◆恋人たちの夜―紡ぐ思い―◆






裸足で歩く石の上は、やけに冷たくて目を閉じてしまう。
羽衣を使って宙に浮いたように見えても、それは彼女自身の力。
鮮やかな朱の長衣。丹念に解かされた美しく波打つ巻き毛。
「道行」
近付いてくる男に、彼女は膝を付く。
深々と頭を下げて、臣下の礼を取った。
「崑崙十二仙が一人、道行天尊。明朝、金鰲島へと参ります」
声色は平静そのもので、教主とその側近という立場を崩そうとはしない。
「何卒、弟子たちを御守りください。元始天尊様」
「俺は、お前を金鰲に行かせるつもりはないぞ」
ゆっくりと、顔を上げて彼女は始祖を見た。
「師表が金鰲に行かずして、誰が行くと?」
ふわり……爪先が床から離れ、宙に浮かぶ。
視線が重なって、女は静かに笑った。
「娘を、頼む。儂はあの子を守るよ」
その瞳は、遠い昔の色をしていた。
まだ、幸せだったころと同じ色を。
「おぬしを愛せて良かった。あの子は儂の一番の宝だ」
見果てぬ夢。叶うことは無いけれども。
すい、と伸びた指が頬に触れる。
「いい男だのう、あのころと寸分違わぬ」
「お前も、何一つ変わらん」
変わってしまったのは、掛け違えた心の在り処だけ。
もう戻れない、あの日の午後。
その細い背を抱いて、守りたいと思う気持ちはまだこの胸の中に。
それでも、離れすぎたこと。
時間を戻すことはできないこと。
「儂に、おぬしの名をくれたことは……忘れぬ……」
始祖と同じ『天尊』の名を持つものは二人だけ。
文殊広法天尊と道行天尊。
仙人昇格試験の際に激しい戦いを繰り広げた道士二人に、始祖はその名を与えた。
「もう時間だ。他にも行くところがあるでな」
くるりと背を向けて、道行は羽衣を腕に絡ませる。
「さようなら。あなた」







「ナタク!!動いたら危ないだろっ!!」
「キサマの修理がヘタクソなんだっ!!」
決戦前夜、相も変わらず言い合う声が乾元山に響く。
「あ、道行。いいところに」
呼ばれてそのまま二人に近付いていく。
「ナタクを押さえて、注射一本で終わるのに大暴れだよ」
くすくすと笑って、道行はナタクの額に手を当てた。
「注射の一つくらい、造作もないだろう?ナタク」
「こいつは打つのが下手だ」
「なら、儂がやろうぞ?ナタク」
慣れた手つきで綿を消毒液に浸し、腕に押し当てる。
そのまま注射器を取り出し、静かに針を沈めた。
「不可怕 不可怕(怖くない、怖くない)」
「俺はガキじゃない」
「そうだな。泣かなかった」
額に触れ手。奇しくも道行とナタクは金鰲で行動を共にすることとなっている。
「ゆっくりと休め、ナタク。明日はおぬしに守ってもらわねばならんからのう。
 ……ひ弱な仙女の一人くらい、造作なかろ?」
「当たり前だ。お前もさっさと寝ろ!!」
くるり、と背を向けて立ち去る少年に、くすくすと笑う女の声。
「僕の言うことなんか、聞きやしないのに」
「儂が女だからだろう?あれは根は優しい子だ。この間も金庭山まで来てくれたよ」






