◆始まりの風と君の隣を◆
墓標も立てられないと呟く唇に。
ただ吹き抜ける風は少し寂しげに頬を撫でるだけ。
「師叔、大分落ち着きましたね」
隣に並ぶ青年の言葉にうなずく。
それでも、空いてしまった左側が切ない。
彼と同じ姿をした違う男がこの国をたらしく切り開く。
この風景を見たかった人はみんないなくなってしまった。
「そうじゃのう……なんだか、ぽっかりとしてしまって……」
寂しくて声を聞きたくて、この感情を誤魔化し続けて。
恋は実らないから甘くて残酷だ。
「……少しお休みください。ひどく疲れてる」
届かない思いをこの胸に隠して、彼女の隣に立つということは。
思っていたよりもずっと残酷で彼女の悲しげな横顔がそれに拍車をかける。
思ってくれる人だけを愛せればいいのにと呟いても。
「そんなに酷いか?」
鏡を見ることさえも忘れてしまったと少女は顔を赤らめた。
あの日以来、笑うこともなくただ激務に身を任せる。
「いえ、ひどいとかでは……」
「季節も変わる。宴の春は……過ぎ去ったのう……」
彼女の背中も肩も、情けないほどに細いはずだった。
「酒でも飲むか」
「はぁ……」
「武吉!!夜は宴会じゃ!!」
その声に走ってくる少年の頭を撫でる手。
いつもこの思いは空回してしましまい、彼女だけが苦労をしてしまう。
不甲斐ない天才と言われれば返すことができないように。
緑に揺れる黒髪は凛として美しいのに、彼女の瞳には影がある。
作り笑いが上手になるほどに歩いた道は茨のそれ。
赤く染まった小さな足を引きずって彼女はまだ歩き続ける。
月に翳るは雁と笑む唇。
欄干に座ってただ月を見上げた。願うならば望むならばあの月を撃ち落としたい。
「ご主人」
肌蹴た胸元に落ちる酒滴。霊獣の上に乗ったのは愛弟子の姿。
「おっしょーさま、お酒持ってきましたっ」
紅色の盃は白い肌に良く似合う。
このどこかぼんやりとした空気を作る少女がこの世界を動かしたのだ。
その小さな手で命を護り、見送って。
「のう武吉。おぬしはこれからどうする?わしは道士故にこの地に残ることは出来ぬ」
少年には老いた母が一人いる。
しかし天然道士の彼もまた本来は仙道としてあるべき場所に行かねばならないのだ。
要された決断は軽いものではない。
「僕はおっしょーさまと四不象と一緒に居たいです」
宮中孤軍、彼女を非難する者の中で少年はたった一人彼女を庇った。
小さな優しさはいつのまにか少しだけ彼を大人にした。
月明かりに眩しい細い足首。
「後始末をつけなければな」
「あとしまつ?」
黒に混ざる藍の美しさに息をのむ。
「妲己を討つ」
「!!」
封神傍を開く指先。
並ぶ名前には先に散って行った仲間たちのものも多数あった。
「わしの最後の大仕事じゃ」
凛と白くその光は未来を目指す。この人の隣に並べるようになるために。
強さは力ではなく心も必要だということを伝えてくれた人。
「一緒に戦ってくれぬか?」
差し出された右手。
この手をとれば戻れない道に入ってしまう。
「はい、おっしょーさま」
でも、もう迷いはない。肩が触れるほどのこの距離に自分の居場所がある。
人の中に埋没することのできなかった少年が見つけた小さな光。
それは世界を照らすほどになった。
「我が名は太公望……仙界の命を受け、封神計画を遂行する者……」
緑を照らす光に見える未来視。
ぎゅっと握り合った手。
「我が一番弟子としてこの戦いを共に終わらせてくれ」
ずっと認められたかった。
この人が一番苦しいときに力のない自分は隣に並ぶことすらできなかった。
「な、何故泣くのじゃ、武吉……」
「……ぅ…え……おっしょ…さまぁ……」
「泣くのは全部終わってからじゃ。ほれ」
八卦図を敷いて少女はその中央で呪文の詠唱をする。
立ち上る妖気が彼女が人間ではないことを示す。
