◆ダンデライオン◆





窓から差し込む光に少女は体を縮める。
「なんだかのう……もう朝か……」
少しだけ感じる肌寒さに、暖かさを無意識に求めてしまう。
「師叔……もうお目覚めですか?」
少女の頭を抱えるようにして、青年はその声に応える。
胸に顔を埋めて、くすくすと小さな唇が笑った。
「おはようなどとは言わんぞ……そういってしまったら、おきねばならぬ」
少しだけ伸びた髪が、肩口で踊る。
「夜が恋しいなら、もう一度闇を呼び込みますよ?」
「できるなら、そうしてくれ。わしはここ数日ろくに寝てないのじゃ」
小さな体をぎゅ、と抱いて青年はなにやら呪文を唱える。
如何様染みたその声に太公望はわざと「きゃあ」と声を上げた。
「何処へいくつもりだ?ヨウゼン」
「夜だけの世界に。あなたが望む場所ですよ」






小さな亜空間を作り出し、寝台と小さな時計だけの部屋で背中合わせで膝を抱えた。
かちこちと刻まれる音だけが、ここでの存在証明。
「おぬしはすごいことが出来るのだのう……驚いたぞ」
はぁ…とこぼれるため息に、青年は少女の裸体を抱きしめた。
「少し肌寒いかもしれませんね……さすがに空調まではまだ上手く管理できなくて」
ぺたぺたと青年の胸板に手を当てて、そのままその身体を押し倒す。
細い腰に手を回して、自分の上に覆い被さるように促せば少女はそれに従った。
重なる心音に閉じられる瞳。
安心したかのように寄せられる頬に、彼女がここでは仙道を辞めたことが伝わってくる。
「しかし、いつのまにこのような事を……」
「僕があの二人の血を引くならば、これくらい簡単に出来るって思ったんです」
「ああ……おぬしは王子様だからのう」
くすりくすり。笑う唇の小ささ。
長い睫は伏せられたままに男の胸に顔を埋めた。
「心音(このおと)が一番好きじゃ…………眠りを誘う…………」
指先が求める『誰か』になりたくて。
遠回りをしながらこの場所を見つけた。
築くことは、計算でうまくいくことなどではなく。
どれだけ自分がそこに『居たい』と思うことの強さなのかを、やっと知ることができた。
「僕が王子なら、師叔は姫ですよ。事実、あなたは姜族の公主だ」
「馬鹿なことを。わしはただの道士じゃ」
夜だけの空間は余計な悲しさと切なさを消して、体の奥底に潜む獣を呼び覚ます。
「しかし、疲れたのう……おぬしも働きすきじゃ」
布越しに伝わってくる体温と、重なり合う心音は。
どちらとも無くそれがもどかしいと思わせてくれる魔法に変わる。
「ヨウゼン」
「はい」
「幸せも不幸せも、実は同じものだと思わぬか?」
この思いは宵闇に溶けてしまう。
「わしは、おぬしと出会えて良かったと思うよ」
彼女のたった一つの聖域を奪ったのはおそらく自分。
少女が少女で居られた唯一つの場所から連れ出し、戦士としてともに歩めと。
祈るべき神などいないとつぶやく小さな唇。
その神として祭られているのが彼女の親友なのだ。
「できるだけ、守れるように……」
「これ以上悲しいことは要らんよ。それはおぬしもな」
この手を離せばもう会えないような気がした。
だからこそ、強くなって彼女の傍らに立つ資質が欲しい。
「明日は休暇を取るがよい。わしは雑務があるがたまには羽を伸ばせ」






