◆暁の果て◆
「行ってどうする?おぬしの行動に意味は伴わぬ」
静かに紡がれる言葉の一つ一つが桜を散らしていく。
いよいよ開き始めた傷口が彼の命を削りだす。
「俺っちもうすぐ死ぬさ……結局、何もできなかった」
不運だったのは彼の周りには己の道を貫き通して散ったものが多すぎたこと。
「だから!!せめて……せめて何かを残して死にてぇさ!!」
幸福だったのはきっと、そのすべてのものが光を与えうる示唆だったこと。
触れ合うのは指先でも唇でもなく。
「死に急ぐな。まだなすべきこともあろう」
「俺っち……望みたいに頭よくねぇさ……戦うことしかできねぇ……」
戦うために生まれてきたその性質は、彼の師も懸念していた。
一度走り出したらとめる事などできない。
少女の掌から生まれる反魂の蝶。
道士として蘇生の呪詛を使えるものは限られている。
ましてや齢百にも満たないその少女。
「だから行くさ!!あんたを倒してでも!!」
眩い光を称える莫邪の宝剣を手に少年は大地を蹴った。
その姿を彼の師が見たならばどれだけ喜んだことだろう。
それが死に向かうものではなく希望を掴み取るものだったならば。
「…………………」
打神鞭を一振りすれば生まれる竜巻。
春の嵐は二人を外界から完全な空間へと隔離した。
「わしを倒す……か……」
伏し目がちの瞼と長い睫毛。
憂う月夜はいよいよ二人を狂わせていく。
「驕りじゃな。おぬしがわしを討てると思ったか?」
激昂することもなく彼女は静かに感情を揺らめかせる。
策士妲己と太公望は器が違えどもその本質は似通っていた。
「甘ったれるなよ天化!!覚悟無き者にわしは討てぬ!!」
その威圧で彼女の髪がざわりと舞いあがった。
完全なる死への憧憬と現実へのあいまいな残留。
鞭先から生まれ出る風の刃は少年の足を前に進ませない。
その一つ一つが意志を持ち、まるで生命体のように四肢に絡みついた。
(これが……太公望って女……)
その強さの片鱗を見せることはあっても本質を見せることのなかった後姿。
(とんでもない女に惚れてたさね……俺っち……)
その体に刻まれた歴史は呪われたもの。
最後の一人の名を加えたくないと願ったあの日。
「その程度でこのわしを倒せるのか?」
吸い込まれそうな漆黒の瞳は執行人のその色。
君を黄泉へ、死出の道へと誘う悲しい色。
籠の中の鳥は封じられた故に静かにしていただけ。
鋭利な爪を七色の羽に隠し、喉笛を掻き切るための音色を囀る。
籠の中の鳥は何時になったら出てしまう?
後ろに立つ少年など知りたくはなかった。
「その宝剣の光……消し去ってくれようぞ!!」
十五夜の月に飛び立つその鳥は死を運ぶ。
長くいつまでも続く夜を機織って、道標の首を絞めよう。
太極図が発動し莫邪の光を一瞬で消し去る。
「そこまでにしてやれよ。行かせてやればいいじゃねぇか、長歌に」
風を飲み込むように裂いて現れる夜の影。
「俺にも見せてくれよ、太極図の力を」
少年の体を後ろからそっと掻き抱く。
「!!」
瞬時に消え去るその姿に少女の鞭が影の首筋を斬りつけた。
「天化をどこにやった」
「長歌以外にあるわえねぇだろ?」
王天君の唇が呟いた言葉に覚える確かな殺意。
「!?」
周辺が真っ赤な霧に包まれ、大地が静かに腐食していく。
怨念を霧に変えたかのようなその赤黒い血臭は肺腑まで犯していくようだった。
「もたもたしてると愛しの天化ちゃんが長歌についちまうぜ?」
十天君をまとめあげたその能力は甘く見れないことは重々承知。
ここで討ち取ることが最善策にはなるがそうすれば歴史はあらぬ方向に曲げられてしまう。
「さっさとしねぇともっと愛しの長歌の民たちが死んじまうぜ?」
「…………太極図よ!!紅水陣を解除せよ!!」
敷き詰められた呪詛が一斉に血の陣を打ち砕いていく。
亜空間に逃げようとした刹那、少女の手が勢いよく伸び躊躇せずに王天君の首を締めあげた。
「!!」
「お前はわしが殺す。何があっても必ず!!」
「けけけ……おっかねぇな……」
咳き込みながら少女の体を突き飛ばす。
この手に残る生暖かさだけが真実を伝えていた。
春は妖々、雲間に於いて。
風立ち去りぬは望月の美しさ、桜花満開にして今こそこの命を散らせと。
(ここは……禁城……?)
