◆ある日の夢下がり◆




この場所で、貴方とであった。
だから、この場所を誰にも教えた事は無い。
これからも、ずっと、ずっと、自分だけの秘密の場所にしたいから。
貴方と二人だけで見た、夢のようなあの日々。




「釣れますか?」
釣り糸に括りつけた針は、魚を釣るためのそれでは無い。
先端は棒となり、ただ水を受けて光を産む。
「大物が、掛かったようじゃのう」
風を受けた一人の賢君を、少女は静かに見上げた。
「たった一人でこのような所へ?」
「西岐は安全ですから」
隣に腰を下ろして、男は穏やかに微笑む。
胸に染み込むその声と、優しい視線に彼女は首を振った。
「西伯侯、姫昌……おぬしをわしはずっと待っておった。時期が満ちて、わしが力を
 持つこの瞬間まで、ずっと」
黒髪を名で上げる悪戯な風、日の光がまぶしいと伏せられる瞳。
(ああ……この子があのときの……)
遥か昔に見た一人の少女。面影はまだその輪郭を形取り、何かを伝えてくる。
「わしは、太公望。崑崙の道士だ」
「……私に、何をしろと?」
引き上げた針が、きらら…と光を受けて笑った。
「わしと共に、この世界を変えよ」
「随分な大役ですね。果たして私に出来るものでしょうか?」
十七で時間を止めた道士は、くすりと笑って。
「おぬし以外に適役はおらぬよ、姫昌」
静かにその手を差し出した。
そっと、男がその手を取ろうとすればなぜか引っ込んでしまう。
「道士さま?」
「すまぬ、これを外そうと……」
金具を慌てて外して、改めて差し出された手の白さ。
運命が重なった瞬間だった。






王都朝歌より遥か西に構えられたこの土地一帯を西周とし、その頂点にたつのが
この男姫昌だった。
姫家の嫡男として、荒廃していた土地を復興させ異民族をも受け入れてきた。
宮廷で政を取る息子の影で隠居の爺だと笑うものの、殷全土に響かせた名将は
未だ健在のままだ。
その名を知らぬものはなく、尊敬を抱かぬものも居ない。
「姫昌、外に出てみぬか?」
霊獣を従えて、少女は男を回廊へと連れ出す。
長男の伯邑考を失ってから、姫昌は表立った場所に出ることがめっきり少なくなった。
「良い天気じゃ。たまにはわしの茶に付き合え」
躊躇無く皺だらけになった手を取って、そっと腕を絡ませる。
ただ、こうして同じ時間を共有して。
ただ、二人で同じ景色を見つめるだけでよかった。
「今日は暑いのう……身体まで溶けてしまいそうじゃ」
「何か、冷たいものでも用意しましょう。氷菓子など、御好きではないのですか?」
太公望は小さく首を横に振るだけ。
「はて、女子はみな甘い物が好きだとばかり。貴女もそうだと……」
「好きじゃよ、たが、それは……誰か共に食す者が居ればこそ」
口の中で蕩けるこの甘さを、二人で分け合いたいから。
貴方が少しでも笑ってくれるように、毎晩祈りを欠かすことはない。
「ぬしも、一緒に食うなら」
「私も、ですか?」
小さく頷く姿。
「一口だけでも、構わんのだ。一緒に食ってくれるなら」
眩暈がしそうなのは、暑さのせいではなく。
こうして、手を重ねているから。
本の少しだけ染まった頬と、じっと見上げてくる濡れた闇色の瞳。
「暑いですからね、一口、いただきましょうか」
その言葉に、ぱっと輝く大きな目。
飛びはねそうな心を押さえて、少女は「はい」と答えた。





