◆優しい虎の殺し方◆
「のう童虎、なぜおぬしは老いることを選んだ?」
大滝の前に座する老人の傍らに立つ細い影。
揺れる銀糸と赤い瞳。
「わしはそのままの時を過ごしただけじゃ。のう、シオンや……おぬしはなぜそのままの
肉体を選んだ?」
聖戦を生き抜いた二人はあまりにも違う未来を選んだ。
時折女はこうしてこの地を訪れて。
「おぬしは老いても美しいとわしは思ったがのう」
「戯言を……本気の言葉とは思えぬ」
時計の針を逆に回して。
砂時計の砂を全部零してしまおう。
「ここがジャミール……まさに何にもねぇ」
聖衣箱を背負った少年は入り口すらない当のような館を見上げた。
彼の地にまだ一度もその姿を見せない牡羊座の聖闘士がいると聞き、はるばるやってきたのだ。
傷ついた聖衣を修復できるたった一人の人間。
しかし、その姿を見たものは教皇以外に誰もいないという事実。
戦うにも聖衣がこの状態では話にもならない。
聖衣の墓場を軽く飛び越えてたどり着いたこの地はまさに不毛と言うのが相応しい。
「誰かいねぇの?」
「居るには居るぞ。お前は誰だ?」
金色の仮面をつけて長衣を翻す姿。
銀糸の髪が風に揺らいで幻想的に輝いた。
「だ、誰だ!?」
「この館の主。先におぬしが名乗れ」
けらけらと笑う声は少女のそれ。仮面が彼女が聖闘士であることを証明する。
「俺は天秤座の童虎!!聖衣の修復を頼みに来た!!」
「ほほう。ならば我が同胞か……私は牡羊座のシオン」
檜扇を片手にひらひらり。
外れた仮面の下からのぞく美少女の細面。
「して、私に何か用か?お前」
がりり…と菓子を齧りながらシオンは男をもう一度見据えた。
「こんなとこまできたら用件は一個だけだ!!」
「ほう、それもそうか」
たん、と降り立つ姿。
その瞬間にぶるんと揺れたのは二つの乳房だった。
(すげー乳してんな……おい……)
思わず見とれた男の視線にシオンは訝しげな表情に。
「お前も笑うのか?私の身体を」
「笑う?何で笑う必要があるんだ?」
思わず手を伸ばしてそのたわわな乳房を掴む。
「ここまで見事な乳はないぞ。どこの馬鹿だそんなことを言うのは」
改めて顔を見れば深紫の瞳がまるで星のように輝く。
透けるような肌と薄いが形のいい唇。
「そうか!!お前はいいやつだな。あがって茶でも飲むが良いぞ」
自分の手に添えられる少女のそれ。
ひんやりとした感触と折れそうな細さに目を瞠った。
「童虎……言い難い名前だな」
「そうか?」
「トラ、では駄目か?」
「構わん。代わりに俺もお前をシオンと呼ばせてもらうがな。しかし何でトラなんだ?」
シオンはにこり、と笑う。
「トラは愛い生き物だからな」
予想以上の破損状態にシオンは顔を顰めた。
聖衣の修復にはそれなりに時間がかかる。
「しばらくかかるが、お前はどうする?頃合を見て来るか?」
聖衣箱にそれを納めて、上から光の粉を静かに降り注ぐ。
人間と同じように聖衣にもしばらく安息が必要だというのが彼女の審判だった。
「そうだな……」
考えあぐねている所に不意にかかる声。
「それとも、ここで過ごすか?トラ」
同じ館で女と二人きりの生活。
普通ならばそんな提案をしてくるものなどいないだろう。
「何を言って…………」
「寂しいのだ。私はいつもここに一人きりだ……」
少しだけうなだれる姿。
誘ったわけではなく、自分が彼女にとって久しぶりの来訪者である事実。
目覚めれば砂が巻き上がるようなこの高配した世界。
「聖域には戻らないのか?」
出された食事を頬張りながら男が問う。
聖闘士は本来聖域に居を構えて非常事態に備える。
しかし牡羊座のシオンだけはジャミールの奥地から姿を現そうとはしなかった。
太陽を背負う十二の星座。
その中でただ一人だけの女性の戦士である。
「仮面は付けないのか?」
林檎を念力で器用に向きながら男の前の皿に落としていく。
「面倒だ。それに聖域に行く必要もないからな」
自分の役目は聖衣の修復だと彼女は割り切っている。
銀色の結わえられた髪が少し寂しげに揺れた。
居場所の無いところに行くことほど苦しいものはない。
ならば最初から己の住む場所を弁えてしまえと。