「コーチ、普賢さん何してるさ?」
七色の光を放ちながら陣の周りに浮かびだす文字の羅列。
「お前もちょっと莫邪準備しろ」
彼の両手には莫邪の宝剣。仙気を集中させて空中に浮かび始める。
「……っち……まだ完全に光は戻らねぇか……」
次々に生まれる八卦の陣は七色。
世界を構成する原始たる色は今が盛りと輝きを増していく。
「なっ!?」
「小僧はまだ飛べねぇか?」
瑠璃瓶を手に煙管を咥えた黒衣の男。
見渡せば十天君の一人を従えた教主の姿もある。
人間であって人間を外れ人間を愛するものが敷く布陣。
「陸は任せたぞ、小僧」
見れば次々に金鰲と崑崙の大幹部たちが集まってくる。
陣を中心にして全てが決められた配置につく。
「親父!!」
黄飛虎と聞仲が少女を間に向かい合う。
九星の方位図に生まれだす光は星屑となって降り注ぐ。
中央に座した彼女は微動だにすることもなくその陣を作り上げていく。
奇跡を越える大奇跡とでも言うべき荒業。
封神台をそのまま異空間の狭間に移動させるという行動に彼女は出たのだ。
この中に封じられたものは皆、強き者たちだけ。
今までそれを行わなかったのは力が足りなかった。
少女が口にした「予定調和の最後の犠牲」こそが黄天化だったのだから。
生まれだす圧力に銀眼が妖しく光る。
その空気を切り裂く宝剣と斬仙の刃。
「お前と協力することになるとはな」
「まったくだ。決着はいずれつけようぜ」
少女の両手が横に広がり指先に絡まりだす光。
「揚延」
女の体が長剣に変わり青年の手に。
「余化」
「はい、公明様」
同じように少女もその姿を神刀に変えた。
まるで、すべたが二人に擬えたかのように世界が両手を広げ始めた。
七色をすべて飲み込んだ黒。
どこにも属すことのできない白。
歴史の道しるべは夜空に浮かぶ偽物の月。
今――――――――――壊す。
傷のない体は落ち着かないのと同じように、包帯を解けば。
「道行、何か見える?」
こんなに霧の深い夜は無事には終わらない。
紅を含んだ夜霧は冥府の扉が開く合図。
「幽冥の使者が来ておる。はて?誰に用向きか」
「君以外に思いつかないんだけど」
素足が板張りの床に触れる。
「こちらにおわしまするか?陰なる道行さまは」
「おらぬぞ」
男の耳元で女が囁く。こちらから出てはいけないと。
まだ若い彼はその瘴気に耐えれるだけのものがないのだ。
死人の呼吸は命を奪う。
彼女はそれすら飲み込む大仙の一人だ。
「あらやに。それは困りまする……我ら教主さまからの預かりをお持ちいたした」
鈴を転がしたような細い声は男でもあり女でもある。
あの世はいつも華やかで美しいところらしい。
「では、どなたがおられまするか?」
「崑崙が一人、太乙真人がおる。願うならばその紅霧と鬼を退けよ」
冥府の使いは用心棒にと鬼を従える風習を持つ。
永遠を繰り返す世界で憂いを胡蝶に変える幽冥教主。
十王を従え閻魔連中を束ねる冥界の神はそれなりに人望は厚いほうだ。
でなければ転生倫理を破壊する封神計画などは認められない。
優秀な人材は再びの生まれをとされる。
「あいわかりました。では、ここを」
霧が薄くなるのを確かめて女は指先を二度折って扉を開いた。
そこにたたずむのは両目を抉られた少女の姿。
人形のように可憐なのに、空洞と化したそこだけが現実味を帯びている。
「そなた、眼(まなこ)はどこに落とした?」
「わたくし、生まれに眼を損じてしまいました」
「そうか。太乙真人はそなたに眼を与えることもできるぞ?」
冥府のものは渡し賃が必要なように取引には柔軟だ。
抉られたままの無残な傷を晒すよりも義眼を入れたほうが余程少女の心もすくわれるだろう。
「あら嬉や」
促されて彼女の残りだった義眼を埋め込む。
仙気は持たずともそれに変わりうる妖気を持つ冥界の住人に眼はすぐに適応した。
