◆有頂天変― Wonderful Heaven―◆
「サガ、見て」
花の冠を手にして、女が笑う。
零れんばかりの笑みは大輪の向日葵を思わせて、彼女の愛でる薔薇とはまた違った
暖かさとやさしさを感じさせた。
「ちょっと屈んで」
男の頭にそれを載せて、まるで聖書の絵みたいだと呟く。
「ディテ、花冠は私よりも君のほうが似合うだろう?」
「だってサガにあげたかったんだもの」
司祭服の男の隣に並ぶ小柄な女。
伸びた影が二つ、よりそって手を繋いだ。
「見て、こっからだと聖域が全部見えるね」
教皇として座する彼は毎日この風景を見つめる。
すべての宮を一瞥することができるただ一つの場所。
あの日、命が散り行様を彼はこの場所から見つめた。
忌まわしきその地に恋人と今度は二人で立つ。
「また難しい顔してるね」
見上げてくれる瞳の色はあの日も今も変わることなどない。
「そうかい?」
「あ、笑った」
君がくれる言葉は魔法のようで、杞憂の苦しみなど消し去ってしまう。
繰り返す悪夢を止めてくれるその甘い声。
たとえ引き込まれて戻れないとしても。
どうして君の手を離すことができただろう?
薔薇園の中に佇んで、何本かを選んで切り取る。
棘がその指を傷つけることなどないようにと何度も触って確かめて。
たとえ触れることなど無くても、その目に入るものすべてが優しい色であるように
何度も何度も繰り返す祈りのように願って。
失って初めて気付いた、大切な思い。
「風が出てきたっ」
ふわり。ブロンドの髪を撫でる一陣の風。
黄金の鎧など纏わずとも彼女は美しい。
海を切り取った瞳もその隣に並ぶ小さな黒子も。
ふっくらとした柔らかな唇も、薄紅の頬も。
あの日、血塗られて薔薇の褥に沈んだことなどもうわからないように。
「いーい天気だ!!サガの欝が少しよくなりますよーぅにっ!!」
山羊座の彼女と違い、魚座の彼女は己の神を信じる。
あの人が少しでも幸せな気持ちになれるように。
万人に対する救いでは彼は救われない。
「アフロ!!」
「ミロ。珍しいね」
手を振りながらやってくる青年を迎える。
冬に生まれたはずの彼は夏のようなまぶしい笑顔。
その少しだけ後ろを歩く女は氷が美しい冬を写し取ったような儚さ。
「いっつもカミュだけなのに」
「たまには来いって私が言ったの。教皇宮まで行くのが面倒だっていつも駄々こねる
しね。たまにはちゃんと自分で報告書を出させないと」
前髪の跳ねを女の手がそっと直す。
薄桃から真紅に静かに変わっていく爪と、燃えるような赤い髪。
静かな殺気と情熱を纏う水瓶座の女。
「シュラはイタリア?」
「多分ね。聖域に常にいるのは私とサガくらいだし」
「私ももう少ししたらフランス帰ろうと思って」
黒服に身を包む姿は深窓の令嬢そのもので、慣れない手つきで彼が日傘を差す。
二人の背中を見送って今度は白薔薇を手に。
まるで恋人にでもするように抱きしめる。
広がる甘い香りに瞳を閉じて誰を思おうか。
足元を掠める乾いた砂の細かさ。
遠くで聞こえる微かな電子音。
時計台の灯があたりを青白く照らし出す。
いよいよ虫たちの声は高まって季節の変わり目を演出してくれた。
まだ帰らない彼のための夕食を準備して、テーブルには薔薇を一輪。
目に入る物の全てから忌まれると呟く彼に、少しでも奇麗なものをと。
自分にできる精一杯のことを、できる限りに続けることが彼女の日課だった。
過不足無く、ただただ丁寧に。
「おかえりなさい、サガ」
疲れた笑顔の彼の大きな背中を抱きしめる。
当たり前のことが自分たちにとっては何よりも大切だった。
「顔色悪いね……また苦しくなった?」
こんなときの彼は、ただやさしくされることだけを望む。
彼が望む分だけの愛情をただ、与えるだけ。
一人でなく、今度は二人で歩くことを決めたあの日からずっと。
夕べ見た夢、またその夢を繰り返す日々。
願うは安息と平穏。