「まぁ、俺も聖域には滅多に行かないから」
「あんな窮屈な場所。ただでさえ仮面を付けろと面倒な。トラもそう思わないか?」
身を乗り出す姿はまだ年相応の少女のそれ。
「思うぞ。教皇の晩餐会なんぞ……箸を使えぬ食事などこそばゆくてかなわん!!」
「銀の食器などな。あんなもの売ってしまえば良いんだ」
あれこれと話し込めば時間などあってないもの。
どれだけ過ごしても話し足りないことも飽きることも無かった。
聖衣を修復するシオンの傍らで童虎は普段はしない兵書の書き取りをして時間を過ごす。
食事は交代で作りあい互いの癖もだいぶわかりあえてきた。
「トラ、風呂が沸いたぞ。先に入れ」
「晩飯の下拵えが終わったらな。お前が先に入れ、シオン」
まるで若い夫婦のような生活にも違和感は感じなくなった。
隣にいるのが同胞の戦士だということさえも忘れてしまいそうで。
「トラ?」
「面倒だ。お前、俺と一緒に風呂にはいらないか?」
細い手首をつかむ日焼けした男のそれ。
館から出ることのほとんど無いシオンの白さが彼の精悍さを引き立ててしまう。
「そこまで私も分別が無い人間ではない」
「もうじき俺はこっから帰らなきゃなんないからな。お前を口説けるのもあと少し
なんだって気がついたんだ、さっき」
聖衣はあと僅かな日数で修復は終わる。
そうすれば彼女はまた一人でこの場所で過ごしていくのだ。
「口説くのと風呂と何の関係がある」
指先が男の手の甲をそっとなぞった。
細い指先と形の良い爪。
「たまたま風呂が沸いたからだ」
「口説くなら風呂以外にしてくれないか?」
「わかった。なら先に入れ」
「お前が先に入ればいい」
「俺は晩飯を……いっそ食ってから二人で入ればいいな。それでいい」
シオンが聖域に赴任することはまずないだろう。
童虎が動くことが少ないの同じように。
ジャミールに用向きのある聖闘士の絶対数は少ない。
「トラ、もうここには来てくれないのか?」
背中越しに聞こえた少女の声。
銀色の光が寂しげに輝く。
「……来ないわけがないだろう!!」
今できることはただこの少女を抱きしめることで。
どうやって彼女を狭い檻の中から救い出すことができるのだろうと。
金色の鎧を纏った羊。
「ここに来る理由を俺なりに考えてるところだ!!」
「そうがなりつけぬとも耳はこのシオン、ちゃんと聞こえるぞ」
「俺がここに来る理由を今から作るぞ」
女の手を引いて彼はそのまま寝室へと向かう。
「トラ」
「何だ!!」
「私を抱いたところでここに来る理由に成り得るのか?」
頭の中で言葉だけが裏返し。
本当に伝えたい言葉はもっと違ったもののはずなのに。
「私に会いたいと思ってくれれば……シオンはそれだけで嬉しく思うぞ」
簡単な言葉で彼女は感情を表した。
そうすることが一番に彼にこの思いを伝えられると思ったからだ。
「お前と一緒にすごした日が、このシオンにとっては一番楽しかった」
男の手にそっと絡まる指先。
「少し屈め、トラ」
「何でだ」
「お前に口付けしたいと思ったからだ。届かぬゆえに」
こんな簡単なことにどうして気持ちは急いでしまうのだろう?
手が触れるだけで満たされる心の器。
「最初の男がお前か。それも悪くはないかもしれん」
濡れた唇が笑うその姿。
まだ十七歳の恋は急ぎ足。
「ななななななな!!」
「お前が考えてるのはそういうことだろう?聖域赴いたときに散々にからかわれたからな。
よりにもよって白銀たちに。このシオンを女だと甘く見るからだ」
「まさか、白銀集団をぶっ飛ばした女は……」
数年前におきた小さな事件。
白銀聖闘士が十数人たった一人の女に討ち取られた。
銀髪を風に揺らして少女は静かに石段を登り行く。
白羊宮を守る黄金聖闘士、牡羊座のシオンその人が。
「このシオンだ。銀の髪に深緑の瞳など化け物だと言ったからな。素顔も見られたから
それを理由に片付けただけだ。聖域の一番目は私の宮だからなんの不都合もない」
男の頬を両手で包みその鼻先に接吻する。
くすぐるような甘い香りと柔らかな感触に思わず瞳を閉じる。
(もしかして俺はとんでもない女に惚れたのか?)