表扉の吹き飛ぶ音に、道行天尊は目を瞬かせた。
(はて……最近は討ち入りでも流行っておるのか?)
のろのろと身体を起こして、物音のほうへと向かう。
「おや、ナタク。どうかしたのか?」
「やる」
左手に握られた金木犀。濃い緋色に熟れたその花は何処か彼女に似ていた。
甘い香りと正反対のむくれた少年の表情。
「儂にか?」
「そうだ」
「そうか。ありがたいな。こっちへおいで」
ナタクを誘導して、奥の客間へと。
金木犀は花瓶に挿して、卓上には甘い菓子を。
取れたての葡萄、入れたての薄荷茶。
「たまには良かろう?儂の手作りは口に合わぬか?まぁ、久しく作っても……」
両手で掴んで、ばりばりと口にしていく。
もごもごと口を動かして、咀嚼する姿。
出された茶も一息で飲んで、 ナタクははぁ…と息をついた。
「美味かった」
「そうか。それは良かった。儂は金木犀が好きでのう……」
「後は何が好きだ。お前」
「他に?花水木も好きじゃし、木蓮も好きだのう。熊猫やら、孔雀やら……
 何ぞあったか?ナタク」
「そうか。それがお前の好きなものだな」
アイゴーグルを直して、そのままナタクは飛び去ってしまう。
(今度は扉を開けることを教えねばならんな……)
こき、と首を回して道行は笑みを浮かべた。
それから数日が経ち、ある日の昼下がり。
いつものように長椅子に凭れ、読みかけの本に目を通していたときのことだった。
「!!」
またも扉が吹き飛ぶ炸裂音。
「ナタク。戸は押せば開く」
「やる」
どさりと投げ出されたのはぐったりとした熊猫。
気絶しているのかぴくりとも動かない。
「好きなんだろ?熊猫」
「好きじゃが……うむ……」
「もっといっぱいあったほうがいいか?」
「いや……そうだ、儂の好きなものはもう一つあるぞ」
「何だ?」
手を伸ばして、ナタクをそっと抱きしめる。
「ぬしじゃよ、ナタク。もっとちょこちょこと玉屋洞(ここ)に来ておくれ」
「…………………」
「おぬしの好きなものを教えておくれ?儂が振舞う番じゃ」
そして、少年は時折玉屋洞に姿を見せることとなる。
扉の開け方、花の摘み方。
林檎の皮剥きに、茶の入れ方。
本を読み聞かせて、筆を取らせる。兵書の書き取りと水墨で描く絵。
何かを埋める様に、彼女は少年との時間を過ごす。
「ナタク、茶でもどうだ?」
「飲む」
庭の花を描く指も、大分慣れてきた。
この緩やかな時間が、酷く愛しいとさえ思えた。





太乙真人を後ろから抱いて、女は目を閉じる。
「あれ……君、前髪短くなった?」
「気が付いたか?」
「少し、幼い感じがする。僕はこのほうが好きだけどね」
後ろから包み込んでくる両腕は、やわらかい生身の腕。
醜い継ぎ目は、もう無い。
「あったかいね。綺麗な手だ」
「太乙、おぬしが繋いでくれた命じゃ」
息が掛かるほど近くにある小さな顔。
ちゅ…と触れるだけの接吻。
揺れる房を軽く掴んで、女を引き寄せる。
「君と一緒の班が良かったのに」
「代わりにナタクが儂の傍に居るよ」
「悔しいね。息子に攫われた気分だ」
「息子とは寝所を共にすることは無かろう?」
悠久の仙女は、ゆるりと笑うばかり。
この夜を最後にしないためにも、策を練る必要があった。




夜着を解けば、上向きの乳房が光を受けて誘う。
背中を抱いて、ゆっくりと額に落ちる唇。
「綺麗な瞳だね……」
指が落ちて、細い腰に触れた。
「君は、こんな身体だったんだね。でも、どうしてだろう……僕には今の君が
 遠くに居るように感じる。これを望んだはずなのに……」
あの継ぎはぎだらけの身体が、酷く愛しかった。
試行錯誤を重ねて、作り上げた一種の芸術。
美貌の果実の名をほしいままにした彼女に、無機質な金属を埋め込む。
生身の身体に融合できない異物。
自分だけに許されてきた侵略行為。
「太乙」
男の身体を寝台に倒したのは、女のほう。
今夜、必要なのは小さな勇気。
「道行?」
男の肌に触れる唇。そのままゆっくりと下がる小さな頭。
「悲喜交々、おぬしがおったから美しく思えた。儂の心に光をくれた」
凍った心を、溶かしてくれたのはその手。
この身体ががらくたの様になっても、愛しいと言ってくれた。
君を守るために、この手を伸ばそう。
「儂は……おぬしのために行くよ。太乙」
「君を守りたいんだ。僕だって、男だからね」
薄い背中を抱きしめて、泣きそうになる気持ちを飲み下す。
その過去を消したくて、忘れさせたくてあがいてきた日々。
「君を愛してる。君にこれ以上……傷を増やさせたくない」
光る銀の月は、鏡のようにその心を写し取ってしまう。
切なさ、悲しさ。
負の感情はどれも美しいから。
一度囚われれば、離れられなくなる。
「傷は厭わぬよ。傷を醜いと思ったことは一度も無い」
無垢なる身体。
明日には、この身体があるかも分からないけれども。
触れ合える今を、言葉を伝えられるこの瞬間を。
「君に出会えたこと、きっとこれが僕の運命だよ。そう……思う」
離れることなど、考えられないのならば。
この因果の糸を此処で断ち切ろう。
それで、この指を失っても。
君を抱いていられるのならば、それでいい。








