◆恋人たちの夜――背中合わせ――◆





「ねえ、初めて会ったときのこと、憶えてる?」
後ろから抱きしめてくる腕を取って、女は呟く。
「気の強い女だと思ったな。意志の強い奴だってな」
「酷い言い方ね……」
「俺には丁度良い女だ。今もな」
流れる黒髪をそっと撫でて、接吻する唇。
体全体を包み込む布地と、ゆるりと纏われた羽衣。
白の長衣には女の髪が良く映える。
爪は薄紅、頬には桜。
「早めに帰ってきてね。あったかいもの一杯準備しておくから」
後方支援組でも、雲中子は特殊だ。
ヨウゼンの容態の回復と破損の激しい崑崙内部の修復を一手に背負う。
崑崙一の薬師という立場が彼女を縛り付ける。
「そうだな。親になるんだ。俺もちょっとは生活を改めんとならんな」
喧嘩ばかりの日々が今は愛しい。
この当たり前の日常を失うことの恐怖。
それでも、彼女は希望を捨てることはしないのだから。
「あたしも煙草やめたんだから、あんたも酒やめなさいよ」
「難儀なことを。俺のたった一つの楽しみを奪うのか?」
腕を絡ませて、欄干に並ぶ。
ここから見れる景色を、もう一度二人で見れるようにと。
杏の実がなるこの庭を。
四季折々の美しさを生み出すこの窓辺を。
三人で並んで見つめることができるように。





「太乙、実験体はどこだい?道徳の肉体改造には飽きちゃってね。慈航も逃げるだけだし」
「雲中子……君、友達なくすよ?」
「筋肉馬鹿二人に、脳内活性させてるんだ。感謝してもらいたいくらいだね」
あごの線で切られた黒髪が頬に触れる。
研究開発班に属する女は、仙号を『雲中子』と言う。
「怪我がひどいんだ。薬師出の君なら何とかできるだろう?」
「道行を治癒した男の台詞じゃないね」
煙管を咥えて、女は煙を優雅に飲み込む。
「まぁ良いさ。どれが私の実験体だい?」
治癒室に連れられて、その扉に手を掛ける。
そして、進み出て彼女は声を失った。
正確には、声を上げることすらできなかった。
そこにあったのは人間とは名ばかりの肉塊だったからだ。
「……私の治療具を!!それから仙水も!!」
砕けた骨の素を埋め込み、裂けた筋肉を縫合する針先。
銀と赤の二つの色が、白の布を染め上げていく。
声も無く、狂いも無く、その指先は正確に動いて。
部分だったものを肉体へと再構築する。
「輸血を。それであとは……こいつの根性しだいだね」
白手袋を外して、大きく息を吸い込む。
「一服してくるわ。目が覚めたら、終南山までヨロシク」
見上げた空に見える白い月は。
凛と澄んだ空からの彼女への小さな贈り物のようにやさしく輝いていた。





男の名は『黄竜真人』と、報告書で改めて知る。
階位十二仙に座する一人であり、何人もの道士を育て上げた腕前。
宝貝の誤発動に巻き込まれての事故だった。
(ふぅん……面白い男だね……)
その回復力には薬師としても興味深い。
道徳真君よりも強靭な肉体と言っても過言では無いだろう。
「さて、回診に行きますか」
白衣を着込み、室内へと脚を踏み入れる。
点滴と、腕に巻かれた細管と消毒液の匂い。
「ご機嫌の程は?」
「悪くは無いが……いい加減ここから出たいもんだ」
「無理だね。その身体で外に出ることは死に直結する」
点滴袋を取り替えて、寝台に腰掛ける。
「熱は引いたね。良かった」
「おい、お前……仙女か?」
「そうだけど?ここでは男も女も区分無いだろう?」
少し釣り目がちの瞳がくすくすと笑う。
「ゆっくりと休むことだね。無理なことはしない。それが大事だ」
「たいした女だな。男に不自由などしない性質だ」
「そうだね。昔はそうだった」
低く耳に沈む声。どこかそれは懐かしい気もした。
花瓶に無造作に差し込まれた枝葉は紫陽花。
「道徳でも来たかい?」
「ああ。庭に咲いた花だと」
「花でも見て、ゆっくりと養いなさい」
ぽたり、落ち行く水滴に触れる指先。
今はまだこの先の二人の未来図など、予想もできなかった。




