◆歴史の道標◆







雲間に於いて風立ち去りぬ。
春は妖々にしてただ光陰の如し。
「……ご主人……」
青はどこまでも澄み切って夢のような色合い。
この虹彩空間に一つだけ足りない色。
「李氏紂王……久しくお目に掛かるな……」
少女の空虚なる瞳が疲れた果てた男を捕らえた。
その小さく響く声。
「我が名は姜子牙……おぬしが人狩りをさせて消えうせた姜族最後の人間だ」
石畳に転がる剣を取る。
その先端を赤く染める体液が陽を受けて輝いた。
「おぬしの娶った皇后妲己は我が宿敵。許すわけにはいかぬ」
それは散って行った友への誓いと懺悔の言葉。
照らす道標の月はいよいよ壊れてしまった。
「故に、この国の主たるお前を許すわけにはいかない!!」
勢いよく突き立てられる剣先が何度も何度も男を貫く。
頬を零れる雫と噛みしめられた唇に滲む赤い涙。
初めて人を殺したいと思った。
そして迷うことなく人を刺し殺した。
「何故死なない!!死してなお余る大罪人がぁああああっっ!!」
その完全なる憎悪はともに歩んできた霊獣さえも言葉をかけられないほどに強く。
渾身の力で男を斬りつける少女の姿はこの一瞬しか存在しえないものだった。
「……ああ……夜が明けるのだな……」
返り血を浴び、いよいよ彼女は美しい。
向けられた視線は消えゆく望月。
「我が手でお前が死ぬことはない。お前の罪は……お前を殺す男が判断する……」
「……気は済んだか……姜の娘よ……」
「どれだけお前を殺したとてもう……誰も帰っては来ないよ……お前が一人ぼっちなのと
 同じようにな……」
これ以上苦しいことなどきっとないだろう。
別れの言葉はないけれども、呟く「さようなら」の悲しさ。
この手にある願いと力を抱いて、現世に別れを告げた。
旅の終わりの風景は思い描いたものとは全く別で。
ただ後悔しかできないものだった。
「傀儡の王よ、お前は幸せだったか?」
人として生まれ人を捨て、彼女は失ったものを数え始める。
指折り感じたその感情に零れる涙。
傍らによりそる霊獣はその瞳を見上げるばかり。
「おぬしの酔狂な一言が歴史を動かした。あの日、我らを狩らねば今こうして相見える
 こともなかっただろう。いや……遅かれ早かれどうにかなったのだろうかな……」
遠い遠い空から、聞こえてくる声。
咽返る様なこの花の中で何を思うの?
この世にとどまることは罪となる呪われたこの身。
「……こんなにも花は……美しいのだな……」
包み込む桜はあの日によく似ていた。
揚々と飛び出し運命など簡単に変えられると思っていた。
彼と歩んだ道も。
彼女と歩んだ道も。
こんなにも花が溢れていた。
それなのに、もう誰もいないのだ。
「ご主人、僕はずっといるっす。ご主人とずっと、ずっと一緒に」
思うほどに重なるため息が、俯きと憂いを隠して。
「もうすぐ……すべてが終わる。太公望はもう必要はない……」
「……ご主人……」
「夜明けがきてしまう……人ならざるものは光の中では生きてはいけないのだよ……」








