと思うことはあれども疎ましいとは感じない。
おそらく同じように彼女もこの雨を楽しんでいるだろう。
「雨の日はしけっちゃうよ。申公豹だってそうでしょ?」
空を駆ることを由とする霊獣にはこの雨はそうではないらしい。
書を認める楽しさ。
何を彼女に伝えようかと考えるほどに楽しくなってしまう。
咲き始めの小さな花を添えて何を思おう。
「雨の日はそれなりの楽しみかたがありますからね」
「僕は呂望と遊べないから雨はあんまり好きじゃないな」
時間は緩やかに流れていく有限たるもの。
僅かな間を楽しむのも一興と彼は呟く。
「ね、なんで申公豹は呂望が好きなの?前はもっと違った感じの女の人が多かったよ」
帝位を蹴り上げて彼は仙道となることを選んだ。
道士としてその才を目覚めさせ師である老子すらも凌駕する。
しかし、彼は本当に望むものは手に入らないと悟っていた。
たった一つ、ただひとつの願い。
「呂望は私の願いを叶えてくれるような気がするのですよ」





五千年を一人で生きてきたことを考えれば気まぐれに女を抱くのは爪を切るようなもの。
その瞬間に忘れてしまうような感覚だった。
肌で感じる誰かの暖かさは急速に冷える。
この腕に誰かを抱いて眠ることは何の意味も持たなかった。
媚びた視線の先にあるものは不老不死への憧憬。
死にたくても死ねないこの体の不安など誰がわかってくれるだろうか?
「おぬしを討ち取るのはこのわしだ」
その闇色の瞳は初めて会ったはずなのに何かを感じさせた。
腕に抱いたときの細さに思わず笑ったほどに。
取引という名の鎖で絡めとり、彼は少女によって生涯忘れえぬ男となった。
いずれ命を落とすにしても彼女は死ぬまで自分を忘れることはできない。
無駄な肉などひとかけらもない少年と少女の間のような体躯。
黒髪艶やかに舞い踊る乙女十七花を咲かせる。





「不可解よのう……おぬしもわしなどに構わずにもっといい女を抱けばいい」
春の嵐のあの夜、彼女は彼の腕の中でそんなことを言った。
香油の甘さと汗の匂いが交じり合った密室は二人だけの優しい空間。
「いい女とは?」
「傾国の美女とやらがおるではないか」
黒髪の間から指を角のように出してその先端を折る。
獣の耳に見立てたそれに彼は思わず噴出した。
「それも楽しかったですよ。それぞれに違った味がして」
「ほう」
窓を打つ雨と遠くで聞こえる雷鳴。
硝子に触れた指先。
「何を見てるんです?」
まだ癒えずに熱を持つ左腕の傷。
「世界の始まりを」
不思議なことを言う女だと思いながら後ろから抱きしめる。
彼女はこうして穿つ雨を見つめるのが好きだ。
「雨はすべての命を紡ぐ。ならばこれは始まりといっても嘘ではないだろう?」
背中越しに重なる心音。
裸の体が二つ、闇色の箱の中に存在しあう。
「ならば、世界の終わりも見えるでしょう」
重なる二つの手。
「できれば私はあなたとそれを見つめたいのです。世界の始まりも終わりも。一人ではなく
 あなたと二人で。この先に起きる小さな幸せと騒々しい未来を」
駆け引きなんて必要はなかった。
抱いた感情の名前は『恋』というもの。
互いに気付いて胸が痛くなる。
「おぬしと添い遂げるのは……きっと悠久たる流れに身を任せるのに近いであろうな」
誰かのために生きていくのは傲慢なのかもしれない。
けれども、誰かとともに生きていくことはきっと素敵なこと。
思い描く未来図をどう見つめるのか。
「あなたとこの先の時間を共有したいのです」
「なぜ、わしなのだ?」
向き合ってそっと視線を重ねて。
「あなたは私の願いを叶えてくれました」
「願い?」
「ええ。この心を熱くしてくれたのはあなたです。呂望」
春の嵐は恋も愛も巻き込んで吹き荒れる。
それでも君はこうして抱いてくれるから怖いとは思わない。
願いはひとつだけ。
君のその腕の中で眠りに落ちたい。
「目を……閉じれるか?」
その言葉に静かに男の瞳が伏せられる。
乾いた唇が掠める様に触れて離れた。




太陽さえも彼女をかどわかすことはできやしない。
鮮やか過ぎる月の明かりにこの気持ちをどこに届ければいいのかと。
「ご主人、何をしてるっすか?」
「手紙を書いておる」
印を結んで書状に触れれば瞬時にしてそれは灰と化した。
「い、今の何ッス!!ご主人っ!!」
普段は見せない行動に霊獣は慌てふためくばかり。
小さく笑う唇に少女の指先が触れて、内密にとささやく。
「手紙を送った。ここには山羊は居らんからのう」
運命など信じないと言い聞かせても、この胸の疼きは治まらない。
灰は心を閉じ込めて遥か東を目指す。





