◆世界の終わりに君の手を◆
一筋立ち上る流星を見て、女は静かにうつむく。
零れ落ちた涙が一粒。石畳に砕け散った。
それは彼女の最後の涙。
翻したマントとともに、もう振り返ることはしないと。
この運命を呪うことはもうしない。
私はあのときに決めたのだから。十三年前のあの日に、私の命運は決まっていた。
それを今まで生き永らえただけなのだから。
この贖罪の日々も終わるを告げる。
そして……私が討つ男も今また決まった。
この右腕を誰よりも愛しいと囁いた男を討ち取った少年を。
私は全身全霊で迎え撃つだけ。
「……シュラ!!……」
その声に私はどう振り向いたのだろう。
「アフロディーテ……勝手に双魚宮を抜けてきてはいけない。それに、お前は
教皇の間へと続く最後の守護人……」
「けれども、今の流星は!!」
わかっている。だからこそ、私はこの場を動くことが許されない。
彼も私も覚悟は最初からできていたはずなのに。
「死を恐れてなんになる?早く宮へ戻るんだ、アフロディーテ」
私は何ができただろうか?彼のために。
彼を追っていっそ死ぬことのほうが美しいのかもしれない。
「お前は最後の砦……私は負けやしないから大丈夫。この聖剣を折れるものなど居ないだろう?」
そう、もはやこの世には。
私のエクスカリバーを折れる男は存在しない。
「……分かった……まだあの子達が来るには時間があるから、私は一度教皇の間に行ってくる」
「そうしたほうが良い。私は……ここで迎え撃つ」
あの子の甘い匂いが遠ざかって。
そう、逢えるのならば逢っておいた方が良い。
心残りは少なめにしてこの旅路を行くしかない。
「……シュラ……」
これが彼女に会う最後の瞬間かもしれない。
「アフロディーテ」
ああ、どれだけの時間が流れたのだろうね。
私とお前と彼と、そしてあの人が出会ってから。
「あなたと出会えてよかった。この数年……嘘のように楽しく過ごせた」
みんなで過ごした大切な日々は決して忘れない。
このさびしく思う気持ちは嘘じゃないから。
もしも私が死んだとしても泣かなくていいから。
「何言ってるのシュラ……私は、私もあの人も誰も失わせない!!」
「アフロディーテ、大いなる意思に犠牲は付き物よ。だからあいつも……」
これ以上話したらきっと、この気持ちを抑えることができなくなる。
「笑って、怒って、泣いて……人を好きになった……」
かつん。響く足音が私たちの距離を遠ざけた。
「どうして、いつもみたいにアフロって言わないの?シュラ!!」
「これより、山羊座のシュラ……磨羯宮にて敵を討つと教皇にお伝えを」
「シュラ!!」
「……さよなら、アフロ……」
この世界に揺ぎ無いもののひとつとして時間の流れがあるように。
命の終焉もまた同じだと考えていた。
私がそんなことを言えば彼はただ大笑いをして。
そんなことを考えるよりも俺のことをもっと考えろと少しむくれた顔をした。
「馬鹿馬鹿しい。知ったところで何にもならねぇ」
「そうかもしれないね。でも、たまに考えるんだ、そんなことを」
「だからいっつも困った顔してんのか、お前は」
私の髪が伸びれば鬱陶しいと言う。
そのくせ、彼は彼自身のことにはあまりにも無頓着なところもあった。
「どうしてあんたが聖闘士になれたんだか」
「そりゃお前、才能だろ。さ・い・の・う」
私の心の隙間に強引に入り込んで、そのまま居場所を作った。
けれどもそれを嫌だとはどうしても思えなかった。
きっと、小さな灯火だったから。
その光は絶えざるもので私を照らし続ける。
太陽のようなものではない。
そう、必要なのは己の傍を照らすもので十分なのだと彼は私に知らしめた。
初めて人を殺めたのは丁度、十の頃。
あの頃と私は何が変わったのだろうか?
洗っても洗っても血の暖かさは取れなくて、その赤さは目に焼きついて離れなかった。
「おい……指、ぼろぼろになっぞ」
「取れない!!どれだけ洗っても取れな……!!」
私の右手をとって、指先に唇が触れた。
まるで女神にでも拝謁するように膝を突いて。
「聖剣エクスカリバー……俺だったら簡単にこうやって封じ込める」
「馬鹿なことを!!」
「出せねぇだろ?その気になりゃお前は俺の首なんか簡単に落とせんだからよ」
ああ、神様。
私の罪が許される日はくるのだろうか?