夜の帳が落ちても、暑さは治まる事を知らない。
熱帯夜の湿った空気に、少女はそっと室内を抜け出した。
欄干に腰掛けて見上げた月の眩しさ。
五十と有余年前と、何一つ変わらずに知らない顔でそこに佇む。
「眠れませんか?」
「……姫昌……」
同じように欄干に肘を付いて、男もつきを見上げる。
「綺麗ですね」
「わしが、羌族として生きていた頃と何も変わらぬ」
「羌族?」
「呂望姜子牙。それが、わしの仙号じゃ」
道服を脱いで、解かれた黒髪の艶やかさ。
仙界に入らなければ、宮中入りしていてもおかしくはなかっただろう。
「ぬしも、ちーとも変わらんな、姫昌」
「随分と、年をとったでしょう?仙道のように不老不死にはなれませんから」
伸びた黒髪を、そっと指に絡ませる。
振り返った姿は、どこか少し寂しげだった。
自分が人間ではないということを、知らしめる言葉。
この胸の奥に閉じ込めたはずの感情が、溢れそうになる。
「変わらぬよ、わしが初めて見た時から何一つ」
不安定な手を取って、そっと重ねて。
熱いのはこの夜のせいにして、目を閉じた。
「一人で悠久の時を生きるとは、どんな気持ちに?」
「……わしにもわからぬよ。もし、共に生きるものがあればそれはそれで幸せだろうし、
 なくとも、それはそれで幸せなのだろうな」
素足が床に触れて、少し肌蹴た袷を直す指先。
「わしは、幸せだ。おぬしと出逢えた」
「?」
「西伯侯姫昌様」
膝を付いて、深々と少女は頭を下げた。
「羌族頭領、呂望姜子牙……心より御礼申し上げる」
辺境の民族である羌の民を受け入れたのは東西南北でこの西岐のみ。
己の糧を削ってまで、他人を思う男などそうはいない。
「そんな、顔を上げてください」
「ただ一人、生き残ってしまいました。この身体に流れる羌の血は、私で消えてしまいます」
仙道は子を残す事はないに等しい。
最後に残った、羌の正統なる跡継ぎがこの少女なのだ。
「私が道士となった事は、許されざることです」
「そんな事は……事実、貴女がいなければ我が西岐は王妃の手で滅ぼされていたでしょう」
深い傷を負っても、退く事などは決して無い。
それは道士としてではなく、羌の戦士の血の成せる物だったのかも知れなかった。
「私の罪は、許されますか?」
「貴女に、罪などありませんよ……」
「私がしているのは……………………」
何もかもを失った。何もかもが変わってしまった。
自分だけが時間の流れに取り残されて、動けない。
「………復讐……です……」
殷の王妃は狐の仙女。その傾国の美貌で人の心を惑わせる。
もしも、貴方が彼女に囚われていたならば私はきっとどんな手段を用いてでも
彼女の首をこの手で刎ねたでしょう。
「太公望…………」
「望と……御呼び下さいませ……姫昌さま……」
同じように膝を付いて、少女の頬に触れる武骨な手。
甘い瞳と、濡れた唇。
「貴女の心に刻まれたその思いを、私では背負えませんか?」
「え…………」
「我が西岐の為に、貴女は傷を負う。ならば、私も貴女の傷を背負いたい」
真夏の夜が見せてくれた優しい幻。
ただ一度だけの、永遠が愛しかった。




「貴女の理想とする世界を見るのが楽しみですね」
ぼんやりと欄干に座って、午後の時間を感受する少女。
隠居の身だからと、男も笑ってその傍らに佇む。
「一緒にさぼるのも、悪くないのう」
「そうですね。一緒にさぼるのも悪くは無い」
ふわふわと漂う霊獣の鼻先を撫でて、ぽつりぽつりと言葉をかわす。
「太公望!!父上をまたそんな所に連れ出して……」
「げ、旦!!」
慌てて霊獣の背に飛び乗って、太公望は思わず姫昌の手を取った。
「御主人、姫昌さん、いくっすよーーー!!!!」
二人を乗せて、天高く霊獣は飛び去って行く。
「姫昌、わしに掴まっておれ」
乗り慣れている自分とは違うと、少女は男の手を自分に回させる。
その腰の細さに一瞬躊躇したものの、彼女の気持ちを受け止めてしっかりと抱き締める。
「壮麗なる景色だと、思わぬか?」
上から見た自分の領地は、思っていたよりもずっと深い。
この中に、数え切れないほどの命が住まうのだ。
一人も多くの民を守るために、少女は惜しげも無くその身体を盾にする。
痛みなど、知らないと。
「夢のようです……こんな風景がみれるなんて……」
「わしも、夢のようじゃよ……」
息が掛かるほど近くに居ても、とても遠くに感じるから。
「貴女と、こんな風に空中散歩(デート)できるなんて思ってもみませんでした」
「き、姫昌っ!?」
すい、と伸びた手が頭布を取り払う。
「昔から、女性の誘いは断らない主義でして」
「わしと約會(デート)してくれるのか?」
「偶然でも、こうやって貴女と空に居る。私が初めて貴女を見たのも、この空です」
頬を包むその手に、そっと瞳を閉じる。
「空を飛ぶ仙道に、恋をしました。あの時に引きとめておけば……」
「道士となったからこそ、おぬしに出逢えた。本当ならわしは今頃野晒しの骸じゃ」
乾いた唇が額に触れて、離れる。
「同じ世界を、貴方と見られるだけで……望は幸せです……」
今、ここに君が居てくれるから。
私はどこまでも飛ぶことが出来る。
貴方がその手を伸ばして私を抱いてくれるからこそ。
私は何も恐れずに戦うことが出来るのです。
「ずっと……お慕い申してました……」
そっと重なる唇に、呼吸が止まる。
この触れるだけの接吻を、生涯忘れる事は無いだろう。
ただ一度だけのこの逢瀬を抱いて、この身が朽ちる日を夢見よう。
魂だけでも、貴方の傍に行ける様に。