初めて連れてこられた城は幼い彼にとって珍しいものばかりだった。
煌びやかな王宮に賢君と、そして年も近い王子たち。
武成王の第二子として将来もある程度約束された立場。
仙とならずにとどまったとしても彼には未来が確約されていたのだ。
(親父も王子も……聞太師も……もう誰もいねぇさ……)
武勲を立てて父のように武人として生きる道。
仙としての才があるとあの日、彼はその道を自ら選んだ。
そして彼女に出会ってしまったのだ。
咲き誇るこの桜は禁城の自慢の品だった。
見上げれば瞼の裏にはあの思い出の日々。
懐かしむばかりでは前には進めない。
「懐かしいな……余はここで昔……武成王と戦ったことがある……」
うつろな声はあまりにこの桜に溶け込みすぎて、はっとして我に帰る。
白髪の疲れた姿の男が一人、天子装束で月を見上げていた。
「……李氏紂王……」
かつての賢君の姿はそこにはなく、全てを失った空蝉の体がそこあるだけ。
昔を愛しむような視線がゆっくりと少年を捕らえた。
「武成王の息子か?」
「……………………」
「ここに来たのは余を討つためだろう?」
最後まで一緒に居たかった。
劇的に恋をした。
擽り合って転げたあの日々。
どうしてこの腕に抱きしめられなかったのだろう?
最後に伝えたかったのはあんな言葉ではなく、たった一言だった。
君の名前を呼んで「愛してる」と叫びたかった。
「スープー!!急いでくれ!!」
「了解っす!!」
長歌へ向かって全速力で進む霊獣の背の上、少女は祈るように指を組み合わせた。
(早まってくれるな……天化……)
命を散らせるにはまだ年若い。
それなのに、この月夜はこれほどまでに本能を掻きたててしまう。
君に囁きたかった言葉はもっと違っていた。
たった一言「いかないで」と伝えたかった。
かつて彼の師が呟いた言葉が今現実となって彼女を襲う。
戦士の血はだれにも止められない、と。
(おぬしにはまだ……まだ……)
まだ内側に残るこの熱さ。
ゆっくりと冷めていくのはまるで命の終焉を伝えているようで。
手を伸ばしても届かない。それでも伸ばさずにはいられない。
これ以上誰も失いたくないのに。
「……ご主人、天化君は……」
「死なせたくないのだ……わしは……天化を……」
「御主人と天化君は似てるっすよ」
「そうか……」
「だから僕、力いっぱい飛ぶっす!!ご主人と天化くんが大好きだから!!」
月光は十字に彼女を引き裂いて人としての何かを失わせていく。
それはきっと理性と言う名の鎖。
「天化君はまだ死んじゃだめっす!!」
理想はもろくも崩れ行き、現実はいつも少女を打ちのめす。
「おそらく天化は禁城じゃ!!」
君と出会ったあの日の夜もこんな季節だった。
あの深淵の月は十五番目の美しさ。
儚いものを愛でる君は十六夜が好きだと囁く。
けれども僕はあの十五番目の望月が一番好きだった。
至極簡単な理由だった。
十五番目のあの月は君の名を冠した愛しい光。
あの花の下、交わした約束を忘れたことなどない。
君と二人で同じ未来を見つめたかった。
あの日であったときにきっとこうなることは決められたいたのだろう。
君を抱きしめてただ笑いあったの日々が今は愛しくて愛しくて。
張り巡らされた陣の中、宝剣はその光を失った。
諦め気味に煙草に火を点けて、紫煙を燻らせる。
燃えるような紫と青、そして呪われた赤が溶け合って萌揺る朝焼けを呼び起こす。
これが最後の朝だとどこか分かっていたのかもしれない。
「んじゃ、はじめっか」
天子紂王に渡された薙刀を手にして構える。
この空のようにかすみ行く視界はどこまで彼を捕らえるだろう?