考えてたとしても答えなど出ない。
理由のある恋など存在しないように。
「トラ、お前に私の秘密の場所を教えてやる」
今度は彼女が男の手を引く。
そのままテレポートで館の最上階へと二人の体を移した。
狭い空間と八卦図のような天井。
窓越しに見える星の輝きは澄み切っていてその光の美しさに目を細めた。
数多の星の中、自分たちは太陽を守護するたった十二の星座を背負う。
「見事な…………」
息を呑む美しさでも、隣の彼女にはかなわない。
膝を抱えて同じようにして天窓を見上げるその姿。
「羊と天秤では離れてしまうな」
同じ軌道に存在するのにこんなにも遠く離れてしまう。
重なった手のひらの温かさだけが真実と瞳を閉じた。
「童虎」
不意に呼ばれた名前に戸惑ってしまう。
重なった視線。
「トラは一匹でだけ生きるという。子を持っても」
群れの中に生きる羊と、孤高の虎。
「お前も一人を選ぶか?」
彼女はこの地でずっと星を眺めてきた。その吉凶を見ながらこの先の未来を思って。
流れ行く光と小さな世界。
「羊は本来、生贄の為の物……いずれ、このシオンも聖域に戻らねばならぬ」
女神は進みくる冥界の戦士たちを打ち倒すために召集を掛けるだろう。
そのときは白羊宮の守護者として彼女は一番最初に戦うのだ。
「……俺がお前一人くらい守ってやる」
「私は女神を守らねばならない。もちろん、それはお前も同じだ、トラ」
どれだけ大切な恋人がいても、女神のために命を捨てる。
それが聖闘士に課せられた運命。
「それでもお前は私を守るといえるか?」
虫の声だけが静かに響く。
真夏の夜はただ誰かを求めてしまうような熱情が渦巻いて。
「女神よりもこのシオンを守ると言えるか?」
この儚げなときめきも、感情もすべてを捨て去らなければならないとしても。
触れた指先が熱くてめまいに体が犯されてしまう。
「俺は…………」
乾いた唇が重なって静かに離れる。
「女神のためじゃない、お前を守る」
「私は一番目の宮の守護者。最初に死ぬかも知れぬぞ?」
その肩を抱き寄せて。
「どこに居たってお前の隣に必ず戻る。俺もお前と戦う」
夢のような恋は何もかもを奪ってしまう。
寂しさを忘れるために誰かを愛するのか?
「今一度、口付けてくれるか?」
「嫌だ」
今度は最初よりもずっと深く、甘さと淫靡の絡み合った接吻。
「一度で俺が足りると思うか?」
息が掛かるほど近付いて。
「私はどうしたらいいのだ?」
上着の組紐を解いていく日焼けした指先。
「黙って俺に抱かれろ」
唇が重なっては離れる。
舌先が耳に触れてそっとその形をなぞっていく。
柔らかな肌に触れる褐色の指先。
「……よりによってここでか……」
板張りの床に横たえられた裸体の美しさ。
天窓から差し込む月光が二人の影を壁に映し出す。
乳房にかかる指にシオンは眉を寄せた。
「ほかにいい場所があるのか?」
「いい場所?」
「ここならお前の星が見えるだろ。シオン」
これは彼なりの気持ちの表し方なのだろう。静かに受け入れてちらり、と夜空を見上げた。
「悪くはないな……ありがたい……」
ため息さえも溶けていきそうな星空。
そっと瞳を閉じてその身を委ねた。
星に手が届きそうだと笑った横顔。
いつまでも見つめていたと思った寝顔。
ありったけの感情で見せた笑顔。
すべてが色鮮やかで愛しいと思えた。
程無くして起こった聖戦に白羊宮を守るものとしてシオンも参戦する。
冥闘士たちを押さえ込みながらも必死で女神の神殿へと向かう。
「シオン!!」
同じように賭けてくる男の姿に唇が笑う。
「トラ、元気そうで何より」
「何を暢気な……シジフォスからの伝言だ。俺とお前で女神を追えと」
十二宮の主たちの命が次々に消えていくその姿。
命は儚くてどこまでも美しいからやりきれない。
「アルバフィカは……アスミタは……」
「それ以上聞くな。行くぞ」
振り返ることすら許されないこの道を走るのが彼と共であったことをこれほど感謝したことはない。