(随分と……冷たい体じゃのう……ヨウゼン……)
培養液の中に横たわる男を抱いて、少女は小さく呟く。
動くことなく、男は目を閉じたままその体を彼女に預けたまま。
(わしは……おぬしに一体何をしてやれたのだろうな……)
繰り返される自問自答に答えなどなく。
分かることといえば、彼の命を繋ぐのがこの冷たい液体ということだけ。
「呂望」
かつん、と靴底が床に触れる音。
影はゆらりとその動きを伝えてくる。
「申公豹……」
「いよいよ、大戦争ですね。金鰲との」
濡れた手が、抱く男の顔は死人のような色合い。
まるでこの先の未来を暗示するかのように、色の無いそれ。
「この仙界の全てをあなたと聞仲が動かす。最後まで私はあなたを見つめてますよ」
この手が、全てを動かす。
一介の道士だった自分が、いまや崑崙山の総指揮官という立場にある。
「あなたが聞仲をどう仕留めるか。素敵な台本(シナリオ)だ」
「わしが、あの男に勝てると思うか?」
思いの強さだけをとるならば、国というものを背負う男はあまりにも強すぎる。
女の細腕など、簡単に折られてしまうだろう。
「数の上では勝てるでしょうね。しかし、彼は数など粉砕します」
「だろうな。それでも……わしは戦わねばならんのだ」
恐怖心を飲み込んで彼女は前に進む。
退くことは、できない。
「もしも、あなたが……」
歩み寄って、男は少女の髪に手を伸ばす。
「あなたが、志半ばで朽ちるようなことがあれば」
重なり合うのは視線だけではなく。
「私が聞仲を討ちます」
互いの想い。
「封神計画など、知ったことではありません。現に私はその封神傍に名を連ねています」
頬を両手で包み込まれて、得られる安心感は。
此処に留めて、微温湯の中に引きずり込む。
「私はあなたの力になりたい。崑崙ではなく、呂望。あなたの」
「……わしは……死なんよ。死ぬわけには行かぬ」
静かな呼吸を繰り返すだけの男を抱いて、少女は目を伏せた。
夜が明ければ、此処を離れて戦わなければならないのだから。
明けない朝は無い。
けれども、次の朝日を浴びれる保証などどこにも無いのだ。
「あなたは、太陽を味方につけた女性(ひと)です」
「………………」
「そのあなたに、明けない夜など、ありえませんよ」
止まない雨の中で、共に濡れることを選ぶというこの男を。
いずれはこの手にかけなければいけない。
「止まぬ雨もないか……」
「冬来たれば、春遠からじ。そう、言いませんか?」
この長い夜が明けるのならば。
「そうだな……」
進むしかないこの道を、歌いながらでも歩いてやろう。
笑えばいい。
自分の姿を。滑稽で馬鹿げた女だと。
それくらいでは、この心に傷など小指の爪ほどもつけられないのだから。
「朝日は美しいものです。あなたは太陽の加護を受けている」
日が昇るまで、あと僅か。
「呂望。私はあなたを信じます。だから……」
太公望の手をとって、申公豹はそっと唇を押し当てた。
「私を信じてください。呂望」
「……ああ……」
明けぬ夜はなく、止まぬ雨も無い。
風を受けて進むなら。
どこまでも飛べるこの翼で、高みを目指そう。



追い風を受けてはためくこの翼。
いと高き天を目指し、羽ばたかん。





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23:18 2004/12/29

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