「姫昌、暇か?」
ぴょこんと顔を覗かせて、軍師は片手に何かの包み。
「ええ、丁度」
つつ…と歩み寄ってそれを開く。
竹箱の中に鎮座する、小さな胡麻団子。笹を敷布に仲良く頬を寄せている。
「一緒に食わぬか?」
「これは……貴女が?」
小さく頷く姿に、老君は穏やかに笑みを浮かべた。
「戴きましょう。お茶は私が入れます。この団子の御礼に」
桜の花を浮かべた茶と、窓枠に切り取られた風景。
差し向かいで他愛無い話をして、笑い合えること。
この時間が永遠であれば良いのにと、彼女は一人願った。





運命の日は、風の音すらなくてまるでそれを余兆していたのかとさえ思えた。
愛しい人の手はまだ暖かいのに、その命の火は消えようとしている。
「のう、姫昌……穏やかだのう」
「ええ……」
その手を取って、そっと頬に押し当てて瞳を閉じた。
緩やかに流れるこの時間は優しくて悲しくて、そして……残酷。
「素栄らしい人生でした。もう……本当に何もすることが無い……」
「……………………」
そんなことはない、と叫んで止められるのならばこの喉が潰れるまで叫ぼう。
「姫昌、この国は美しいな。おぬしが作り上げた国じゃ」
「いいえ、ここはあなたが護る……風の仙女が居る国です……」
深く皺の刻まれた手。
確かな温かさを感じることができるのに。
「おぬしの息子を王として、殷を討とう」
息子である姫発を即位させ、この西周を一つの国家とする。
王の出現は殷王朝に対する本格的な謀反となり、激しい争いは必至となるだろう。
「ぬしの若いころに良く似ておる」
小さく、小さく。彼女の声だけが室内に響く。
「だがな、姫昌……わしが見たかったのはぬしが王となり、兵を率いるところだったのだ。
 旗を掲げ、その隣に立ちたかった。一緒に、新しい国を作りたかった……」
二人で並んで、見上げたであろうの景色を。
「ここまで貴女と、一緒に来られた。それだけでも十分です」
この澄み渡る空。
「我が主君は、生涯貴方様だけです。西伯侯……いえ、文王様」
「……………………」
「主の命ならば、私はここに残りましょう。それが、臣としての役目」
貴方が望むならば、貴方の為に礎となろう。
この国を誰よりも愛したあなたの為に。





「なにやってんだ?太公望」
敷布に釣竿と針を並べて、少女は鼻歌交じりにそれを手入れする。
「見ての通り。わしの趣味は釣りだからのう」
「んでも、この針じゃつれねーだろ」
針とは名ばかりの、直線の金属片。
彼女の親友の御手製の逸品だ。
「第一、これじゃ餌もつけられねぇ」
「くくく……おぬしにはこの針のよさは、永遠にわからんじゃろうな」
笑いを堪えきれずに、少女は寝台に倒れこむ。
枕を抱えて、ちらりと目線を男に向けた。
「そこまで大笑いすんなよ」
「だってのう……わしはこれで大物を釣り上げたからのう……」
「よっぽど阿保な魚だな。ま、その針に食いついたんだからある意味頭いいいちゃ
 良いんだろうけど」
あの日も、こんな風に穏やかな天気だった。
見上げたあの人の姿を、忘れる事など無い。
「そうじゃのう。大きな獲物じゃった」
目の前の男が見せる幻が、時折胸を締め付ける。
貴方の手のくれたぬくもりに代わるものなど、無いのだから。
「手入れを怠ってはならんのだよ」
「へいへい。もっと良い針買ってやっから」
「要らぬ!!わしはこの針が良いのじゃ」
貴方と過ごした夢のような日々。
貴方が残したこの思いを、身篭るように受け入れよう。
あのときに感じたこの気持ちを。
この午後の日差しと共に抱き締めるから。
「俺も釣りでもしてみっかな〜」
「魚拓よりも、王学が先じゃ。他にも……」
ごろりと寝転がって、発は少女の頭を抱き締める。
「わーった、わーった。昼寝が終ったら考えっから」
「……仕方がないのう……今日だけじゃぞ、今日だけ」
戦いの前の小休止。
まだ見ぬ明日の為に。





「釣れますか?」
「大物がかかったようじゃのう」





『釣れますか などと文王傍に寄り』




            
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21:24 2005/08/26




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