◆すばらしき邪魔◆
「シャカ、見なさい。なんとも可愛い子供ではないですか」
まだ生まれて間も無いくらいであろう子供を抱いて、牡羊座の少女は穏やかに笑う。
「どこから攫ってきた」
「あなたの子ですよ。さっき産みました」
「心当たりに行き着く失態に覚えがない」
その言葉に軽く舌打ちして、ムウは子供をシャカに抱かせた。
「捨て子です。可哀相に……余程この命を絶ちたかったのでしょう。ジャミールに
置き去るとは……」
聖闘士ですら通り抜けることが困難な土地。
買い物から戻れば朽ち掛けた聖衣箱の上に子供が寝かされていた。
もしかしたらわずかの望みをかけて聖闘士にと親は思ったのかもしれない。
ジャミールは聖衣を修復する聖闘士が代々住まう場所なのだから。
「して、どうするのだ?」
ふわふわの髪の毛に指を通し、少年は首を傾げた。
「どこに届ければいいのだ?教皇か?」
「馬鹿なこと。この子は私が育てます。ええ、弟子としてしまえば良いのです。
もちろん、あなたにも子育てには協力してもらいますよ、シャカ」
その言葉に思わず双眸が開らく。
爆発する小宇宙を防護壁で散らしてムウはこれ以上ないような笑みを浮かべた。
「私たちはまだ十五だぞ。子育てなど……」
「融通の利かない父親など無視しなさいね。今日から私があなたの母となります!!」
この世界でもっとも不幸な子供の誕生だと少年は呟く。
確かにいずれかは彼女も母となるだろう。
それにしてもまだ時期早々も甚だしい。
「そうとなれば名前をつけましょう!!鬼切丸……強そうですね!!」
「ムウ……その前にその前に男か女かを……」
「男ですよ」
「ならば、もう少し人間らしい名前を付けてやれば……」
この場合、理に適っているのは少年の言葉だ。
ジャミールの荒地を見事な花畑に変えてみたり、聖衣の墓場を一掃して外観を壮観にして
みたりと少年は自分の趣味を満喫していた。
そこに赤子などが投入されれば自分の時間は激減することは目に見えている。
「やはり、届け出たほうが……」
少年の顔面をぐわし、と掴み少女がにらみを聞かせる。
「黙りなさい。二人ならなんとかなります」
もはや問答無用とばかりに小宇宙を高めている恋人には何を言っても無駄だ。
昔から思い込んだら他が見えなくなることは重々に承知もしていた。
だがしかし。
あんまりだと、彼は神仏に問いかける。
「そうまで言うならあなたもこの子の名前を考えないさい」
「そうだな。誰かを尊ぶようになってくれればいいのだが……いっそ、貴人でよいのではないか?」
「それでは将来、高笑いをしながら真っ先に倒されそうじゃないですか!!駄目です!!」
「じゃあ、混ぜよう。私の貴人と君の鬼切丸。混ぜ合わせて貴鬼でどうだ」
呼び難さも無ければ悪くも無いと少女は頷いた。
「シャカーーーー!!!!寝てる場合じゃありませんっ!!!!」
圧倒されそうな剣幕に思わず瞳を開く。
放たれる衝撃波を軽く交わして少女は腕の中の子供に視線を移した。
「さっきからずっと吐いてるんです」
「餌のやりすぎだ。一日何回与えている?」
「そんなことはありません!!軽く十回です!!」
念動力で書物を一冊、少女の腕の中へ。
入れ替わりに子供は少年の腕の中に移動した。
「多すぎだ。まずはそれを暗唱出来るほどに読み込みたまえ」
「むぅ……子育ては意外と大変なのですね……放っておいても育つものだと思ってました」
腕の中の子供をあやす姿は髪に最も近い男からは程遠い。
新米の父母がうろたえる姿は周りから見れば奇異以外の何物でもない。
「ここは一つ、子育てのプロに聞いてみましょう」
「ほう?誰だ」
「水瓶座のカミュです」
「弟子と子供は違うと思うぞ」
「ならば、ここは一つ五老峰に行きましょう」
あれこれと考える少女の手をとって、彼は首を振った。
「落ち着きたまえ。泣いてる子をあやす方が先だ」
抱きあげてその瞳を覗き込む。
何度か背中をさすってやると、小さな寝息が聞こえ始めた。
