◆老いたる標と風の分岐◆




どれほど月日が流れても、人間は寂しさを忘れることはできない。
だからこそ誰かに対して優しくもなれ、自愛を抱くこともできる。
沈み行く太陽はいつの時代も変わりなくそこにあるよう。
けれども、一秒として同じ顔はしていない。
『ご覧ください聞仲様……美しい夕日でございますね……』
思い出すのは最初のあの日。
人間を理解しようとしたあの瞬間だった。



「人間を、何ゆえに拾う?」
女はふわりと宙を舞いながら、男に問う。
「自分の身体が腐るまで鍛錬を積めるものが何人いると思う?」
「いない。私も知らない」
始祖の肩に指先を乗せて、その耳元でくすぐるように囁く。
中庭を歩きながらの話の種は、先日彼が拾った青年のことだった。
「君もそんな自由が利かないだろ?」
「うん。腹が勝手に動く」
小柄な身体に突き出た腹部。もうじき臨月といえるその姿。
始祖の正妻として道士たちをと統括する女は、首をかしげた。
「でも私、まだ動けるぞ」
紫紺の髪を靡かせて、男はそっと指先を女のそれに絡ませた。
「君が動けない間、道士たちを統括するのに良いかと思ってね。鍛えれば使えるさ」
宙を舞うのも一苦労、それでもあと十年はこのままの状態が続く。
妖怪仙人道士の妊娠は一筋縄ではいかないのだ。
「十年でどうにかなるのか?」
「そのあと君は育児休暇だ。小さい子を抱えて動くのは大変だよ」
碧遊宮の一室を彼に宛がって、始祖は忙しく立ち回る。
ふわふわ、ふわふわ。女は退屈そうに腹を摩った。
(どれ、ちょっと見てみよう。どんな男だ?)
羽衣を靡かせてなにやら物音のするほうへ。灰白の髪は光に透けて銀に光る。
赤い目をじっと凝らして、その姿を見つけた。
「!!」
目にしたのは霊獣を鉄柱で叩きのめす姿。
片手で軽々と扱い、容赦なく打ちつけていく。
「だ、駄目!!止めろ!!」
咄嗟に間に入り込み、鉄柱を片手で受け止める。
「!?」
「駄目。この子は悪いことをしていない。叩くな」
先に仙界に入っているとはいえ、青年の渾身の一撃を片手で受け止められるのはそうそういないだろう。
ましてや身重の女ならばなおさらのこと。
「お前が聞仲?」
「そうだ。誰だ、お前は?」
「私、楊延。碧遊宮に住んでる」
大地に降り立って、女は霊獣の鼻先を撫で上げた。
「よしよし。痛くないぞ、大丈夫だ」
そし今度は青年のほうを振り返る。
「麒麟族の女の子。その気になればお前なんか。がぶりと食われる。でもしない」
言葉が不自由なのかたどたどしいながらも、彼女は彼に語る。
この霊獣は数少なくなった麒麟族のものらしい。
物静かで温厚な麒麟族だが、外見は異形そのもの。
ただ震えて打ち付けられるままにいたのもその性質ゆえだった。
『姚天君さま……』
「こいつまだ友達いない。黒麒麟、友達になってやれ」
気まぐれな仙女の一言でも、これが二人を結びつけた。
後に彼が仙界を捨てても霊獣は片時も離れることなく傍にいることとなる。
「聞仲、早く強くなれると良いな」
「言われずとも」
「そうか。頼もしいな」
十絶陣を敷き、始祖を守る幹部の一人。そんなこととは露とも知らずに。
この先に待ち受けている運命など誰も知らない午後の出来事。
「聞仲、ここに居たか。どうだ少しは金鰲にも慣れたか?」
始祖の声に、青年は顔を上げた。
「ええ……それと、先ほど面白い仙道に会いました。たしか……楊延とか……」
「そうか。それは私の妻だ。あまりからかわぬほうが身のためだな。落魂の陣を敷かれるぞ」
「!?」
笑いながら去っていく始祖の傍に舞い降りる小さな影。
人間も妖怪も等しく感情を持ち、愛を育む。
残虐なだけでもなく、ただ殺しを楽しむだけでもない。
少なくともまだこのときにはそんなこともわかっていた。
自分自身が明白に見えていたように。