結ばれた最後の名に彼は目を細めた。
月光が導くと言い訳をつけて西へと走る。
「黒点虎、もう少し急げますか?」
「うん」
手にした小さな向日葵は国中走り回って手に入れた早咲きの物。
ただ彼女の笑みを思い浮かべてその腕にと願った。
月を背に走るその姿は流麗たる仙道。
浮かぶ影さえも彼を引き立て凛とした面持ちを。
「できるだけ早く……早く、逢いたいのです」
月の女神の矢は二人の心を射抜いた。
それがどんな結末をもたらすとしても彼は今までの日々でもっとも幸福だと思える
瞬間をまさに感じているのだから。
走り出して止まらない心。
逢いたいというこの気持ちを同じように彼女が持っていてくれるのならば。
きっとそれを幸福というのだろう。
「ああ、なんという幸福なのでしょう。恋とはこんなにも素敵なものだなんて」
「活き活きしてるよ、申公豹」
「当たり前です。私の人生でこれほど情熱的(ドラマティック)な日々が来るなんて!!
 ああ、あの時に詰まらない帝位を蹴り飛ばして本当によかった!!」
一人で過ごした五千年はきっとあなたに会うための準備期間。
あの日であった瞬間に始まった鼓動のように。
砂のようにこぼれていた時間が時を刻む。
さあ、その腕を早く伸ばして。





窓枠に掛かる手がそっとそこを押しやる。
人払いの香が効かないその人を待ちわびて。
「待ち人は来ぬか……俄かの術ではいかんと……」
窓を閉めようとしたときに零れ落ちる光の粉。
顔をあげれば今まさに来たばかりと息を切らす彼の姿。
「手紙を受け取りました!!急いで、急いで……やっと……」
差し出された花を受け取って少女はそれに愛しげに唇を寄せた。
夏の花は彼と彼女を繋ぐ小さな絆。
同じ月に生まれた二つの魂。
「無事に届いたか。俄かの術ゆえに駄目かと……」
「あなたには元々才覚があるのです。俄かでも何でもちゃんと届きました!!」
こんな彼を見ることができるのはきっと彼女ただ一人。
「わしに才は無いよ。届いたのならばそれはきっと……」
どれほど焦がれただろうその言葉を。
「恋の魔法じゃのう、申公豹」
「ええ……あなたと二人で……」
触れるだけの魔法の口付け。
ただ一度きりで海さえも甘く変えられるほど。
「良かったら、少し外に出ませんか?」
差し出された手を躊躇することなくとって。
二人だけでどこまでこの闇路を行こう。
「どこまで?」
「どこまでも。望むままに」






遠く聞こえる雷鳴。
二人、肩を寄せ合ったのは夏の手前の思い出。
「蛍灯か……美しくも儚いのう……」
頬を照らす月光と夏草の匂い。
素足を伸ばして彼女は遥かなる地平をただ見つめる。
霊獣を背もたれに体を寄せ合う。
ただの人間の真似をして人間だったころを思い浮かべよう。
「呂望」
彼の手のひらで静かにその光を放つ小さな生命。
それは星の明かりよりもやさしく懐かしさと郷愁を呼び起こしてしまう。
夏の少し手前の日、彼女はすべてを失った。
それから遥かに時間は流れて、彼女は彼に抱かれた。
「戯れにおぬしの手に止まったか?」
「いいえ。あなたに会いに来たのでしょう。御覧なさい」
二人を囲むように浮かぶおびただしい光。
今日は運命の日。
「これは…………」
五千年以上を生きる彼は時折不思議な術を使う。
「あなたの一族かもしれませんね。寂しがるあなたに会いに来た」
はらはらと零れ落ちる涙。
花が散るかのように風に乗り耳元を吹き抜ける。
誰にも忘れ得ない一日があるから。
誘われる月と灯火。
その眩しさを再び教えてくれたのはほかならぬ彼。
絶えず悠然として自分にその背を見せてくれる。
「どうしてでしょうね。あのころはあなたに殺される日を待ち焦がれていたのに今は……」
重なる視線に呼吸が止まる。
「あなたに溺れている。私もずいぶんと弱くなったものです」
体中を走るこの思い。
どうにかして届けたくて焦る心。
「いつかあなたと二人で同じ夢を描けたらどんなに素敵でしょう」
向日葵も必死になって探してくれたのだろう。
肩が触れて静かに寄りかかる。
彼女が安心して身を預けられる数少ない人物。
何もかもが煌いて見える魔法を少女にかける。
「少しこうして……眠ってもよいか?」
「ええ……ゆっくりとおやすみなさい、呂望」
世界の悲鳴を聞きながら少女はどんな夢を見るのか。
その細い肩を抱いて彼も同じように瞳を閉じた。
「申公豹、呂望をお嫁さんにしないの?」
ふわふわの毛にもたれた二人の姿。
眩しい星につけた名前は誰にもいえない。
「そうですね……あえて何か名付けるならば伴侶のほうが正しいのかもしれません」
「お嫁さんと違うの?それ」
「同じようなものです。従属関係よりも対等でいたいと思うでしょう、彼女なら」
心優しい獣は動くことすらせずに暖かな空間でいてくれる。
「そっか。でも、呂望がずっと一緒に居てくれたら僕も嬉しいな」
「ええ。いずれそうなります」
こんな風に彼が笑うのは彼女のことを思うときだけ。
きらきらと輝く軌跡は星のそれ。
「流れ星ですね……」
願うのはただひとつ。
彼にとっては彼女の幸せだけ。
「今度は星のかけらをとりに行きましょう。きっと呂望も気に入ってくれます」
「ええっ!!僕そんな遠くまで行くのやだよ!!」
「呂望がおきてしまいますよ、黒点虎」
「ちぇ……呂望が喜んでくれるから行くけど、僕は本当は行きたくないよ」
一人と一匹が恋をしたのは寂しがり屋の少女。
細い肩に運命を背負い戦うその姿。
「しょーがないよね。呂望が嬉しいのは申公豹も僕も嬉しいんだから」




夏の手前は優しい季節。
大好きな人の手の暖かさに目を閉じた。




0:40 2007/07/17

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