◆足音◆




夜明けのほんの少し前。
まだ、宵篝の名残が頬をくすぐる。
「元始天尊様……」
男の身体をそっと戻して、少女は水中から身体を引き上げた。
「ヨウゼンを……お願いします。わしらはもう、行かねばなりませぬ」
まだ、迷いながら。
この道をゆるり、と歩いていく。
「この度の戦はどちらかが降参するまで続くでしょう。わしらが無傷でいられる
 保障もございません……」
ゆっくりと下げられる頭。
「おぬしにばかり難儀をかける……太公望」
「いいえ。これは自分の意思で行っていることですから」
悟りきるには彼女はまだ年若い。
それでも、押しつぶされな運命の重みを双肩に受けながら一歩ずつ前に進む。
振り返らずに進む小さな姿。
その手には幾重にも絡んだ運命の糸。
「また、強くなりましたね。師叔は……」
風と共に、彼女は進み行く。
「あやつは……純粋が故に強くもあり、弱い。だが……今、この仙界を動かせるのも
 あのような者なのだろう。老いたる導よりも、新しき風か……」
ふらつく足を叱咤して。
さあ、行こう。








居並ぶ同胞の顔を確かめて、太公望は小さく笑みを浮かべた。
「全員揃ったな。よいか、皆。十天君と一対一で勝負してはならん。大勢で一人を
 叩くのだ。奴らは面倒な空間使いだからのう」
奇麗事を言うほど、もう時間も余裕も無い。
今出来ることは、戦うことのみ。
「そして、最終的には生き残ったもので聞仲を袋叩きにする……そうでしょ、望ちゃん」
「まぁ、言葉は悪いがそうだな」
「集団私刑の方が良かった?」
「おぬしも口が悪くなって来たのう……道徳の影響か?」
くすくすと笑いながら、普賢は太公望の隣に立つ。
事前に班分けしたように、それぞれが組となっての出撃だ。
「ナタク、儂をおんぶせよ」
「ちっ……面倒な奴だ」
それでも、小柄な彼女を背負う事に苦は無く。
少年の背で女は呑気に手を振った。
「ナタク、間違っても道行に怪我なんかさせちゃダメだよ。君と違って修理が効かないんだから」
「分かっている。うるさい奴だ」
煙草の紫煙を燻らせて、文殊はぼんやりと空を見上げた。
この空を見上げる事は、もう出来ないのかもしれない。
「師匠、気楽に行きましょう」
「お前の顔が気楽だ。まぁ、悪かねぇ考えだな」
男の隣で女は何時ものように金切り声を上げる。
「生きてだけ帰って来なさい。あたしが責任持って治療してあげるから」
「俺は、人間の姿で子供抱きたいんだが……」
「崑崙(ここ)はあたしが守るわ。大丈夫、そんなに弱くない」
黄竜の手を取って、自分の頬に当てて。
『行かないで』という言葉は噛み殺した。
言った所で、彼は止まりはしない。
ならば、自分も同じように潔くありたいと思った。
「道徳」
「ん?どうした?」
手がそっと頭に触れて、少女は静かに目を閉じる。
「太公望、ちょっとだけ良いか?普賢と話がしたいんだ」
「構わぬよ。長話で無ければな」
「すまない」
どうしても。
どうしても、二人だけ話しておきたい事があった。
「さっき、生き残った者って言ったな、お前」
こくん。小さく頷く顔。
「何人生き残れると……予想してる?」
「…………さぁね」
「俺は、死なねぇぞ。お前の傍にいる」
泣き出しそうな表情と、震える唇。
不安に押しつぶされそうなのは、誰も同じで。
背負うものの形は違えども、それぞれがそれぞれの想いを両手に携える。
まだ見ぬ、この先の日々のために。
「天化が、来てる。ヨウゼンも、生きてる。ナタクも多分死なないね」
「……………………………」
右耳に光る小さな石。
揃いの指輪は、左手に。
「僕たちはきっと、誰も帰ってこれない。それが現段階で予想できる真実」
「はは……手厳しいな」
「望ちゃんは…………死なせないよ。望ちゃんが居なくなったら、大変なことになる」
符印を抱えなおして、普賢は道徳を見上げた。
もしかしたら、これが最後になるのかもしれない。
「あなたに逢えて良かった。あなたと過ごせて幸せだった」
「そこで終わらせんな。まだ、続きが一杯あんだろ?な?」
それが一握の砂でも、彼は希望を捨てることなどしない。
「行こう。そして、帰ってこよう。俺たちの崑崙(いえ)に」
そっと重なる唇の感触も。
自分に触れてくれるこの手の暖かさも。
優しい声も。
安心をくれる心音も。
何もかもを、刻み込んで行こう。
「……うん……」
それでも、一度だけ。
「離れたくないよ……やだ……」
裾を掴む指先の力。
「俺もだよ。だから……帰ってこような。普賢」
もう一度だけ、重なる唇。
この接吻を、忘れることなどないから。
「一杯回り道したぶん、大事にするから」
「ありがとう……」
あの言葉を伝えたい。あの風景を並んで見つめたい。
だからこそ、帰ってこなければならないのだ。
此処が、自分達の帰るべき場所。
そして、愛すべき場所なのだから。