「それにしても霊獣というのは……何をすればいいものなのだ……」
月日が流れ、次第に意思を疎通させることができるようになった。
頑丈な外殻と、強靭な爪。猛禽類でも一撃で噛み殺せる鋭利な牙。
『聞仲さま、私の背にお乗りください』
「?」
言われるままに背に乗れば黒麒麟は天高く舞いがる。
金鰲島を飛び出して、目指すのは殷王朝。
幾多の村を越えて、街を越えて。
「凄い眺めだ……空はこんなにも美しいのか……」
『美しい晴天でございますね。聞仲様』
その外見に似遣わないほどに優しく穏やかな声。
「黒麒麟、私は力をつけて殷を守る。それが私の夢だ」
『素敵ですね。聞仲様ならきっと叶います』
肌で感じる新しき風。
緑の美しさにただ、心が満たされていた。




震える身体で飛び続けるのはここまでが限界だった。
崩れるように小さな島に身体を打ちつけながらも、どうにか主に傷を負わせないようにと。
包むように守るように、彼女は誇りを守り通した。
「黒麒麟…………」
『申し訳ございません……私がお仕えできるのはここまでのようです……』
見えないはずの小さな涙。
冷たくなった身体は抜け殻のようにも感じた。
「苦労を……かけた……」
ただ一人の忠臣にそっと手を触れる。
この亡骸のように自分も老いた標なのだ。
取り戻したかったのはあの日の光。仲間と友と、息子のように愛した天子。
流れ落ちる涙に己の死期を悟る。この洛陽と共に。
「聞仲」
夕日を背にして、少女がまっすぐに立つ。
かつて、殷から命辛々に逃げたはずの彼女が今、全てを背負ってここに居るのだ。
「金鞭を取れ。これが……最後だ」
風と光を身に纏い、戦乱を駆け抜けてきた。
たった数十年で力をつけた新しき時代に愛された子供。
「太公望よ……私は以前お前にこう言ったな……理想を語るにはそれに見合った実力が必要だと……」
うねりを上げる鞭に、静かに打神鞭を構える。
「万が一にもこの私を倒せたら、語る資格を与えてやろう!!」
「疾ッッ!!」
迫りくる鞭全てを、風の刃で相殺する。打ちのめされたままだった彼女はもう居ない。
ここまで仲間と共に全力で走ってきたのだ。
たくさんの傷を負いながらも、目をそらさずにまっすぐに前だけを見詰めて。
「聞仲!!おぬしも殷も老いたのだ!!人間界に必要なのは新しい風だ!!」
その新しき風こそが、他ならない彼女なのだ。
「おぬしは消えよ!!」
「それが夢想だというのだ!!そのような幼く浅い思想を持ったおまえに……」
全身全霊を掛けての一撃。
体中に走る痛みに太公望は唇をきつく噛んだ。
「人間界は渡せぬ!!」
大地に叩きつけられ、霊獣が駆け寄る。
『太公望!!無茶すんな!!今のお前にはほとんど力なんか残ってねぇ!!」
唇から流れる血を拭って、立ち上がって。
「それは向こうとて同じことよ」
咳き込む男を正面から見据えた。
「わしはなんとしても……いかなる手を使ってでも……あやつを乗り越えねばならんのだ!!」
悲しいほどに美しい洛陽を背に始まる死闘。
いつのときも新しき時代のためには犠牲がつき物なのだ。
かつての殷のように。
「行くぞ聞仲!!」
「来い!!太公望!!」
最後に守るべきものは己の誇り。それが太師として、男として課せられたもの。
もはや互いの攻撃をよける力すら残らず、その刃を受けあう。
きしむ骨と裂かれる肉の悲鳴は邪魔だと、少女は目を凝らした。
「聞仲……?」
金鞭は次第に彼女から遠ざかり、彼にすでに視界が無いことを告げる。
初期の殷を滅ぼした羌族の最後の一人。
羌族を滅亡に導いた殷の守護神。
「取れ。呂望姜子牙……太師聞仲、お前を倒す!!」
投げられた剣を取って、男は容赦なく少女を斬り付ける。
剣を肉で受け止めながら同じように彼女も男の肉を抉っていく。
支えているのは気力のみ。悲鳴すら上がらない最後の戦い。
吐き出される血液と、飛び散る肉片。
命がここにあることさえ奇跡に等しかった。
「!!」
よろよろと、男が立ち止まる。
「飛虎が死んだとき……気がついた……私が取り戻したかったのは殷ではなく……」
道標だった男の命が静かに消え行く。
「飛虎の居るかつての殷だったのだな……失った時が戻ると信じて……」
懐かしい声のするあの優しい日々。
「太公望よ、人間界はお前にやろう。お前の言う世界を作ってみるが良い」
乗り越えられなかった大きな壁。
その男に今ようやく認められたのだ。
「聞仲…………」
風が少女の頬を撫で、髪をかきあげていく。
「だが私は……お前の手にはかからない」
沈み行くこの大いなる太陽と共に。
「おまえともっと早く出会えていたら……私ももっと違う道が見えていたのだろうな……」
運命の申し子の命が消えて行く。
「さらばだ太公望!!」
その姿を太公望は生涯忘れることはなかった。
大いなる殷の守護神、太師聞仲のその姿を――――――。





