◆牧野の戦い―二つの血―◆
いよいよ進み行く周軍の姿。
軍師たる少女は静かに座するだけ。
「師叔、どちらか一つですね。殷が滅ぶか、周が消えるか……」
結末など誰にもわからない。
静かに頷き、少女は打神鞭を手にする。
その瞳に映るのはただ光あるだけの世界。望むものは深淵たる平和だけ。
しなやかに狂い行くこの世界に生れ落ちたときに決まった定めを受け入れて。
その危うい美しさは戦いの中で益々花開く。
「兵士も発を王として認め始めたのう」
その言葉に霊獣が首をかしげた。
「武王さんはもともとみんなに好かれてるっす」
少女の指先が鼻先に触れて、言葉をつむぐ。
兵士たちは文王たる姫昌の人間性をその息子に重ねてきた。
しかし日に日に目を見張る成長を友に遂げ、自分たちの中に王を見つける。
一緒に笑い、一緒に泣いてくれるこのまだ幼い国王。
彼を守るのは自分たちであり、彼もまた自分たちを守ってくれると知ったのだ。
「みなが今度は発を王様にしてやろうと。いいことだ」
少女が憂うのはもう一人の少年のこと。
同じように師匠を失ったモクタクとはまた別な危険性をはらんでいる。
普賢真人の教えは時に冷酷さを求めた。
それゆえに少年は立ち止まらずに涙さえも見せずに己の目的を遂行するために世界を飛ぶ。
感情を表に出すことは得策ではない。
しかし、もう一人の少年はそうは行かない。
純粋なる戦士の血は彼を戦いへと駆り立てる。
彼の師匠がそうであったように命を賭してまでも。
二人の少年が選んだまったく異なる道。
「師叔」
霊獣の後ろに飛び乗り、少年は少女に耳打ちする。
「俺っちは大丈夫さ。親父の意思を継ぐ」
「………………………」
彼の意思はゆるぎないものだろう。
しかし、忘れてはいけない。彼に流れめぐる血の意味を。
「紂王と妲己は俺っちがやる」
少年の考えなどこの少女には容易く読めることだった。
しかし少女は口を閉ざす。
「馬鹿なことは考えるでない」
「親父の意思を継いで……この馬鹿馬鹿しい戦争を終わらせんのさ」
銜え煙草も似合うようになった。
紫煙を吸い込んでももうどこも痛まない。
それなのにどうして心はこんなにも空虚なままなのだろうか。
「そうか……そこまで思うならば何も言えぬな……」
少年の方を振り返り、傷口にそっと手を当てる。
「おぬしは大事な戦士。迂闊な行動は認めぬゆえ」
「わかってるさ」
「よいか、わしはおぬしを失うことは認めぬ」
結集したのは牧野の地。
黄河を渡り、軍師はそれぞれの話を一心に聞き入る。
「グモグモも元気そうだのう」
「おかしくないか、太公望。あの妲己が俺たちの合流を見逃すなんざありえねぇだろ」
「賢い鳥よのう。東西南北を各個攻撃するのが確かに合理的ではある」
多数で少数をたたくのは戦の基本。
軍師たる少女は勿論それを考慮はしてきた。
「妲己本人が人間を攻撃するのかいな?」
しかしながらそれは女の趣味ではない。
妲己が狙うのはあくまで最終的には太公望という仙道ただ一人なのだ。
因縁絡まる二人の女。
「それは妲己の趣味ではない」
数の上ではほぼ互角の戦いができる。
そのための合流なのだから。
「太公望!!」
走りくるのは武王の姿。少女は衣を正して一礼を取った。
「い、今、密偵から情報が!!」
兵士が歩み寄り、軍師に静かに座する。
「殷軍はこの先牧野の地に集結しております。その数……七十万!!」
「な、なんつー数を……妲己め……」
おそらくは民や子供も混ざっているのだろう。
荒地を進む軍勢は誰もみなその瞳には生気が感じられないというのだ。
兵士の上に舞うのは妖しげな香り。
その甘さは一度かかれば幻想の中に生きるものに変わってしまう。
傾世元禳をはためかせ、皇后はその唇に笑みを浮かべる。
慈悲深く残酷な美しい唇。
「さすがは妲己姉さま。傾世元禳で簡単に人間なんて操ってしまうわ!!」
貴人の言葉に胡喜媚も頷く。
「スーパー宝貝、すごいねっ!!」
岩場に腰掛けてまるで物見有山でもするかのような二人の姿。
「四大諸侯を各個攻撃するのも簡単だけれども、それをしないのはそうしなくても
勝てるという自信があるから」
仙界を牛耳ろうとした女の力は偽物でない。
「やっだーん、貴人ちゃん。そんな地味な理由なんて。大勢対大勢のほうが死体が沢山
見れて楽しいでしょぉん?」
ふわり、ふわり。
甘い香りの力は愈々強さを増していく。
「わらわは遊びにも手を抜かない」
見据えるのはただ一人の少女。
「太公望ちゃんを苦しめて苦しめて……泣かせてあげるわ」
「来ましたよ、太公望師叔。殷軍七十万の兵士が」
その数を見ても少女は眉一つ動かさない。
彼女もまた幾多の戦いを経て成長を遂げたのだ。
「あなたの腕の見せ所です。太公望師叔」
「うむ」
青年の言葉に少女は武王を見やった。
「武王、周軍のことはおぬしに任せた」
打神鞭を手にし、少女は霊獣の背に飛び乗る。