「道行」
女の声に、ふわりと道行は身体を宙に浮かべる。
「公主。何ぞ?」
同じように、回り道を重ねてきた。
名乗り合える事などないと、そう思い続けてきた。
「十二仙の留守の間は、儂が崑崙を守ろう」
「頼む。帰る場所無くしては儂らも戦えぬからな」
薄い掌を開いて、公主はそれを道行の前に差し出す。
「…………飴?」
「道中、疲れを取るものに」
不揃いな形は、それが彼女自分が作ったものだと静かに語る。
受け取って、道行はそれを大切そうにしまった。
「気をつけて………………母上」
「……公……主……」
「御油断なされるな。あちらも強いですから」
心の一番下に沈んで行く優しい言葉。
きらきらと輝いて、胸を暖かくしてくれる。
「私を…………母と…………?」
静かに公主は頷く。
「どうか……御無事で……」
これ以上、彼女と視線を合わせていたら。
ここから旅立つことが出来なくなる。
足枷も鎖も、実際にはありはしかなったのだ。
ただ、不器用に遠回りをしただけで。
「鳳凰山で一人泣いていた儂を、暖めてくださったのも、雷の夜に抱きしめてくださったことも、
 時に仙として厳しく指導してくださったことも、何もかも……嬉しく思いました……」
真実を知る事は、必ずしも幸福であるとは限らない。
何度、置き去りにしたと恨んだことだろう。
回廊ですれ違っても、道行は一欠片の素振りも見せない。
自分は、捨てられた子供だと思い込んでいた。
けれども、過ぎ行く時間の中で立ち止まり、耳を傾けた。
名乗る事も出来ず、それでも自分を守ってくれた女性。
自分のために、半身を失った女性。
そして、また……戦地に赴こうとしている。
本来ならば自分が向かわねばならないのに、彼女はその身を盾にすると言うのだ。
その女を、どうして恨むことが出来ようか。
「母上、どうか……どうか、ご無事で……っ……」
「一度だけ……一度だけで構わぬ、そなたを抱いても良いか?」
震える手で、そっと女の体を抱き閉める。
腕に感じる確かな温かさ。
柔らか肌と、甘い香り。
「こんなに立派になって……竜吉……」
奇しくも、この身体は彼女を産み落としたときに戻ることが出来た。
そして、ようやく我が子を抱き締めることも。
「ああ……あなたを置いてしまった母を……許して……」
「もう……良いのです……母上……」
取り戻したかったあの時間を。
欠片だけれども、この腕に抱くことが出来た。