「一緒にお月見しよう。とってもきれい」
なびく銀髪は月光の下で美しく彼の横顔に見とれてしまう。
罪に縛られ憎しみに絡まりあって、心を閉ざしても。
「一回死んで思ったけど、やっぱりサガと一緒がいいな」
冷たい死の世界に安息はなく、落ちた美女は冥界の戦士に取り囲まれる。
程なくして同じように落ちた彼が彼女をかばうまでにそう時間はかからなかった。
光のない世界で確かめ合った感情。
「アフロ、サガのパイまた食べたいな。お料理上手だしね」
「私のパイがそんなに気に入ってくれたのか?」
「うん。さくさくに作ってくれるから大好き」
恋の魔弾を胸に撃ち込んで二人で自滅するならば。
双魚宮の石段に二人で並んで座って。
月の女神も目をそらす様なキスを繰り返えす。
「魚座とサガではないか」
「シオン様」
「早く寝るがよい。風邪をひくぞ」
欠伸を噛み殺しながら石段を降りて行く姿。
目指すのは天秤宮で今宵ものんびりと盃を突き合わせるらしい。
鬼神乱舞といわれるその強さは力では心にあるもの。
「風邪ひくよ?」
「私は良いが、ディテ……君が引きそうだ」
凍りだけの世界で彼女はどのようにして花を得たのだろうか?
過酷な修行を駆け抜けて十二番目の星座を飾る。
女神の名を冠した薔薇の葬列。
火時計の焔は今日も静かに時を告げる。
「双児宮まで行ってみる?」
「久々に自分の宮に戻るのも悪くはないな」
白薔薇を一本生み出す。
それを取って彼が今度はランタンに作り変えた。
「サガすごーい」
小宇宙で具現化ができるならばと彼は付け加えた。
花を閉じ込めた小さな灯りは足元を照らすには十分。
「百鬼夜行の行きつく先には甘露酒があるというのは……老師の言だけども」
天瓶宮の小脇を抜ければ甘い香り。
妖怪の異名を持つ二人は件の美酒で酒盛り中らしい。
鬼百万でも手懐けてしまいそうな女がいれば世はこともなし。
「百鬼夜行?」
「妖怪たちのパレードのことになるんだろうか」
ともすればこのランタンは鬼火になる。
一度死んだ自分達もその行列に並べるのかもしれない。
「ハロウィン?」
「君にならお菓子をやらずに悪戯されたいな」
「んー……悪戯すると教皇様に叱られちゃう」
ふわふわと揺れる金色の巻き毛と月光のような銀髪の青年。
暗い冥府の道をこの手を引いて走り抜けた。
決して振り返ってはいけない。
離れないように結ぶのは銀色のリボン。
「サガの声だけは間違えないよ」
遠い遠い空から呼ぶあの声。凍るような寒気の世界でたった一つの真実。
「私とカノンを間違えないのは君とシオン様だけだ」
「全然似てないけどなぁ」
月の向こうに揺らめく思いに似たさよならはもう要らない。
咎を抱いて生きた彼は今度はどう選ぶのか。
「カノンのほうが笑い方が激しいの」
「そのようだな。けたたましい」
処女宮を抜けようとした時に不意に声が掛かる。
見上げれば宮の上に座った男と女。
「珍しいですね、てっきりひきこもってるばかりかと思ってましたが」
遠慮のない女は最初の宮を守る。
「そうはっきりといってやるな。単に鬱がかるいくらいだろう」
「あなたも結構酷いですよ。万年眠り男が」
交わる視線に小宇宙。
神にもっとも近い男と、その男をねじ伏せることのできる女。
「良かったら酒でもいかがだ?」
「サガ、断ったら血の雨になりそうだよ」
「それから、愚弟に次元の隙間から這い出てくるのはやめさせるんだな。この間うっかり
六道輪廻を開いたら巻き込まれていたが」
その言葉に二人が顔を見合わせる。
「最近カノンを見てなかったな」
「うん。見てないね」
促されて処女宮へと入りこめば白樺の柔らかな香炉が迎えてくれた。
居住空間としてはムウの手入れが行き届いてるせいか申し分ない。
「気が向いたら迎えに行ってやろうと思うが、あいにくいまはその気分ではないものでね」
出されたラム酒を飲みながら外に視線を移す。