「何やってんだ?」
今にも崩れそうな量の書簡を抱えて、回廊を歩く姿。
「見ての通りだよ」
女よりもずいぶんと背丈も体格も良い男は、首を傾げる。
「ぼさっとしてないで、手伝う位したらどうだ?」
「女扱いされたくなんだろ?」
「嫌な男だね。だったら、さっさと何処かへ行きなよ」
雲中子の腕から書簡を取り上げて、黄竜はそれを抱え込む。
「終南山で良いのか?」
「ありがとう。茶ぐらい出すよ」
女を捨てる事を義務付けられるこの仙界で、女である事を主張する仙女。
階位を得ても、本質は変わらないと高らかに笑う。
「ずいぶんと……難儀な場所の洞府だ」
「暑いだろう?今、空調を整えるよ」
程なくして、ひんやりとした空気が室内に充満する。
機材にとって、熱は最も危惧するものの一つ。
始祖の意向もあって、雲中子の待遇は破格のものだ。
「助かったよ。ありがとう」
「いや、こっちは命を繋げて貰ったからな。まだ割があわんだろう?」
口元を押さえて、雲中子は笑う。
「あははははは……だったら、ここに遊びに来て。変人の相手は誰もしたがらないんだ」
その才能ゆえに、彼女は疎まれる。
それさえも好都合だと、振り切りながら。
「ヨロシクね、師兄」
「同じ仙なるものに、師兄と呼ばれる筋合いも無かろう」
「ここに、誰かが来るなんて滅多に無いから。来てくれれば、嬉しいよ」
瞳の中の小さな影。
強がりは、鎖となって彼女を締め上げる。
誰かに解かれる日を待ちながら、重い足枷をしたまま空を見上げるのだ。






それから、時折だが男は終南山を訪れる事となる。
響き渡る笑い声と、二人の姿。
「昨日の午後か……道行がちょっと来て、その後は昼寝してたな」
「昼寝がしたいなら、ここに来ればいいのに」
「何でだ?」
「睡眠環境には、力を入れてるからね」
ぱちん、と片目を閉じて赤い唇が笑う。
「俺は、誘われてるのか?」
「良く分かったね。もっと鈍いかと思ってたのに」
「昼寝なら付き合うが」
男の手の上に、女のそれが重なる。
「あっという間に、夜なんて来るよ」
捨て去ったはずの性が、何十年に一度かだけ疼く。
黙ってやり過ごすのも、本能に飲み込まれるのも。
どちらも『人間であった事を捨てる』という開祖の教えには反するもの。
「そう簡単に、相手を選ぶな。俺はお前に食われる気は無いぞ」
「誰でもいいわけじゃないよ?」
覗きこんでくる黒い瞳。薄い唇と、柔らかい谷間が誘う。
「何百年も一人でさ……寂しくない?」
「寂しいな。けど、簡単に自分の隙間を埋めるのに安売りするのは感心できんぞ」
仙道とはいえ、元は男と女。
性欲も情欲もあって当たり前のもの。
「昼寝には付き合うぞ。丁度眠くなってきたところだ」
「変な男だね。大概の道士は喜んで誘いに乗るのに」
「まぁ、俺は道徳や慈航と兄弟になる気は無いからな」
からからと笑って、雲中子の手を取って。
同じように指先を絡ませた。
「こんな風に寝るの、初めてだよ」
「ははは。昼寝は良いぞ。身体も休まる」
布地越しに、聞こえる心音は。
浅い夢を誘発して眠りを誘う。
「暖かい……こんな眠りもあるんだね……」
「お前が今までどんな生活してたのかは、俺は知らんが……ただ、もっと気楽に生きても
 いいんじゃないか?」
頬に触れる指先は、今まで一番穏やかな光を紡いでくれる。
どこかで、ずっと一緒に居たいと確かに感じた。
それが、何なのかは分からないままに。