「でも!!」
覚悟を決めて進まなければならないと痛感させられた。
だから泣くのもこれが最後だと。
周囲を冥闘士に囲まれてシオンは傍らの男に視線を移した。
「トラ」
「何だ」
「その剣を貸してくれ」
黄金の剣を手にしてそれを優美な髪の結び目に沿わせる。
閃光一線。舞い散る銀糸の美しさ。
「同胞を葬ったその罪……許さん!!」
まるで手向けの花のように煌くそれは風に乗って光の雨のようにさえ見えた。
彼女が目覚めたのはおそらくこの日。
掌から生まれでた星は冥闘士を巻き込み鮮やかに爆発する。
「シオン!!」
「命を以って償うがいい!!」
繰り広げられる壮絶な争いで一人、また一人と散っていく。
夥しい死体の山を見てももはやシオンは何も思わなかった。
これが戦いだと認識したかのように。
「……行くぞ、シオン」
さよならさえも言えずに逝った仲間たちの思いをこの左手に。
右手をしっかりと繋ぐ君と一緒に。
気が付けば二人だけだった。
女神の最後の祈りでどうにか地上には帰れたものの待つ人は誰もいない。
「……私はこの先どうしたら良いのだ?」
さめざめと涙を流す少女の肩を抱く手。
「女神の言葉を守るしかないだろうな、俺たちは」
聖域を復興させ、再び来るべき戦いに備えて後継者たちを育て上げる。
「たった二人で?」
「一人じゃないだけましだろ」
「そうだな。トラ、お前が居る」
荒れた大地にも花が咲くように、二人はゆっくりと聖域に根を下ろし始めた。
信仰の厚いもの、聖闘士候補生だった者の手も借りながら女神の守る場所は回復していく。
そして、ある晩に彼は唐突に言い放った。
「教皇?そうか、トラならばできるだろう」
伸びた髪を頭頂部で結び上げてシオンはからら、と笑う。
「馬鹿を言え。俺ではなくお前だ、シオン」
闇緑の瞳がぱちぱちと瞬いて、首を傾げた。
黄道十二星は除いて生き残った聖闘士も若干ながらいる。
聖域に集まり始めた彼らを纏めるにはそれ相応の力を持ったものが必要だった。
「お前は俺たち全員の技を記憶してる。教皇として相応しいと思うぞ」
「…………お前はどうするんだ?トラ」
「俺は五老峰に帰る。冥界の監視役をしにな」
「嫌だ。お前が帰るなら私もジャミールに帰る」
押し問答は繰り返されてそのたびに女神の名を出して男は女を黙らせた。
「お前は俺と違って星だって読めるし、何よりも強いではないか」
どれだけ星占術に優れても、知識が豊富であっても。
彼女が一番に望む星は遠くに行こうとしてしまう。
「教皇になればたしかに聖域にいることが多くなるが、多少の我侭は通るぞ」
「ならば私のそばに残れ、トラ」
「それ以外の我侭だな」
聖域の歴史上初となる女性教皇誕生の瞬間。
就任以来彼女が人前で冠を外す事は無かった。
時折ふらり、とどこかに消えては帰ってくるという奇妙な行動。
神官たちも黙して語らず彼女を咎める事も無かった。
気まぐれに持ち帰る青竹や笹の葉。
銀の花瓶に活けて彼女ははるか東国を思うばかり。
恋人は大滝の前から滅多なことで動かない。
並んで静かに言葉を交わすだけ。
それからどれほどの月日が流れただろう。
聖域にも改変期が訪れ始めていた。
「ほう、そなたの子供は双子か」
「はい……どちらかを摘む事には……」
静かに瞳を閉じれば感じる星の鼓動。神官の腕に抱かれた双子の額に触れる指先。
「ならぬ。この子たちにはどちらも星の導きがある。時期が来たならば私が引き取ろう」
それは運命の日を迎えるための準備期間。
二人の子供はしなやかに育っていく。
何人かの黄金聖闘士の候補も見つかり始めた。
(しかし……このシオンの後継者が……)
求められる聖衣の修復はそう簡単に身につくものでもない。
己の手を見つめながらそんなことを彼女は考えていた。
「教皇様、どこかへお出かけですか?」
双子の少年は七年の月が流れた。その傍らには林檎を手にした射手座の少女。
