◆スパイ大作戦◆
「最近誰かに見られる気がするっすよ、御主人」
四不象は太公望の傍ら、そんなことをポツリとつぶやいた。
太公望は片手に自筆の軍書を持ち、愛用の眼鏡を軽く上げる。
「ああ、そのようじゃのう」
事も無げに太公望は兵の指導。
「大方聞仲が向けてきたスパイではないのか?わしは今そんなものにかまっている余裕は
無いのじゃよ、スープー」
兵の指導、聞仲に対する警戒、他の諸侯との連絡。
軍事面に関しては一手に引き受け、その手腕を発揮していた。
「太公望」
「発、いいところに来た。これを見てくれ」
今朝方書き上げたばかりの書面を姫発に見せながら、解説を始める。
「さっきからよ、なんか可愛い子がお前のこと見てんだけども」
「可愛いのならば口説いてきたらどうじゃ?遊び人の発の名が泣くぞ」
気にも留めずに太公望は姫発を見上げる。
「あのな、可愛いけど、それだけだろ。なんとも思わねぇの?俺が他の女口説いてんの見て、
こう……やきもちとかやかねぇの?」
「………発」
「?」
「わしに嫉妬させたくば王としての自覚を持ち、それなりの男になれ。わし無しでも挙兵できる
ようにな。自分の持つ才覚を発揮する男ならば…嫉妬の一つでも焼く気にもなるのだが……」
ふぅとため息をつき、太公望は笑う。
姫発は頭を抱えるが、渡された書面に目を通し始める。
事実、姫発は太公望の指導で軍事に関しては自分の思想を確立しつつあった。
「でもよ、俺なんかでいいのか?王ってもっとこう……」
「発」
諌める様に少しだけ強い声。
「自分を持て。今は前だけを見るのじゃ。おぬしには抱えきれぬ仲間がおるだろう?
なによりも、おぬしには人をひきつける力がある。別に才能は要らぬのだよ、発。
誰かに愛され、誰かを愛することの出来る人間が王になればよい。おぬしは必要なものを
全て持っておる」
姫発は少し困ったようにため息をついた。
何かと父であり、賢君であった姫昌と比べられる日々。
「親父や、あんちゃんみたいな才能、俺には無いしな」
「同じである必要は無かろう?発、おぬしはおぬしじゃ。姫昌とは違う。それで良いではないか」
「そうか?」
「発は発。他に代わりなどおらんのだよ」
時折思う。太公望は母のようであり、また、父の様でもあると。
母性と父性を併せ持ち、時に子供のように笑う。
(でも、まだ親父の事…好きなんだろうな……)
自分と父親を間違えることは無くなったが、明け方一人で空を見上げる癖。
かつて父が好んで立っていた場所のほんの少しだけ隣に太公望は佇む。
まるで、姫昌と寄り添うように。
(親父を超えなきゃ、俺になびくこともねぇってやつか……)
「発?」
「俺って、いい男か?」
「どうした、急に」
「お前が惚れるような男になっからさ」
「楽しみにしておるよ」
物陰からそんなやりとりを書面を手に見つめる少女。
(太公望って道士のクセに武王とデキてるわけ!?)
三つ編みを頭上に結い上げた可憐な少女。
(これはもう少し調べなきゃ聞仲さまにいえないわね……)
夜の帳が下り、太公望は自室に篭って処理しきれていない残務をこなしていた。
すでに日課の一つにもなり、四不象が夜食を差し入れる。
「御主人、あんまり無理しちゃ駄目っすよ」
「うむ。心配をかけてしまうな、スープー」
四不象の頭を優しく撫でる。
太公望が絶対な信頼を寄せる霊獣。
「天祥のところに付いていてくれるか?まだまだ母が恋しい年じゃからのう」
「わかったすよ。御主人も早めに寝るっすよ」
差し入れの糖菓子を口に入れながら、太公望は筆を進める。
「師叔」
「ヨウゼン、何か用か?」
「あなたに会いたくて来ました。いけませんか?」
「…せっかく来たのだから、スープーの差し入れでも食うが良い……」
ヨウゼンには気も留めずに太公望は再度筆を進める。
その手を取り、ヨウゼンは人差し指を舐め上げた。
「…ヨウゼン……」
「少し、息抜きをしませんか?」
額をこつんと合わせる。
軽く唇を重ねながらヨウゼンのて手が胸元を弄っていく。
次第に深くなる口付けに太公望も諦めたのかヨウゼンの背に手を回した。
ちゅ…っと唇が離れると、銀糸が引く。
「…は……んぅ……」
唇を甘く噛まれ、吐息が零れる。乳房に沈む指。
ひんやりとした板張りの床の感触に身体が震える。
ヨウゼンの手を取ってその甲に口付けて、指を軽く咥える。
「…どこでそんなことを憶えたんですか?師叔…」
「おぬしであろう、忘れたのか?」
指から舌を離し、太公望はヨウゼンを上目で見る。
お互いに着衣を落として体温を確かめる。
(……気のせいか?誰かの気配を感じる……)
ヨウゼンはそのまま床に太公望の身体を倒す。
その行為を顔を赤らめながら少女は見つめていた。
その後もそこかしこで少女は太公望のことを嗅ぎ回り熱心に書面に書き起こしていた。
(なんなのよ、太公望って!!日替わりで違う男連れ込んでるじゃない!!)