「良かったら、お茶でも飲んでいかない?」
面白い取り合わせだと揶揄されても、黄竜は気にも止めない。
「そうだな。暇つぶしに作った干柿でいいなら、持っていけるぞ」
「じゃあ、あたしがそっちに行こうかな」
男の腕に抱きつくように、身体を寄せる。
柔らかい乳房が、布越しに触れても男は眉一つ動かさない。
「重そうな乳だな」
「確かめてみる?」
「そのうちにな」
ろくに触れられてもいないのに、女の色香は増すばかり。
随分としおらしくなったと、笑うものも少なくはない。
終南山で夜を過ごして、床を共にしても身体を重ねる事もなく。
腕枕で女は眠り、男はその寝息で眠りに落ちるだけ。
「ね、星が綺麗だと思わない?あれはあたしたちが生まれる前からあるんだよね」
「そうだな」
お喋りな女だと言う事もなく、彼はただ耳を傾けてくれる。
寂しさを埋めるように、彼女は言葉を紡ぐのだ。
「明けない朝も無い」
「ああ」
眠りがこんなにも幸福なものだと知る事が出来たのは。
おそらくは、彼の力。
「接吻(キス)もしたくないくらい、あたしは魅力の無い女?」
「高嶺の花過ぎて、いつ手を出したらいいか分からんだけだ」
「なら、今だしてよ」
「そんなあからさまな誘いも初めてだ」
それでも、男はその身体には触れない。
「あたしの事が嫌い?」
「お前、鏡見たほうが良いぞ。そんな表情(かお)してる……今、お前を抱いたら俺は
 その弱みに付け込む事になるな」
一枚ずつ剥がれていく脆い皮。
一番柔らかな部分を晒すのが嫌で、幾重にも重ねてきた。
「付け込めば良いのに……馬鹿だね……」
「構わんさ。いずれはそうさせてもらう」
散る花弁は美しい。
それは終末を愛することが出来るからこその感情。
咲き乱れる花の色香。
それに代わるものなど、無い。
「あ……何よ」
「手を出してみたまでだ」
指を絡ませて、男は笑うだけ。
勝てない、そう思う気持ち。
「あたしの負けよ。黄竜」
今まで一番温かな手。
宝物は、見えないところにあった。
それに気がつくことが出来たのは。
きっと、この声のせいだろう。




山吹が咲き乱れる終南山に、男は足繁く通う。
遅咲きの春と揶揄されても、気にする事もなく。
「お前が好きかどうかは分からんが、俺の好きな色なんだ」
薄桃色に、星を混ぜて。
その指先を彩るようにと、下山しては捜し求めた。
「あたしも好きになるよ。この色」
黒髪を撫でる春の風。うっとりと瞳を閉じる彼女の唇に、触れるだけの接吻を。
「久々にすると、どうしたら良いか分からんな……」
照れくさそうに頭を掻く姿。
「あたしも……こんなの初めてだよ……」
薄紅色のこの儚い夢が、終わらないように。
君の心を刺す棘が、一つでも消えるように。
覚悟を抱いて、君を抱こう。
「どうも、俺は女の扱いが苦手でな……どうしたら良いか」
「あたしが慣れてるから、大丈夫よ……」
幸せは途切れながらも続いていく。
この春の夢のように。






「綺麗でしょう?これ」
季節外れの山吹を手に、雲中子は俯いたままで笑う。
「狂い咲きだけど、すごく素敵」
「そうだな……春の花だ」
「春の山吹も、夏の青葉も。これから先、ずーっと見ていくのよ」
欲しい言葉はそれを肯定するもの。
彼は、その言葉を裏切るようなことは決してしないから。
「そうだな。お前によく似た娘が生まれてくるんだろう。俺の苦労も倍になる」
「……馬鹿ね……っ……」
こぼれる涙をそのままに、手を繋いだ。
乙女のような恋を、人間を捨てて初めて得た。
「なに、すぐに帰ってこれるさ。道徳と赤精子も同じ身の上だ」
「そうね……あたしと太乙はここを守るわ。帰って来るべきの家をね」
まだ、膨らみを見せぬ腹部。
愛しげに視線を投げて、女の方を男は抱く。
「心配はするな」
「するわよ。あたしだって女だもの」
「ははは。あとは普賢がどうでるかだな」
「普賢だって同じよ。子供も仲良くなってくれるといいわね……」




決戦前夜。
それぞれの重いは絡まり糸となる。
織り成す布の模様は未だ見えぬまま。
それでも、それが誰かを暖め得るかも知れない。




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21:44 2005/03/04










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