「少し用向きがあってな。サガ、カノン、アイオロス。私が居ない間も修行をサボるでないぞ」
法衣を靡かせて瞬時に消えてしまう姿。
教皇として采配を振るう姿はどこか神々しくさえも。
若竹を押しやって向かったのは件の大滝。
老いた姿の恋人は座したまま動こうとはしない。
「トラ」
「おお、シオンか」
「隣を借りるぞ」
今では滅多な事では人が訪れることの無くなったこの場所に来る唯一の人物。
冠を外して女は銀髪を風に泳がせた。
「相変わらずに美しいな、お前は」
「何を言うか。お前と年は変わらん」
「わしは老いたのう」
皺だらけの手に重なる女の手。
「馬鹿を言うな。何も変わらぬ……」
「何用じゃ?シオン」
「私の願いを叶えてくれぬか?お前は前に言ったではないか。傍に居ろと言う以外の我侭ならば
教皇につけば通る……と」
覗き込む瞳の色。
「何が望みじゃ」
「私はお前の子供が欲しい。その子を牡羊座の後継者として育てる。文句は言わせぬぞ、トラ」
「ば、馬鹿言うな!!んなことできんわい!!」
「嫌だ。それともお前はもう、このシオンには飽きたというのか?トラ」
「物理的に無理だといっとろうが!!馬鹿者が!!」
女が手をかざせば男の姿は瞬時に時間を遡る。
「女神の意思に反するか?それでも……私にはこれしか手段が無い」
十八歳に戻った二つの体。
「一晩だけの効果だ。私もお前も……童虎……」
あの日と同じ星空の色合い。
天を見上げて男は苦笑した。
「お前はよっぽど羊星に見守られて抱かれるのが好きなようだな」
「偶然だ……だが、そのよさを私に教えたのはお前だぞ、トラ」
優しい虎を飼いならすのは羊飼いの少女。
虎の愛情がたとえかみ殺すことでも彼女は逃げることなどしない。
たった一度だけ、ただ一晩だけ。
離れていた時間を巻き戻して過ごそう。
「星などではなく……シオンはお前のことが好きなだけだ……それさえ忘れたか?」
「…………………」
「忘れるほどに遠くに離れたか?童虎」
自分を抱くこの腕をどれほど思っただろう。
君にあえないこの日々を。
女神の名に於いて引き裂かれた二人。
「忘れるわけないだろうが!!この大ボケが!!」
「耳は良いといつも言っている……トラ」
噛み付くような接吻が甘くて涙がこぼれそうになる。
君の唇の熱さが、描く螺旋の炎。
この指先を絡ませて運命を手繰るように。
法衣の下で日に日に膨らんでいく下腹部を擦って女は深く息を吐いた。
慢性的な倦怠感と熱を持った身体。
「シオン様ぁ、具合大丈夫ですか?」
「アイオロスか。心配は要らぬ」
それでも普段よりも細い声に、射手座の少女は眉を寄せた。
「サガとカノンはまた脱走か?」
「うん。さっき見つけてアトミックサンダーボルト掛けたからしばらくおきて来ないと思う」
「そうか。頼もしいのう、アイオロスは」
いずれこの少女も母となる日が来るのだろう。
その時に何を伝えれば良いのか。
「のう、アイオロス」
「なぁに、シオン様」
「おぬし、私の後を継いで教皇にならぬか?」
「サガの方が向いてるよ、シオン様。ロス、お外で遊べなくなるの嫌だもん」
少年と少女には帝王学の勉強が課せられている。
どちらかがいずれは教皇としてこの聖域で聖闘士を束ねなければいけないのだ。
「そうか、まだ時期尚早だったな」
少女の髪をなでる指先。
「シオン様の指、あったかーい……」
臨月を迎えてその日は刻々と迫っていた。
しかし聖域で何かを起こすわけには行かずに彼女はたった一人である場所へと向かった。
彼と出会った最初の場所へ。
「何とかなりそうだな……ここなら……」
一人で見上げる天井はどこか物悲しく、知らずと涙がこぼれた。
何度ここで彼に抱かれただろうか。
一人で準備をしてそのときを今かと待つ。
訪れる痛みに全てを悟り彼女の呻きだけが響き始める。
「馬鹿かお前は!!」
「!?」
その声に定まらない視線を上げれば恋人の姿。
「お前が一度戒を破ったからな、俺もこれでお相子だ」
「……ト……ラ……」