「しょーがねぇから、これくれてやるよ」
銀のロザリオは彼を写し取ったような色。
鏡のように輝いて、どうしてか涙がこぼれた。
「ありが……!!」
彼とのはじめてのキスは、涙の味がした。
そうして私は少しずつ彼を知っていくことになった。
記念日なんてものは存在しない。
そんなものの必要性を感じないと彼は言う。
どこかサディステックな彼と始めて寝た日は雨が降っていた。
キスひとつでも甘くて。
それだけでひどく心が蕩けて行くのが分かった。
「お前、線が細いな」
初めてでも無いのに、どきどきして。
肩口に唇が触れただけでも心臓が止まりそうな錯覚を覚えた。
「わけがわかんない」
足りないものばかりの私と彼は、何かを埋めようといていたのかもしれない。
思ったよりも冷たい肌とその少しだけごつごつした手が私に触れるたびに。
言いようのない至福感と罪悪感に苛まされた。
耳に、頬に、唇に。
その手がその唇が触れるたびにこぼれる己の声を浅ましいと思った。
「記念日なんてものはいらねぇんだよ。毎日生きてりゃ記念なんて腐るほどあんだろ」
ああ、神様。
いつか私がこの命を終えるならば。
願わくば彼と同じ世界に私を導いてください。
ともに行き着く先が地獄でも、私は彼とともにありたいのです。
「おい、泣くなって」
どれだけ彼は私を愛してくれただろう。
そして私はどれだけ応えることができただろうか。
「こんなほっそい体しててよ、エクスカリバーなんて物騒な技もってんだもんな」
私はおそらく、己の手で直に相手の師を感じることのできる唯一の黄金だろう。
器用ではないからと授けられたそれは、形あるものも無き物もすべてを切り裂く。
引き換えに、私は相手の命が砕け散るさまをこの指で感じてしまう。
「ま、俺には通じねぇけどな」
この手を封じることのできるただ一人の人間。
神様、あなたが与えてくれたのが彼であったことを感謝します。
雨の降る夜を一人ではなく誰かと過ごすということ。
傍らで眠る彼の頬を撫でてみれば、確かに生きているのがわかる。
「まだ起きてんのか?シュラ……」
眠たげに体を起こして、煙草に火を点ける。
磨羯宮は聖域でも小高い場所にあるせいで彼の宮よりも雨が綺麗に見えて。
「綺麗な雨だと思わない?まるで……世界を憂いでるみたい……」
「そうだな。ま、いーんでねぇかい?恵みの雨、豊穣なる大地って」
時折彼は思いも寄らないことを言う。
「聞いても良い?」
「ん、何を?」
「あんた、どうして聖闘士になったの?」
聖域に来るまでの間、彼が何を想い何を背負ったのか私は知らない。
「あー……似たようなもんだ。家が面倒でさ……俺の場合はガキのころから物騒な
力もってたし、周りでもばたばた人が死んでよ。んで、預けられたっていうか……
体よく捨てられたみたいなもんだな」
彼の力は生有るものを死の世界へと叩き落す。
それがまだ具現化されずにいたのならば考えるだけでも怖いと思う。
「今頃上手くやってんじゃねぇか?俺がいねぇほうが幸せになれる奴もいんだ」
「……………………」
どんな子供でも望まれて生まれてくる。
「何回か殺されかけたしな。生きてるだけでも儲けもんってことで」
どうして彼の命を奪う権利があるのだろうか。
産み落としたから?ただそれだけのことで?
だったらはじめから産まなければ良いだけの話。
「あのね…………」
「あん時死んでたら、お前にはもっとましな男がくっついたかもな」
「……馬鹿言わないで!!」
「……シュラ……」
どうしてそんな驚いた顔をするの?
「お願いだから……そんなこといわないで……どうなっても良いから生きてて……」
必要の無い人間なんて存在はしないから。
少なくとも、私にとって彼が聖域に来てくれたことは嬉しい事だったから。
ほかの誰かなんて言葉は聴きたくなかった。
「お願いだから居なくならないで……っ……」
初めて人の血の温かさを知ったとき。
彼はずっと傍に居てくれた。
「……置いてかないで……」
この雨の仄白く優しい音と光はどこか彼に似ている気がして。
大地を癒すこの一滴の水。
それ以上でも以下でもない存在。
「……おう……だから泣くなよ……」
くだらない悩みなのかもしれない。ただの杞憂なのかもしれない。
それでも、彼の口から存在を否定する言葉を聞きたくなかった。
「もしもよ、俺がうっかり死んだとしたらさ……お前泣くか?」
「……なんでそんなこと……」
「泣くなよ。俺、お前が泣いてんの見んのが一番辛ぇからさ……」
「だったら……泣かなくてもいいようにして……」
「保障できねぇよ。無理な約束はしねぇって決めてんだ」
きっと。
彼が先に逝ったら泣いてしまうだろう。
「まぁ、そう簡単には死なねぇけどよ」
もしも、私が彼を思って泣いたならば。
その一粒だけで構わないから星に変えて。
一瞬でも独りにならないように彼の傍に。