武力解除を由としない周の王は不安を抱きながら進んでいく。
霞行く空に飛ぶは魂魄の光。
(あれはまさか……師叔……)
彼女は今何を思うだろうか。
遠い空の色は灰色にも似た銀色で、終焉にふさわしい。
「武王」
「わあってる。けど……民を不安にはさせられねぇ……武吉っちゃん!!こいつらに
 食糧とかじゃんじゃん運んで来てくれや!!」
湧き上がる歓声とは裏腹な思い。
高貴な魂は散りゆくさまに一筋の光となる。
その光は見まがうことなどない美しさ。
そして今、それが飛んだのだ。
「ヨウゼン、まさか……太公望(あいつ)じゃねぇよな?」
「あなたが解るかはあれですが……師叔の強さは本物です。いまや三千世界を探しても
 太刀打ちできるのは妲己か申公豹でしょう」
「じゃあ……」
「ええ」
ゆっくりと重なる二つの過去は未来となってこの国を変えていく。
その狭間で少女はただ一人立ち止まる。
進むことも退くこともできないままに。
「武王、四不象がいます。おそらくはあの下に師叔が……」
予感は確証に変わる。
彼女に忠実な霊獣が主に何かあればどう動くかは予想が簡単につくのだ。
「……なんでだよ……わかんねぇよ……」
これが戦争なのだとわかっていたつもりだった。
王として国を成すことは犠牲の上に成り立つことだと。
彼の周りにはいつも才あるもの強きものばかりが集う。
光にあふれ笑い声が絶えずにそれがいつしか当たり前の光景になっていた。
「仙人って死なねぇんだろ?ヨウゼン」
「僕たちも有限のものです。強さがあれば死なないというならば……僕たちは普賢様を
 欠くこともなかったでしょう……」
「俺はダチを亡くしたくねぇんだよ」
「彼は僕にとっても大事な友であり仲間です。けれど……あの人にとってはもっと特別だった……」
風に舞う桜が美しい。
華葬に最もふさわしい狂った墨染めの桜の香り。
「道士ヨウゼン、太公望さんは……」
「君は踏み込まない方がいい。今の師叔はきっと……」
妖力制御を解除しなければ止められない本性を持つ少女を野放しにはできない。
遂行者である彼女がもしも紂王を先に殺したのであれば刑は確実に執行される。
(……師叔、どうか無事で……)
馬を下りて石階段をゆくっくりと登って行く。
その扉に手をかければ歴史が新しく始まる。
ためらうことなく彼は扉を開いた。
「……………………」
血濡れた剣を持った虚ろな表情の少女の姿。
ただぼんやりと天を仰ぎ、一言二言呟くだけ。
「……武王……姫発……」
「太公望!!」
駆け出してくる青年の姿に少女は我に帰る。
この戦いを終わらせるべく存在する男の姿。
あの人と同じ顔したあの人の血を引く愛しい子供。
重なり合う過去が彼女をゆっくりと突き動かす。
そして、剣の血を払って彼に向けた。
「良く来たな」
「ああ」
「天化が残してくれた最後の見せ場じゃ。おぬしが決着をつけよ」
風が頬を撫でる。
彼女と出会った時もこんな季節だった。
あれから何度の季節を巡らせただろう。
「……そうだな……」
この手を取ったら彼女は遠くへ行ってしまう。
しかしこの手を取らないわけにはいかないのだから。
「良い空だ……雲間に揺れて風立ち去りぬ……」
風の道士を縛りつける鎖がゆっくりと崩れていく。
僅かに触れた指先。
「あんたが紂王だな」
「……………………」
「西伯候が息子、発。周の武王としてあんたの首を取りにきた」
たった一人の道士はたくさんの仲間と出会った。
幾多の別れを重ねて痛みを覚え本当のさよならを知った。
「その剣で余を貫け、武王よ」
「そのつもりだ。けど……ここでやっちゃ天化に顔向けができねぇ。俺のダチにな」
最後を彼に残した少年の願い。
「身なりぐらい整えろよ。それくらい待てる」
殷王朝最後の王への敬意。
「かたじけない」
彼もただの男だった。
一人の女を愛して溺れただけだった。
彼と自分に何が違っただろうか?
呟く声は少女に届いただろうか、それとも消えゆくものだとすれば。
「……立派な王になったな……昌よ……」
この場に彼に居てほしかった。
この風景を共に見つめたかった。
生涯一度だけに誓った忠誠、主は今もただ一人。
「師叔」
「?」
頬を拭う男の手に目を閉じる。
「これで……おしまいですね……」
「ああ。あとしまつがあるがのう」
「……師叔……」







城下が一望できる場所に二人の男が立つ。
ざわめく声にそれが古き王と新しい王だと誰もが叫ぶ。
紂王の喉元に突き付けられる一振りの美しい剣。
刻まれたのは名門黄家の紋章。
「言い残すことはねぇか?」
その言葉に首を横に男は振った。
愛した者はもう誰も居なくなってしまった。
それでもこの思いは偽物ではなく、真実だったと。
「そうか」
たった一度だけ。
彼は躊躇なくその頸を刎ねた。
これが古い歴史の終焉、そして新しい歴史の夜明け。
「戦争は終わった!!周の勝利だぜ!!」
湧き上がる大歓声をまるで他人事のように少女はただ見つめていた。
これで自分がこの地にとどまる理由はなくなってしまった。
「太公望さん」
「おぬしも忙しくなるな。周には官僚が少ない。残って司法を取りまとめよ」
「あなたも残るのでしょう?」
その言葉に静かに首を振る。
「人の世に、人ならざるものが触れてはいかんのだよ」
霊獣に飛び乗って上空を目指す。
新しく生まれたばかりの国はまだまだなにもかもが足りな過ぎる。
頬に触れる風も空気も心なしか凛としていて。
「!!」
遥かに見えるは封神台。
そこには大切な人が皆居るというのに。
「ご主人」
「……疲れたのう……少し、さぼったら怒られるかのう……」
霊獣の頭を抱くように崩れる小さな体。
傷だらけの少女が動かした大きすぎる歴史。
「誰も、誰も怒らないっす!!ご主人はがんばったっす!!」
「……そうか……ここなら天化にも……」
この歴史に埋もれた一人の少年の名前。
この腕に刻むべき最後のその言葉。
「どうしてご主人ばっかりこんな思いをしなくちゃいけないんすかね……」
舞い散る命の花は美しい。
「のう、スープー」
それは今までに聞いたことの無いようなか弱い声。
「本当に真っ白になってしまったよ……わしにも戦う理由も生きる理由も無くなって
 しまった……この先どうしたらいいかも……」
「ご主人!!あれ!!」
その声に顔を上げる。
封神台の周りを舞う、銀色の蝶。
花印を蝶とした親友の小さな言葉。
一羽がそっと少女の手の中で止まって砕け散る。
「……そうか……ふふ……」
「ご主人?」
「普賢からの言付けじゃ……まだこちらには来るなと」
こぼれる涙を指先で払う。
「逢いたいっすね、普賢さんや道徳さんたちに」
「ああ」
霊獣の頭をなでる小さな手。
「四不象」
「?」
「おつかれさまじゃ。本当にありがとう」
「ご、ご主人のほうが!!」
「時に叱咤し、時に励まし……わしには本当に勿体無い霊獣だった」
「ボクはこの先もずっとご主人と一緒にいるっすよ!!」
「そうだのう……まだやらねばならぬことがあるらしい……」
今、この一瞬だけでもそっと過ごしたい。
儚き願いをこの胸に抱いたままに。






古き歴史に幕は降り。
雲間に揺れて風立ち去りぬ。








11:49 2008/11/19

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