「さて、儂の問いに答えてもらおうか?」
「あらら。わたくし……取引成立なのですね……はい……」
周辺を舞い飛ぶ紅色の胡蝶。
「今の教主の名を」
「かつて人だった方でありまする。名は……昌と」
酸漿を閉じ込めた明かりを手にうふふと笑う。
「そうか。ならば教主もいまや不死の御身か?」
「はい。残り三千年は教主から動くことはまかりませぬ」
「封神計画の実行者を教主は知っておるか?」
取り交わされる密約は彼にとっても驚愕のことばかり。
逝去した文王は今や冥界で教主として座するらしい。
それは永遠と引き換えに転生することすら許されない立場。
「いいえ。新しい教主さまはまだお若い。完全なる交代はされておりません。向こう
五百年は二人の教主さまが存在することとなります。入れ替わられましたら三千年の
お勤めが待ってらっしゃいます。我ら死神も新しい教主様が嬉しゅうて嬉しゅうて」
揺らめく鬼火が月明かりに似ていて。
人を狂わせるには恰好すぎて笑いさえ出てしまう。
「眼の代償はこれでよろしいかと」
「十分じゃ」
金色に輝く貨幣を一枚握らせる。
「あいや、わたくしは死神。渡し賃はいりませぬよ」
「過分にならぬように渡すだけじゃ。きらきらしてきれいじゃろう?」
鈴を鳴らしながら消えていく姿。
音が消えたのを確かめて書状を開く。
幽冥教主が彼女を指名したのは落魂葬列の儀を取り仕切れるからだろう。
「さて、太乙真人や」
宙に浮かびながら細い脚を組む姿。
「おぬしが忙しくなるぞ。おぬしにしかできぬ」
「何を?」
「鬼退治じゃ」
生まれて消える世界を終わらせるために、不動とされた冥界もこの計画に加担した。
捧げられた予定調和の生贄は賢君と言われた男。
「青き桃麗しい、その鬼の名をジョカと言う」
浮かぶ笑みは深淵を知るもの。
「蓬莱という名の監獄」
「……僕はどうすればいい?」
両手を伸ばして女を抱きとめる。
ざわめく空気に揺れる緋色の髪。
「世が開ければ良い。もうすぐじゃ」
「夜が明けたらか……」
「いや。世界は開かれた、太公望の手によって」
繰り返される悲しみを断ち切るために、もう一度だけこの地を離れなければいけない。
全ての痛みを飲み込むこの世界。
死という道から外された者に仕組まれたのは未だ、眼としての役割は終わってないということ。
「死人にくちなしとはいうが……お喋りな教主ならばそうも行くまい」
重なる心音だけが確かなこんな夜は無性に誰かを殺したくなる。
押さえ込んだ殺業が吐息を甘くするように。
「世が開けたら」
「夜が明けたら……」
雲は晴れ行く望む月夜。
虚構の光を砕いてさあ、進もう。
別れの言葉も何も要らない。
これが最後の咎となり両手を縛り上げるのだから。
愛されたは黒髪の少女、憎まれたは銀眼の少女。
二つで一つだったはずの分けられた魂。
白に触れた赤は黒に近付きそれを提唱する。
生きることも死ぬこともかなわないその狭間、封印された感情の隙間。
(紅霧……冥界渡りの儀か……)
夜着を直して窓を閉める。
(いやな夜だ……無性に……)
からからの喉を癒すためにほしいもの。
この感情は仙道としてはあってはならないもの。
火照った体を寝台に投げ出してきつく唇を噛む。
殺人衝動と肉欲は紙一重。
慣れぬ少女は己の熱をもてあますばかり。
暗い空から聞こえてくる声に耳をふさいで。
重い体を引きずって回廊を進み行く。
一歩一歩確かめるように。
「起きて居るのだろう?」
灰白の髪に石榴の瞳。
人の形を失った手が少女を掻き抱いた。
「待ってましたよ。こんな夜だからきっと貴女は僕のところに来るだろうと」
「そうか」
「いやな夜です……ええ……」
重ね重ねて何を願おう。
この永遠の森の中で。
いざや十六夜欠けたる望月。
虚構の月を今壊す。
1:23 2008/12/05