「おぬしが陣頭指揮をとり天下に武王を知らしめよ。武王姫発は己の力量で周を興したのだと!!」
軍師としての言葉の重み。
「太公望……」
彼が乗り越えなければならないのは父親ではなく恋人でもあるこの軍師たる少女。
「待ってください師叔!!無謀すぎます!!ただでさえ数の上で圧倒的に不利なのですよ!!」
本格的な実践は武王にとって今回が初めてといってもおかしくはない。
「まだ武王には早すぎます!!」
それでも、彼の名を響かせるにはこれが千載一遇の好機。
逃すわけにはいかないのだ。
「なぁに。これがある」
革張りの書物を少女は男の手に。
「昨日の夜まとめておいた。あらゆる戦争の対応が書いてある。この通りにやっておけ」
きょろきょろと辺りを見回す。
「崇黒虎!!崇黒虎はおらぬか?」
「はいさ、なんだい太公望」
同じ崑崙を祖とする仙道の姿。
「もしかすると無意味なことになるかも知れぬが……おぬし、騎兵を率いてあの森をぐるっと
回ってきてくれるか?」
渦巻く感情は茨のように締め付けてくる。
これが最後の戦いになるのだから。
武王の指揮を背後に少女は再び女と相見える。
妖艶たる皇后と凛とした軍師。
「妲己……」
胸中を巡る様々な思いの行方を。
放たれる威圧感に気後れせぬように、しっかりと目を見開く。
「太公望ちゃん」
打神鞭を静かに構え、少女は呼吸を整えた。
肺腑に染み渡るこの戦のにおい。
これを最後に因果の鎖を断ち切るために。
「以前(まえ)のようには行かぬぞ!!」
「それはどうかしらぁん?」
その瞳に宿る静かなる狂気。
世界はこの女の瞳に魅入られた。
「行くぞ、妲己!!」
解き放たれる太極図の気流とぶつかり合う女の誘惑。
「……兵への誘惑が切れておらぬ!?」
太極図の無効空間が押し返され、完全なる拮抗を生み出してしまったのだ。
五部と五部では勝負は着かない。
しかし、それとて以前の少女の力では考えられないことだっただろう。
確実なる強さを持つ者がついに太極図を手にしてしまったのだから。
(まさか太極図を持ってくるとはね……考えの一つとしては持ってはいたけれども……)
その成長を具に知るのはこの女に他ならない。
「武王、太極図がうまく機能してないようです」
「えっと、緊急事態は……っと」
上空で繰り広げられる壮絶なる女の戦い。
援護するかのようにして道士は剣を取った。
「気を抜けば更に押される……」
落ちる汗もそのままに、仙気を込める。
それでも拮抗状態を保つことが精一杯。
兵士たちは地の利を生かして少数ながらも優位な動きを見せ始めた。
絶対に負けられない最後の戦い。
荒い息もそのままに、少女は必死に女と対峙する。
「いけますね、武王!!」
面白そうに目を細め、女は優美に笑った。
「そろそろ仕掛け時かしら?」
策士は一つで三つの結果を生み出す。
忘れてならない、この女の最大の武器はその智謀だということを。
「真面目に行くわよ!!太公望ちゃん!!」
傾世元禳が優雅に舞い、その力を放ち始める。
「押される!!なぜだ!!」
妲己にはまだ余裕があり、限界間近の少女を静かに追い詰めていく。
甘い香りが舞散り、まるで蛍火のよう。
忘れることのできない芳香。
(この香り…………まさか!?)
男の胸を貫く長槍、一閃。
崩れ行くその体に少女は声を荒げた。
「発!!」
その力は味方の兵をも操り、いまや勝敗を決しようと。
襲い来る兵を必死で交わしながら青年は策を巡らせる。
(駄目だ!!変化も間に合わない!!)
万事休すと瞳を閉じた瞬間だった。
騎兵を率いた少女の姿。
掲げられた旗に刻まれたのは姜の文字そのもの。
「!!」
黒髪を風に靡かせ高々と掲げられた剣。
「武王よ、私は姜族統領……呂邑姜!!姜の騎兵五万、周の助太刀いたします!!」
その声の清清しさ。
兵士たちの誘惑を断ち切るかのような精錬たる空気。
「邑姜……あやつが姜の統領……」
姜族は自分を最後にして全て滅んだと思っていた。
もしも彼女の言葉が真実ならば自分と同じ血をひくこととなる。
「太公望さん!!何をしているのですか!!太極図を持っていながら妲己の誘惑に押されるなんて!!」
一人ではないと感じられるその声。
重なるのは幼い日の夢。
「それでも姜の戦士ですか!!」
この体に流れる姜族の血。
熱く絶えることのないこの思い。
「なんと……わしと血を同じくするものが助けに来おったよ……」
こぼれる小さな笑み。
「変にうれしいものよのう……スープー」
「当たり前っすよ!!邑姜ちゃんのためにも頑張るっすよ!!ご主人!!」
全てを終わらせるために。
「よし!!行こう、スープー!!相手は最後の敵、妲己だ!!」
解き放たれるその力。
太極図はどんな宝貝が束になったときよりも強くあることもできるのだ。
「老子を信じて……」
二つの血が今、めぐり合う。
「太極図よ!!全てを解き放て!!」
今、重なり合う二つの血脈。
戦士の鼓動は止まることを許されない。
23:56 2007/07/09