与えられた休日を甘受して、のんびりと場内を散策する。
ほころび始めた蕾にすら気付かぬほど、自分半余裕を失っていたらしい。
いつもは不快だとしか思わない墨の匂いも、この流れる空気の中では不思議と凛として。
「あ、ヨウゼンさんだ。おはようございます」
軍師の秘書として動く少年はいつも朗らかだ。
その凄惨な過去など微塵も見せずに、ひたすらに前を見つめて歩む。
「師叔」
「今日はおぬしは休業じゃ。ゆっくりせい」
そうはいわれても休暇に慣れていないこの体。
のんびりと欄干から仰ぎ見る桜にため息をついた。
革命の始まりの真っ只中に身を置いてこんな日々が来るなどとは誰が思っただろう。
「師叔はいつも自分のことは後回しなんだよね……」
生まれた日も知らずにすごす少女。
街娘のように恋を楽しむこともない。
他の男と居るときはわからなくとも少なくとも彼といるときの彼女の笑顔は。
少しだけ寂しさと穏やかさを混ぜあわせたような色合い。
(そうだ、せめて師叔の好きなものを準備してあげよう)
甘い甘い黄金の桃。
たわわに実る禁断の葡萄。
(そう……あれを……)
それは存在することは確実でも誰も見たことの果実。
青き光を称えて魔性の香りを纏う月桃。
その名を女禍の桃という。






目指したのは金庭山を模した一角。
金木犀の枝葉を刈り込み女はふぅ、と息を付いた。
結い上げられた緋色の巻き毛。赤錆の瞳はどこか硝子玉を思わせる。
「大きな犬と子犬が紛れたか」
枯れ枝を重ね挙げてその中に紛れ込ませたのは小さな数個の壷。
中に閉じ込めたのは様々な果実を加工したもの。
火にくべて甘く蕩かして見ようという試みだ。
次第に増す火力に女は少し距離をおいてそれをぼんやりと見つめる。
「隠れておらんで出てくるがよい、ヨウゼンや」
「……見抜かれてましたか」
「そこまで耄碌しとらんわ。どうしてみな儂を老人扱いしたいかのう……この間、道徳と
 玉鼎も人を婆と呼びよって……なれば文殊のことも爺と呼べばいいものを」
見たままをいえば良い所まだ二十代も前半であろう。
「道行さまがどうして婆などと……失礼にもほどがありましょうが……」
理由を尋ねれば女は頬を膨らませた。
「儂が水飴が好きだと言うたら老人だから噛まずに食えるものが好きなのだと奴等は
 言いおってのう……わしは飴を練って遊ぶのが好きなのだ。混ざり合うあの色合いの
 妙の美しいことよ」
申公豹よりも長く生きる仙女は独自の美学がある。
「はぁ…………」
「水飴にはいつも乾坤未生の桃を使う。儂は味にもこだわりが……」
その言葉に青年は女の手をはた、と掴んだ。
「真でございますか!?乾坤未生の月桃……字は女禍の桃でございましょう」
「そうじゃ。今しがたそこの火にくべたのもそれじゃ」
「ええええええええええええええええええ!!??」
女禍の桃はその姿を見たものは誰もいない。
それが今彼女が持っているというのだ。
「不躾なお願いですが、どうか、どうか……おひとつ分けては戴けませんでしょうか?」
「そのままでは苦くて食えぬ」
「月桃は一度食すれば忘れられぬと言いますが……」
「苦くて食えぬからこうして飴にしておる。どれ、色男に愚痴を聞いてもらったからのう。
 出来の良いのをひとつくれてやろうぞ。大方太公望にでも食わせるのだろう」
哮天犬の鼻先を撫でる指の細さ。
彼女は昔から崑崙に存在する数少ない仙女。
(どうして僕はこの人に恋をしなかったんだろう……)
穏やかな表情も物腰の柔らかなところも。
「どうした?」
「どうして僕は道行様を愛さなかったんでしょうか……」
青年の問いに女は目を瞬かせた。
こつん、と額が触れ合う。
「儂がおぬしを育てたところがあるからだろう。昔は姉母さまと懐いてそれは愛らしく
 可愛い者じゃった……すっかり立派な男になってのう……」
この細い腕に確かに抱き上げられた記憶。
「泣き虫だったのに、随分と大きくなった」
それは母の面影を残す顔を見つめていることが苦しくなる季節。
幼年期を終えて大人になるための儀式。
最後の悪あがきとして思い切り駄々をこねて泣いた記憶の奥の出来事。
「姉母さまと離れとうないと泣いてな……」
「道行様……」
「儂には息子はあらぬのだが……子育ての楽しさ、今一度味あわせてもらったぞ」
頭を撫でてくれるこの手の暖かさ。
「同じ顔であったろう?儂とおぬしの母は」
この人は全てを知っていた。
それでいて全てを逃げることなく緩やかに受け止めた。
拒絶するでもなく急激に変わるわけでもなく。
「同じ顔をもつ二人の女……いや、もしやは三人なのかも知れぬな……」
「?」
「知らずとも良いこともある。聞かずとも良い事もある」
女の手が青年の耳をそっと塞いだ。
「それを教えてやれ、太公望に」
君の全てが存在意義を示すように、苦しいことから逃げることは悪いことじゃない。
「おぬしの父君と母君がおぬしに伝えたかったように」
道を示してくれた女と最後に自分を守りきった父と。
「おぬしにしか出来ぬことがある。卑屈になるでない。何を不安に思う必要がある?」
割れた仮面と思い浮かぶ母の姿。
静かに女に重なって。
「おぬしはヨウゼン。それ以上でも以下でも無し、たった一つの存在じゃ」
「……はい、母上……」
「まだ振り返るでない。いつぞ、足を止めたくなればそのときは……」
穏やかな午後の光。
「存分にそなたの話を聞かせておくれ。母として待たせてくれるのならば」
一瞬だけ変わった言葉尻。
それは彼方に祭られた彼女が拠り代を得て降臨したかのようにも思えた。
「そなたは私の自慢の息子。三尖刀は我が欠片……絶えずそなたと共に……」
「母上!!」
「泣くでないぞ。父上が笑いになる」
光の中の小さな魔法。
本当の幼年期を終えた日の昼下がりの奇跡だった。