魂魄は一人の忠臣として王に一礼を取る。
懐かしい国をぐるり、と回って。
そして、かつての友の居る封神台へ向かった。
優しい風だけが台地に残り。
この丘をそっと走り抜ける。




「……ぅ……」
「良かった。おっしょーさまが生き返った!!」
鈍く痛む身体を起こして、辺りを見回す。
「武吉、現状を説明してくれ……」
背中を摩る愛弟子と二人、霊獣の上に居るこの身体。
「太乙さんが崑崙山が落ちるって言ってました。だからみんなで脱出中なんです」
見れば花狐貂の上には崑崙の道士。
その傍らには雲霄たちの操作する宝貝の上に妖怪仙人たち。
「そうか……みな無事なのだな……」
核となるものを失い、二つの仙界がゆっくりと崩れ落ちる。
これが仙界大戦の結末。
何も生み出さない戦いの最後だった。
「これで……終わるのか……」
握り締めた右耳だけの飾り。
「おっしょーさま?」
「しばらく……一人にしてくれ…………」




いつも、いつのときも傍らに居た。
この先もそれが永遠だと信じていた。
さよならを言う前に告げられた唐突な別れ。
何もいえないままに彼女は自分の前から姿を消した。
初めて誰かを失うことを怖いと思った。
そして、誰かを失えば苦しいということも。
傷を負えば血が流れ、痛みを感じる。
そんな簡単なことさえもわからないままにここまできた。
耳にこだまする懐かしい声。もう、二度とふれることのできない手。
(…………普賢…………)
もう一度、彼女に会えるのならばどんな言葉を掛ければいいのだろう。
背中合わせで離れることのなかったもう一人の自分。
(……涙、か……)
この流れ落ちる涙を止める術などなく。
顔を覆うこともせず、ただその場で声を殺して泣いた。
嬉しいときにも悲しいときにも、共に歩んでくれたあの優しい影が。
もう、ここには無い。
(のう……普賢……おぬしは何を望んだ?何を由とした?)
問いたくても、その姿は無い。
彼女だけではなくその恋人も、気の良い仲間たちも皆――――――。
握り締めた耳飾に、ぽたり。落ちる涙。
優しい人はいつも率先して傷を負う。
その痛みをはじめて彼女は知ったのだ。
「ご主人…………」
嗚咽一つこぼさないその後姿が痛々しくて、離れることなどできない。
ただ風だけが吹き抜けて彼女の痛みを取り去ろうとした。




それぞれの胸に抱いた痛み。
まだ見ぬ明日、それを未来と言う―――――――――。





                  BACK



19:34 2005/09/26

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!