「命とは不思議なものだな。私もまさか、他人にそんな感情を持つとは思わなかった」
彼の意思を託された百八の玉を繋いだ遺品。
彼女はそれを己の腕に巻きつけて冥界へと乗り込んだ。
女神の加護の届かない闇の世界、ただ彼だけを信じて。
「今度この男が死んだから帰ってこなくていいように、アイオロスに頼むつもりです。
安心なさい、貴鬼はちゃーんと私が立派に育てて次の牡羊座を継がせますから」
「そうしたら私の乙女座が空欄になってしまうではないか。私も自分の子供に乙女座は
継がせたい。いうなれば貴鬼の妹か弟だぞ」
「言っておきますが貴方のような男の子を産んでも良いという女はそうそういませんよ。
わかってるならばもっと私と貴鬼を大事にしなさい。この電波が」
淡々とした言葉に流石のシャカも反論できない。
けらけらと笑う魚座の女に釣られてサガも笑いだした。
「だから、サガ。あなたももっと彼女を大事にしなさい。あなたみたいに二重人格で鬱持ちで
神経質で微妙に病弱で面倒な双子の弟がいても良いと思ってくれる女なんてほかに存在しません
から。私ならば絶対にお断りです」
生ハムの塊を念力で取りだしてそのまま切り分ける。
山羊のチーズとブラックペッパー。
「そうだな。私ももっとディテを大事にしなければな」
「大事にしすぎるとシオン様のようになるぞ」
「あれは特殊です。良いんですよ、妖怪大戦争でもさせておけば」
笑い合えるようになるまでに要した時間。
今を生きていくことと隣に並ぶ誰かを大事にすることはよく似ていた。
「今度は双児宮で酒でも飲めるようにしておくよ」
「教皇宮でもいいですよ。あそこには腐るほどワインがありますからね、シオンの」
こんな風に大声で笑い合えるならば、少しくらいの憂鬱も良いスパイスになる。
「愚弟はどうするのだ?」
閉じたままの瞼。
「しばらく反省させてやってくれないか?」
「了解した」
「貴鬼ですら簡単に這い出てくるのに、カノンはいったい何をしてるんでしょうかね?」
花瓶に挿された青い芥子。
流れる星を閉じ込めたようなその色は訪れる春を待つためにシャカが作り上げたものだった。
「灯りが見えたら遠慮なく寄ってください。聖域にずっといるのは貴方達くらいですから」
双子座の彼と牡羊座の彼女の間には深い溝がある。
それでも完全に流すことはできなくともこうして向かい合わせで座れる様にはなったのだ。
「シオンまで……しかも、若返って蘇生するなんて……本当の妖怪ですよ、もう。もう一回
刺しなさい。ぶっすりと」
「物騒だな」
「毎日毎日、私の貴鬼にあれこれと……もう……」
一息でラム酒を煽ってさらに口を着ける。
愚痴を言うようになっただけ彼女もだいぶ打ち解けてきたのだ。
緩む頬と、眉間に皺をよせなくなった彼。
「いーなー……サガ、アフロも弟子が欲しいよ」
「そうだな。それも考えなければいけない」
触れるグラスの音が心地よい。
そんな関係をようやく築けるようになったのだから。
石段を降りる姿を見送る。
「あの二人は、二人で幸せにならなければ」
風に揺れる金色の長い髪。
その隣に立つ女が彼の腕に自分のそれを絡ませた。
「随分と、遠回りをしてしまいました。私も貴方も」
そっと肩を抱く手。
「そうだな。もう勝手に死んだりはしないつもりだ」
「つもりじゃなくて、ちゃんと許可を得てからにしなさい!!」
重なる視線に口を閉じる。
どんな思いで彼女は暗い冥界を走り抜けたのだろう。
永遠の闇の中で再び出会った時の彼女の姿。
傷だらけの笑顔に言いようのない感情を抱いた。
「そうだな。私は今度は勝手には死なない」
重なる唇。
「今度は君と一緒にのんびりと生きてみるのも悪くない」
「違います。貴鬼と一緒に三人です」
「そうだな。いずれ、その数が増えるんだ」
風が冷たいからと少しだけ身体を寄せ合って。
静かに扉を閉めて灯りを消した。
11:51 2009/01/13