彼女には祈るべき父も母もすでに居ない。
形骸化した墓標に一日だけ祈りを捧げに行くだけ。
その背は誰もを受け入れて拒絶する。
この神聖なる場所を侵すものは何人でも許さない、と。
「師叔」
「おおヨウゼンか。おぬしは今日一日休みなのだからここに来る必要は……」
「差し入れです。道行様の作られた水飴を」
「おお!!誰も忍び込めぬあの道行の館の!!」
「試みたんですか……」
「わしはやっとらん。ただ、道行相手に戦いを仕掛ける馬鹿もそうそうおらんだろうて」
雲の陰に見えた明日の夢。
地図などなくても未来図は描ける。
「さっぱりした顔をしておる。褥にでも招かれたか?」
「僕はあなた一人に決めました。道行様とは誓って何もありません」
「色男は大変じゃからのう」
壷から救い上げた飴を棒に絡ませる。二つ作って一つを彼に。
「ほれ」
「え?」
「わし一人で食っても普通に旨いだけ。一緒に食えばもっと旨かろう」
独り占めという言葉を知らない彼女は。
常に最大多数の幸福を図ろうとする。
その中に自分自身を入れることは無く。
「ああ、そうだ。これを」
布に土ごと包まれた小さな花。
金色の鬣を揺らして笑う姿。
「蒲公英か……白鶴洞にも一面金色の化粧をすることろがあったのう……」
懐かしむことはとどまることでなく、先にすすためのきっかけ。
錯覚でも彼女は前だけを見つめる。
「あのころのようにとは思わぬ……もっと、穏やかな世界を……」
「師叔……」
「泣き言なぞ言わぬぞ。普賢に笑われる」
「聞かない振りをします。師叔、愚痴でも何でも僕は嬉しいんですよ。でも……
 きっと僕じゃなくてもあなたは愚痴なんて言いません。だから……」
ゆれる花はどこか親友を偲ばせる。
「この花に。誰にも何も言わない素敵な相手です」
「そうじゃのう……ありがたく頂戴する」





眠る乙女の傍で咲く小さな光。
それは優しい日差しの花。





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17:23 2007/05/01

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