「おっしょうさま。僕もお師匠様と一緒が良かったです」
四不象の鼻先を撫でながら、武吉はそんなことを呟いた。
「わしは、おぬしと別組で良かったと思っておるぞ」
「ええっ!?酷いです、お師匠様」
打神鞭をくるくると回して、小さな風を作り出す。
薄紅の花弁を拾いあげて、そのまま武吉の頬にぺち、と当てる。
「おぬしはわしの弟子であろう?」
「はい」
頭布を直して、太公望は武吉の瞳をじっと見つめた。
「おぬしはわしの手足となれ。分かるな?」
「半分くらいは分かります……」
「わしの見えぬところも、わしの目となって見るのだ。それをわしに伝えよ。
 一番弟子ならば、それくらいできるな?」
今、彼女を守る男は居ない。
自分自身の力で進むしかないのだ。
「望ちゃん、そろそろ出発?」
「ああ。夜明けと共にな」
朝の足音と、夜の去り行く声。
こちらが攻めていくことなど聞仲には知れ渡っている。
ならば、正面から討ち入ってやろうと太公望は前を見たのだ。
「モクタク居る?」
「へい」
「こっち、ちょっとだけ来て」
愛弟子の手を取って、輪の中から外れる。
どこかで、互いに分かっていた。この先の結末を。
それでも、彼女はそんなことを微塵も感じさせずにそこに居た。
少年も、彼女の策には何も言わなかった。
「モクタク、怪我とかしないように気を付けるんだよ」
小柄な普賢よりも、わずかに足りない身長。
小さい所まで似た者師弟と笑われたこともあった。
「そんなことのために、呼んだんですかい?」
数え切れないほどの喧嘩も、ぶつかり合いもした。
言い合いも、時には互いを傷つけあった。
「あとね……ボクの所に来てくれてありがとう」
「え…………」
「不出来な師匠でごめんね。君が、来てくれてすごく嬉しかった」
「……師匠……」
大地に膝をついて、少女は少年の手をそっと取り上げた。
そして、やんわりと握り締める。
「こんなに大きくなってくれた。こんなに立派になってくれた」
子供を慈しむかのような声。事実、仙道は子供を授かることなど不可能に近い。
それ故に、弟子を我が子として育て上げる。
「もう、一人でも大丈夫だね……モクタク……」
「な……何言ってんですか……いつだって、まだ修行不足だって言うくせに……ッ……」
こぼれそうになる涙を噛み殺して、頭を振った。
彼女は、生きて帰るつもりは無い。
いや、生きては帰れないのだ。
「これで、卒業だよ。よく……頑張ったね……モクタク……」
今までで一番優しい声。
死に行く事を恐れずに、覚悟を抱いたものにだけ出す事の出来る音色。
「生きて……帰って来んじゃなかったんですか…っ……」
「出来れば、そうしたいね。でも……僕の宝貝はこれだから」
己の命を起爆とし、核融合を起こす事の出来る唯一の宝貝。
始祖が与えし切り札を、彼女は間違い無く使うだろう。
「目を閉じて、モクタク」
耳に響く、聞きなれた声。
言われるままに、モクタクは目を閉じた。
「……………………」
柔らかい口唇がそっと触れて。
音も無く、静かに離れた。
「君は、ちゃんと生きて幸せになるんだよ」
「じ……師匠……っ……」
「君のお嫁さんになる人を見たかったな。きっと、可愛い人なんだろうけど。
 ああ、でも見たら……ちょっとは意地悪しちゃうかもね。ボクのモクタクを
 持って行っちゃうんだから」
この先も、隣で穏やかに笑っている日々があったはずなのに。
「顔、拭いて。行かなくちゃ」
「俺が……俺が好きなのはあなたですっ!!貴女のことが、ずっと好きでしたっ!!」
「ありがとう。光栄だよ」
何度、この腕に抱き締められただろう。
何度、この声に助けられただろう。
「必ず、必ず……帰ってきましょうよ……師匠……ッ……」
少女の頭上には光の輪が。
そして、薄い背中に見えたのは真白の羽根。
天を飛ぶ者が得ると言う、一対の気高き翼だった。
「……あ…………ッ………」
過ぎ行くものと、立ち止まるもの、そして、進むもの。
「行こう、モクタク」
「……はい……」
凛とした声。
その後ろを、少年は静かに歩いた。
「普賢、出発らしいぞ」
「うん。あ……道徳、ちょっとだけ屈んで」
「こうか?」
爪先で立って、男の頭を抱き締める。
乾いた唇に自分のそれを押し当てて、その耳元で囁いた。
「お別れをしてきたよ。道徳……」
言葉の代わりに、細い背中を抱き締められる。
「大丈夫だよ。あなたが居る。こんなにもボクは幸せだよ」
普賢の肩を抱いて、今度は太公望の元へ。
それぞれの想いを酌んで、彼女はただ朝日を見つめていた。
「望ちゃん」
「ああ」
そして、夜が明ける。
次の朝焼けを見つめるために、ここを出るのだ。
「行くぞ、皆!!」




立ち止まる者、過ぎ行く者。
そして、全てを受け入れる者。
世界はその手を広げて、彼女を見つめていた。





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22:27 2005/03/07

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