「来い、若き道士よ!!」
舞い散る桜に感じる微かな胸騒ぎ。
「道徳、どこ?」
手を伸ばせばすぐ届くところにある暖かさに安堵する。
聞こえてくる寝息にまだ夜がそこにあることを知った。
(よかった……ちゃんとここに居てくれる……)
それでも湧き上がる不安は鎮まることを知らない。
「道徳、起きて」
体を揺さぶれば眠たげに瞳を開く。
「んー?どうした奥さん」
「なんか変なの。何かが起こってる」
胸騒ぎの朝焼けを迎えるには肌寒いと、肩掛けを彼は彼女に。
手繰り寄せた画面を開けば映し出される呪われた王都。
天井一面が透き通り忌々しく残り光の星空が広がる。
「誰か来る」
上掛けを椅子から剥ぎ取って傍らの符印を手にする。
自分の知らない何かを感知する力はここに来てから一層強くなった。
「待て、普賢」
「知らない何かが居る」
「大丈夫。俺が知ってる。むしろ……お前以外の十二仙は知ってると言った方が良いか」
扉の向こうの気配に青年が答えた。
「よくこんな所まで来たな」
「ああ。ここを開けてはもらえんのか?」
緋色の髪も鮮やかに、そこに居たのは一人の青年。
「久しぶりだな、燃燈」
先の十二仙に座し、ある日その命を失ったといわれた青年の姿。
その空席を埋めたのがこの少女なのだから。
「?」
「そんな困った顔しなくても大丈夫だぞ。こいつには美人のねーちゃんがいてこいつはその
ねーちゃん以外興味を持てないっつ病気持ってるから」
「異母姉さまを愚弄するな!!」
「毎回言うがな、燃燈……俺はお前を馬鹿にしてもお前のねーちゃんを馬鹿にするほど
命知らずじゃないぞ」
話しぶりからすれば二人はそこそこに友好的な関係だろう。
燃燈道人からすれば気さくな道徳真君、太乙真人は仙人の中でも付き合いやすい部類だったのだから。
「お姉さま?」
「ここには来てないけどな。居るだろ?綺麗なお姫様が」
「!!」
少女の肩を抱き寄せて彼は続ける。
「んで、わざわざこんなとこまで何の用だ?」
「そこの女に話があってきた」
「そりゃ困ったな。見ての通りお前に好印象は抱いてないぜ?」
座るように促してまだ半信半疑の普賢の手を取った。
見上げてくる瞳にはまだ攻撃解除の色は見えない。
「話がよくわかんないよ」
「ま、この封神計画の片棒担いでるってとこだろうな。お前が封神台の制御回路をある程度
自由にできるようにしちまったからここに来ざるを得なかった。そんなとこだろ?燃燈」
くしゃ、と頭に手を置いて瞳を覗き込む。
「俺が茶を入れるまでは燃燈を攻撃するなよ」
「……………………」
「シスコンだからお前には何もしないから」
おそらく、彼は言葉が不器用なだけで本質は透き通ったものなのだろう。
それでも封神台までやってくるというのは普通の仙道には不可能なこと。
「燃燈?」
「お前の前に十二仙に居たものだ」
「そう。あの人のお友達なんだね。こんな時間にやってこられても……」
「お前がここの回路を書き換えたからな。何が目的だ?」
符印を抱えなおして少女は小さく笑みを浮かべた。
「目的?そんなの一つしかないよ」
「………………………」
「ボクは望ちゃんを助けたいだけ。望ちゃんは世界をどうにかしたいだけ」
太公望という道士とこの青年は直接の面識もなければその略称など知らない筈だった。
「太公望のためか?」
「そうだよ。君も何かを知ってるね?」
「私も似たようなものだ。この世界を好き勝手にしている者を討つために」
「好き勝手?」
「ジョカという女だ」
その言葉に疑心は確信に変わる。
封神台の解析に必ず引っかかるのがジョカなのだから。
「ひとつ聞いても良い?」
「なんだ」
「伏羲って誰?」
それはかつて白鶴洞に居を構えていた時に、彼女が見つけた解除法の一つ。
しかしそんな名の仙道はいくら仙籍書をひっくり返しても存在しなかったのだ。
「伏羲はジョカと同じ始まりの人間の一人。いや……人ですらない」
「燃燈、あんまり体に触る様なことは控えてくれると嬉しんだけどな」
普賢の手に茶器を持たせて飲むように促す。
「見ての通り。これは俺の嫁」
「嫁だと!?修行もせずに嫁など娶るなど気が知れん!!」
「修行もきっちり、弟子育成もきっちり。そんでちゃんと筋道立てて一緒になりました。
もうじき親父にもなりまーす。ま、そういう訳だ」
二人の距離を取らせるのは彼の役目。
「どっちにしてもこの戦争は終わらない。易姓革命が成就したら今度は……」
「その通りだ」
「どうしよう。これじゃ落ち着いてなんていられない」
「封神台の警護をお前たちに頼みたい。ここの本当の目的は……そのうちに気まぐれな道化師
がやってくるだろうからな」
口中に広がる甘さと反するこの胸騒ぎ。
目の前の青年にではなくもっと別な場所からの声が聞こえる。
(まさか……ううん、そんなことはない。あっちゃいけない……)
それでも彼女の予感は悲しいことに的中してしまう。
運命の夜明けが静かに近付いてくるように。
見えないように、真後ろの影に視線は合わせてはいけないように。
「道徳」
「んー?」
「良くないことが起こるよ。たぶん……あなたが一番望まなかったことが」
銀眼はゆっくりと目の前の青年を射止める。
「君がこの計画の軸を作ったのならば、ボクたちがここに収監されることも予測済み
だったはずだ。全部踊らされていたことになるのかな?」
唸るこの世界に渦巻く螺旋を一つ一つ解いてきた。
封神台に収監されるのは力強き者たちばかり。
その真意を半分だけつかみ、のこりの半分を彼に問う。
「今まではな。それを終わらせるために封神計画はある」
「それで十分だよ。これで躊躇なくボクも動ける。聞仲と趙公明を使わせてもらうよ」
立ち上がり、折り重なる画面を起動させていく。
映し出されたのは殷王朝。
もうそこまで終焉は迫りくるこの朝焼け。
「始まるよ、最後の仕事が」
「……………………」
「歴史の終わりだね」
覚悟を抱いて彼女は天を仰いだ。
この世界の始まりの終わりを見つめるために。