「無理はするな。俺もどうしたら良いかわからんが……一人よりはましだろう?」
歪んだ笑顔でもそれが彼女にできる今の精一杯。
聞こえてくる産声にこぼれる涙。
「……次の牡羊座の聖闘士だ……ああ……」
「娘だぞ、シオン。お前に似ている」
その言葉に女は首を振った。
「目の色は私とお前を混ぜたな。髪も。健やかに育っておくれ……」
こぼれる涙を払う指先。
「トラ、名前を」
「お、おう……しかし、俺はこういうのは苦手で……そもそも俺が子を持つなんて考えても……」
うろたえる男の姿に思わずこぼれる笑み。
それでも彼は必死に考える。
「ムウ。これはどうだ?」
「それに。ムウ、ほれ……不甲斐ない父君だ」
「不甲斐ないとは何だ!!このはねっかえりが!!」
「そのはねっかえりに惚れておるのはお前だろう?トラ」
二人が幸せだった最後の日。
彼女に待ち受ける悲劇など彼はこのとき予想もせずに居た。
星の並びを眺め見てその運命を受け入れようとした女の指先。
「夢に見る……もうすぐ女神が聖域に光臨するのが……」
繰り返される悲しみの歴史。犠牲になるのはいつも年若い少年少女。
「シオン」
自分の名を呼ぶたった一人の恋人。
「安心しろ。お前は俺が守る」
「……そうだな。私にはお前がいる……」
この世界に生れ落ちた一条の光を。
絶やさぬようにそっと両手で包んだ。
聖域では教皇の秘蔵っ子が静かに成長していく。
黄金聖闘士の候補も何人か上がり、空席も半分までに落ち着いた。
けれどもそれは来るべき戦いのためのもの。
手放しで喜べるものではなかった。
「お前、ちっちぇーな」
銀髪を揺らした生意気そうな瞳の少年。
「やめなよ。まだ小さいよ」
黒髪の少女が静止するのを振りほどいて亜麻色の髪を引っ張る。
それでも幼子は動じずにされるがまま。
「あー!!またデスがムウ苛めてる!!こらーーー!!」
「げ!!アイオロス!!」
逃げ出す少年を捕獲して少女は幼子の頭を撫でた。
「大丈夫?ムウ」
「はい」
「シオン様のところ行こうか。デス、あんたはお仕置きしてもらうから」
念力で少年を空中で縛り上げて、ムウの手を引きながら少女は執務室への回廊を進む。
「アイオロス」
「サガ。ちょうどよかった、こいつ運ぶの手伝って」
「またムウを苛めたのかい?教皇様に怒られるよ」
射手座の少女と双子座の少年は正式に黄金聖闘士としてその名を連ねる。
「まったくー。リアと同じ年だから私もなんか変に気になるっていうか」
執務室の扉を開くや否や飛んでくる銀色のスプーン。
きっちりと避けながらアイオロスはそのまま進む。
「シオン様、またデスがムウ苛めて……」
「知っておる。ムウ、お前もだ。しばらく五老峰で頭を冷やすがいい」
厳しい声にさめざめと泣き出す姿にアイオロスとサガはシオンに取り付く。
教皇の幼子に対する態度はほかの候補生とは一線を画した厳しさがあった。
まだ三つにもならない子供に修復作業を覚えさせ通常訓練にも参加させる。
「シオンさま……」
「お前は他の者よりも覚えることが多いのだ。ふらついている時間など無い!!」
その声と共に消えてしまう姿。
懇意にしているという天秤座の老師の下へとシオンはムウをテレポートさせた。
「お前たち、もう戻ってよいぞ。それと、アイオロス……いい加減解いてやれ。
白目を剥いていて不気味だ」
「あ!!忘れてた」
この日々がいつまでも続けば良いと何度願っただろう。
しかし彼女が子を持ったのはこの日々の終わりを知っているから。
子供たちを見送って今度は彼女の姿が消える。
大滝の前で大泣きする幼子をあやすのは老賢人。
「かあしゃまはムウのこときらいなの〜〜〜!!」
「そうではない、あれはおぬしの事を大事に思っておる」
「ムウ、おじいしゃまの子になる〜〜〜〜〜っっ!!」
それでも室かは行き届いているのか誰かを悪く言う表現は無い。
「ほ……泣き疲れて寝よったか……」
「面倒を掛けたな、トラ」