物陰から睨む少女の肩を叩く手。
「!!」
「あなた、熱心に私の呂望のことを嗅ぎ回っていますね」
申公豹が雷公鞭片手に歩み寄る。
「なななな、なによあんた!」
「はじめまして、私は申公豹といいます」
ばちばちと雷華を上げながら申公豹は少女に詰め寄った。
元来無表情な男だが、薄く笑った様は少女を緊迫させるには十分な凄みがある。
仙界最強の宝貝を持つ男。
「よさぬか、申公豹」
「……呂望」
腕組みした太公望と、困ったような顔の四不象。
「こやつも仕事でやっておる事だろうに。おぬしに凄まれて震えておるではないか」
少女の手を取り、優しく包む。
「名前はなんと言いう?」
「な、なんであんたなんかに教えなきゃいけないのよ!」
雷公鞭を構え申公豹が一瞥すると少女は渋々と自分の名を告げた。
「蝉玉よ!分かったら離しなさいよ!!」
「……わしの周りをうろつくのも、聞仲に報告するのも構わんよ。それはおぬしの仕事だろうし。
だがな、蝉玉、寝室を覗くのはやめてはくれぬか?わしでも羞恥心くらいはあるでのう」
太公望はそういうと少しだけ頬を染めた。
「あなた、呂望の寝室を覗いてるのですか?」
「リョボウ?誰よそれ」
蝉玉は強気に申公豹を睨む。
その態度に申公豹は目を細めた。元来、気の強い女を好む男である。
「わしの事じゃ。呂望とはわしが仙界入りする前の名前じゃよ」
「と、とにかく毎晩違う男連れ込んでる道士なんて前代未聞よ!!」
口元を手で覆いながら太公望はちらりと申公豹を見やった。
口元は笑っているが、目が笑っていない。
(面倒なことにならぬと良いが…困ったのう)
雷公鞭を握る手に、わずかばかり力が入る。
「その話、詳しく聞かせていただけませんか?」
「……申公豹、今度ゆっくりと話すというのでは駄目か?」
やれやれと太公望は頭を振った。
「…まぁ、いいでしょう。あなたに貸しを作るのは悪くはないですしね」
申公豹は飄々と空に戻る。
取り残されて二人はしばしぼんやりとしていた。
「あんた…何者よ…仙人食い荒らす趣味でも持ってんの?」
「そんな趣味を持つほど暇ではないよ……まぁ、わしも悪いのだが……」
バツが悪そうに太公望は小さく笑った。
不思議な女である。
寝室を覗かれたことには赤面するが、機密を盗むことには何も言わない。
ゆるぎない思いと、未来を見るための力。
自分の行動などでは何も変わらないという自信。
それは聞仲に相通じるものがあった。
(なんだか分かんない相手よね、太公望って)
蝉玉はいつものように太公望の身辺を嗅ぎ回る。
音を立てずに飛び回るさまは流石、仙人界の者。
満月に浮かぶ影が美しい。
蝉玉の行動など気にも留めずに太公望はいつものように空を見上げていた。
風もなく、音も無い夜。
まるで自分以外全て生命が停止したかのように錯覚さえ覚えてしまう。
欄干に手をつき、少し疲労の浮かぶ顔。
誰かと居るときにはおそらくは見せないであろうその表情。
(疲れた顔してるわね……どうせまた誰か連れ込んでたから疲れてるんでしょ)
それはほんの少しだけ女としての嫉妬も混じっていた。
蝉玉と太公望は外見的には大差ない年齢である。
傍らが女としての華を開花させ、崑崙の幹部としての実力を発揮している事実。
(あたしだって聞太師に認めてもらったんだから)
金号ではそう優秀ではなかった彼女を引き抜いたのは聞仲。
彼女はその期待に応えるべく昼夜なく走り回っていた。
ひんやりとした空気。
月をぼんやりと見上げる太公望。
そのまわりの空気だけが一段暗くなっていた。
(……???……)
ぼんやりとした影。それはやがて人の影になり、優しく太公望の身体を後ろから抱いていく。
丹精な顔に、知性的な瞳。
(…き、姫昌!!??西伯侯姫昌!!??)