私がそこに逝くまでに迷わずに居られるように。
私のことを忘れないように。
「白銀全滅したってな」
咥え煙草でうろつきながら、彼はそんな言葉を。
「ってことは、次は俺か……まぁ、指令はでてっけども」
各地に散らばる反逆者たちを私たちは教皇の命で片付けていく。
それは正義の名の下に行われる虐殺なのかもしれない。
「俺ぁ、五老峰の老師なんだけどな」
「……天秤座の聖闘士、あんたが勝てる相手じゃない」
「馬鹿。お前じゃもっと勝てねぇだろうが」
お互いの煙草の味が似ていたから、どちらともなく同じものを吸う様になった。
初めて煙草を覚えたのは多分、十歳の半ば。
あのころに感じたはずの煙の痛みはいまやもうない。
「だからって俺はこれ以上お前やアフロが出撃する必要も感じねぇ」
「……………………」
二本目に火を点けて深く吸い込む。
この手が誰かの命を奪うことにもなれたはずなのに。
どうして今更揺らいでしまうのだろう。
「この聖域に乗り込んでくるのもいるだろうな。そうなったら俺らも全員出撃だ」
四番目に座する巨蟹宮。そこにいれば確実に相手をすることは明白だ。
私は十番目の磨羯宮を動くことは許されないだろう。
無人の人馬宮は簡単に突破されてしまう。
それを食い止めるのが私に課せられた役目なのだから。
「お前のとっから教皇の間までみんな女ってのもな、どうなんだか」
「アイオロスさんがいたら、何か変わってたのかな……」
「かわんねぇよ。人馬から全部女って程度にしか」
だから考えるといつものように言われて。
それでも私が最初に犯した罪は忘れようがなかった。
「何?」
不意にされた手での目隠しに。
「何も見えねぇだろ?」
「あたりまえ」
「そんなもんだ。嫌なもんは見る必要がねぇってことさ」
この闇の中、消えることのない小さな光。
その光の名前は私だけがしっている。
「ありがと……」
「ぁん?」
「あんたの手ってあったかいよね。唇は結構冷たいのに」
下らない事と笑い飛ばして、明日を迎える夜はまだこない。
夕べ見た夢とまたその夢の繰り返しの日々。
もうこんなことは終わりにしてしまいたいのに。
「繰り返す夢って……こうやって消すのかのもね」
浮かび上がるその光。
昇る太陽よりも温かいことことを私は知っている。
幼年期の終わりのように幸せというものは唐突に失われるもの。
私は立ち上る星を見てそれを知った。
頬を撫でる風。
「!!」
耳元に届いた懐かしい声。
できることは唇を噛んで声を殺すことだけ。
きっと今泣いてしまえば私はこの剣を振るうことができなくなる。
「来るが良い……ここで私がすべてを止める」
めぐり合わせならば、きっと私の宮にとどまるものは決まっているはず。
だから、一人を留めることを私は選んだ。
「あなたがここを守る奴か……」
なんと幼い少年の声。まだ聖闘士として若く経験も少ないのだろう。
それゆえに物怖じしないところは、どことなく彼を感じさせた。
「そう。私がこの磨羯宮の主、山羊座のシュラ」
打ち付けられる拳をかわせば、驚いたような表情で少年は私を見た。
「我が右腕に宿る聖剣……お前自身で確かめるが良い!!」
そう、私の剣を折ることができるものはもういない。
目の前のこの少年によって討たれたのだから。
「これが……何物をも切り裂くかのエクスカリバー……」
「この剣を折れるものはかつては居た……それはお前も良く知るところさ」
少年の左腕を切り裂いて。
彼の利き腕と同じだった左腕を。
せめてもの私の弔い。
花すら捧げることができないこの思いを。
「なぜ、あなたほどの人間が教皇の悪事に手を貸すんだ!!」
「悪事か……ならば、私と何人もの人間を殺めてきた君とどう違う?」
「俺たちは正義のための戦いをしてきたんだ!!」
「私たちだってそうさ。みんな自分の正義を貫いたんだ。子供に説教される筋合いはない!!」
次々と引き裂かれていく体に、少年は呻きと悲鳴を上げた。
少年の魂の磨耗をこの手に感じる。
絡まるこの赤い血の暖かさ。あれほど嫌悪したはずなのに。
「彼もいったのだろう?君に。己の正義を」
「!!」
「おしゃべりはもうおしまいだよ」
逃げることなどしない。
この剣をただ一人にささげよう。
それが絶えざる光となって天に導くのならば。
この腕なんていくらでも差し出せるから。
「その身に受けよ!!我が聖剣を!!」
刻まれる傷と痛み。
まだ私は生きている。光を見失っても、彼を失っても。
一筋流れた涙。
もしも本当に女神がいるのならば。
これを光として彼の元へ。
この世界の終わりなどに興味はない。
ただあの光を失いたくなかった。
同じようにこの剣の光が絶えざるものとなりて。
彼を導かんと願いをかけた。
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21:10 2007/04/21