冠を外して女は同じように滝の前に座る。
幼子を腕に抱きなおしてその髪をそっと撫でながら。
「おぬしも厳し過ぎぬか?ムウに」
「人前では母とは呼ばせぬからな」
どこか不自然にも見える二人でも、当人たちには自然なことで。
ただそこに居るというだけで満たされる心の器。
「ひっつくな、鬱陶しい」
「つれない男だな。せっかくの親子水入らずだというに」
あの時と今と何が変わろうか。
「私が愛してるのはお前だけだぞ、トラ」
「……しょーもない女め」
笹の葉、青竹、夏の香り。
銀の髪が美しく揺らいだ。
一人星を見るべく丘に登りそっと手を伸ばす。
「シオンさま」
「ほう、サガか……何用だ?」
まるで何もかもを知っていたかのように女は少年のほうを振り返った。
空に輝く星の色は彼女に告げる、その日を。
「なぜ……アイオロスなのですか?」
「それはお前が一番に知っているはずだ。サガ」
静かに冠に手を掛けてそっと外していく。
流麗たる女教皇のその姿。
「お前の中に……いや、言うまい。苦しんでいるのはサガ、おまえ自身ではないのか?」
巡り来る星の運命。この日が最後だとはじめから知っていた。
命は等価値に美しいと、星の光など無いものとしてどちらも残すことを選んだ。
自分が導いたこの宿命をどうして呪おうか。
「このシオンの命ひとつでお前が救われるのならば……何も思うことなど無い……」
涙など必要ない。悲しみも。
「教皇として最後の仕事がお前を救うことならば」
胸の十字架が寂しく光った。
「これ以上のことはあるまい」
「ならば……その命頂戴する!!」
崩れ行く優しい女の身体を見つめながら少年は何を思っただろう。
少年の拳が記憶した最初の血の匂い。
彼女の思いは光に乗って一番最初の宮へと静かに向かう。
まだ眠る愛娘の元へと。
『ムウや、今すぐここを出てジャミールへ戻りなさい』
「母様?どこにおられまするか?」
『私の声が届くのもあとわずか。さあ早く。あとは父上の御意思に』
言われるままに聖衣箱を担いで白羊宮を抜け出す。
向かう先は五老峰、真実を知る男の場所。
「ムウか」
「母様はいかがなされました!?」
「今しがた崩御なされた……」
大滝の前に座したまま老賢人はそれ以上を語らなかった。
優しいトラはいつだって一人の女に寄り添っていたのだ。
孤独に慣れたはずの虎の咆哮が寂しく竹林に響く。
声を殺したその嗚咽が。
「ムウよ、時がくるまで聖域に戻ることはならぬ」
「はい」
動乱の日を迎えて世界はいよいよ狂い行く。
そして聖戦の終わりを迎えるために。
「ええ、驚きましたよ。自分の両親が妖怪だったという事実が……」
「君でも驚くことはあるのだな」
のんびりと青芥子を眺めながらそんなこと話し合う一組の男女。
執務室に差し込む光は暖かで時に眠気を誘ってしまう。
「して、なぜシオン様が本日は教皇に?」
「シャカ、あなたまた寝てましたね?サガが胃潰瘍で入院したばかりじゃないですか。
隠居決め込んでる暇人を働かせると皆で決めたでしょう」
現教皇のサガが倒れたために引っ張り出されたのは全聖戦を知る二人。
慣れた手つきで仕事こなして今しがたふらりと出かけてしまった。
「辛うじて人間ではないのか?」
「二世紀半も生きたんです。十分妖怪ですよ」
「ならば君も妖怪ということになるぞ」
「ええ。だからあなたのような男を見ても普通に思えるんでしょうね。ふふ」
銀髪の女とその隣をあるく中国服の男。
きっとこの平和を一番に楽しんでいるのはこの二人だろう。
「おい、シオン……その箱の中身は何なのだ」
「これか?これは貴鬼とムウと婿殿にケーキだ。お前にはパイだがな、トラ」
「いい加減に俺をトラと呼ぶのはやめい!!」
槍など使わずとも女は簡単に虎を殺す方法をしっている。
頭を撫でながら耳とで囁くその言葉。
「平和ですね」
「ああ、そうだな」
手を差し伸べて噛まれる事など厭わないと笑う姿。
優しい虎の殺し方。
0:40 2008/03/20