金号出身の者は人ならざる者を見ることが出来る。
蝉玉も、当然その力はあった。
若き日の姫昌は自分に気付かない太公望に寄り添い、同じように月を見上げた。
重ねられた手。
太公望は寂しげに笑うだけ。
姫昌は愛しげに彼女の頬に触れる。
決して触れることが出来ないと知っていても。
(ど、どうしよう。何なのよ!太公望って)
姫昌がいることなど、太公望は知る由も無い。
蝉玉には聞こえないがぽつりぽつりと何かを呟いている。
ただ、その言葉は分からないが姫昌が嬉しげに顔を綻ばせるのを見て内容を察することはできた。
顔を両手で覆って声も上げずに泣く姿は同じ女として痛いほどそ気持ちが伝わってくる。
(太公望の本命って…姫昌…だったの……?)
身体が冷えることなど構わずに太公望はその場から離れようとはしなかった。
明け方の空は紫。
人ならざるものは姿を消さねばならない朝がやってくる。
少しだけ、寂しそうに笑みを浮かべ、男は少女の髪に唇を落とす。
離れなければいけないその時間が来て知ったのだ。
姫昌はもう一度太公望を抱くと、静かにその姿を消していった。
少女二人は霞み行く空を見上げている。
同じようで違う想い。
でも、女としての想い。
たとえ、相思相愛であったとしても、触れることも、声を聞くことももう出来ないのだ。
(あたし、聞仲さまになんて言えばいいんだろう……)
日が昇り、太公望は静かに自室へと戻って行った。
いつものように政務をこなす太公望。
「ちょっと」
「なんじゃ、蝉玉。暇つぶしがしたいなら発あたりを当たってくれ。おぬしになにか有益な
ことをもたらすかも知れんぞ」
殷との戦争のために太公望は身を削っている。
少しやせた頬がその政務の量を語っていた。
「あんた、姫昌が好きだったの?」
ことりと太公望の手から筆が落ち、床を転がる。
「……何故、それを……」
「あたしだって女だもん」
ふふん、と蝉玉は得意げに笑った。
「このあたしに何か隠そうなんて甘いわよ」
「……そうじゃな。姫昌をこの国の王にすることがわしの夢じゃったよ」
仄かに暗く染まる瞳。
どれだけ涙を流しただろう。どれだけ、一人で思いを重ねただろう。
手を伸ばしても、届きはしない。
せめて夢での逢瀬でもと思ってもそれも叶わない。
「ねぇ、どうしてあたしたちは女なんだろう」
「……女の身体は痛みに耐える力が強いらしい。出産も経血も、処女喪失も女にしかないからのう。
ただ、それがあるのはそれに耐え得るだけの強さがあるからと聞いた」
太公望の瞳が蝉玉と重なる。
「だが、わしの身体には経血も無い。子を孕むことも無い。それでも身体だけは女……皮肉なものじゃ…」
柔らかき女の身体は棘に耐える力を持つという。
貫かれ、突き刺されることを受け入れる仕組みとつくりの身体。
異物を取り込み、それは腹の中で自分を吸収しまったく別の生命となる。
「はたしてわしは……女と言えるのであろうか…?」
それは蝉玉にとっても同じことだった。
仙女、道士として生きる者は人ではないのだから。
「…あれだけ恋する女の顔してて何言ってるのよ。太公望は嫌になるくらい女でしょ」
「……そうか……そうじゃのう……」
笑った顔。
「あたしだって今に素敵なハニーを見つけるんだから!」
「わしらは悲しいまでに女じゃな、蝉玉」
向かい風の中を少女は歩く。
誰の力も借りず、その足で。
見える目があるから。歩ける足があるから。
道無き道を行く。
明日のために。
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