「眠くてぐずっていたようだ。ムウ?」
椅子にへたり込んで座ったまま同じように寝息を立てる少女の姿。
「君も、慣れない子育てなんかを始めるから……」
念動力で少女の体をベッドに横たえて毛布をかぶせる。
夜鳴きは当たり前のことで彼も彼女もだいぶ疲れていた。
それでもいつもよりも口数は増えてどこか幸せそうに笑うならと、彼もこの環境を受諾した。
「それにして充実した顔だな。憎らしいほどに」
子供に罪はないと呟いていすに座り込む。
窓から見える景色は彼女のとっては馴染みの深いもの。
(いっそ……聖域のほうが育てやすいのではないのだろうか……)
それでも彼女は戻ることはしないだろう。
忌まわしい思い出の残るあの場所には。
真夜中過ぎの月を見ながら赤子を寝かしつける。
一晩くらいゆっくり寝かせてやろうと少女を起こさないように少年は物音を殺した。
「珍しい。ようやく子育てに協力してくれる気持ちになりましたか?」
薄茶の瞳が彼を見つめる。身長も体躯もそう変わらない二人の姿。
向かい合って座って青白い月を見上げて彼女は幸せそうに瞳を閉じた。
「シャカ、あなたはいつまでここに居てくれますか?」
聖域に背を向けた自分と違って彼は呼び出さされば戻らなければならない。
聖闘士としての任務もあるのだから。
皹の入ったグラスに挿された青い芥子。
「私に付き合ってあなたまで謀反に扱われる必要はありません」
「…………………」
月光の下、ただただ幸せそうに笑うその唇。
この人の心を裏切ることはどうやってできようか。
「聖域には時々は戻っている。やるべきことも。自由になる時間を使って私はここに
来ている。君に会うために」
すい、と指先が伸びて彼の唇に触れる。
その手をとって爪に舌を這わせた。
「……子供が起きますよ。それに……」
「今更なことを。たまには私から君を誘ってみたいと思うことだってある」
並んだ聖衣箱が二つ、青い光を受けて静かに煌く。
「もし、もし本当に……私にあなたの子供ができたらどうしますか?」
沈着冷静な少女と神に最も近い少年。
それでも一組の恋人には変わりなくて。
強がっても不安に駆られる夜も、涙を零す午後もあるように。
ぽつりぽつりとこぼれる本音。
「そうだな……そうしたら私も謀反者になろう。そうすれば育児に協力もできるだろうし」
銀と碧を溶いた瞳がゆっくりと開く。
ジャミールは彼が目を開けても何も変わらない一種異空間でもあった。
「この子に兄弟がいるのも悪くはない。年子はさすがに避けたいが」
多分、彼はそこいらに居る女よりもずっと美しい。
乙女座の聖衣を纏い戦う姿はまさしく神にも見えた。
どうして彼は自分と一緒に居ることを選んだのだろう。
「どうして、あなたは私と一緒に居るのですか?」
滅多な事では彼女は自分の心を見せたりはしない。
何時如何なる時でも穏やかに微笑み、その真意を隠してしまう。
「私を抱くためですか?」
こんな月の夜は不安で一人でいることに耐えられなくなる。
あの日も同じように狂おしいほど青い月の夜だった。
「君と一緒に居ると、どうして安らぐ。たまに殺されそうにはなるが」
シャカの手がムウの頬に掛かって軽く引っ張る。
「ははは。柔らかい」
「ぶっ殺されたいんですか、あなた」
膨れ上がる小宇宙に少年は笑いが止まらない。
「そのほうがいつもの君だ。ああ、本当に」
「今すぐ殺りますよ、電波。さっくりと逝きますか?」
その声が唇が本能を呼び覚ます。
「人のことを何だと思ってるんだか」
指先が仕草が香りが劣情を刺激する。
「聞いてるんですか?シャカ」
ああ、その視線が神を人に戻す。
「シャカ?」
不意に重なる唇に目を閉じることもできなくて。
絡まってくる舌先と押さえられた顎。
舐めるように噛み付くように繰り返す隠微な接吻。
「聞いてなかった。君が言ったのは私のことを愛してるという意味だろう?」
赤い舌先が少女の唇を舐めて離れる。
「ば……馬鹿!!電波!!最低男!!」
真っ赤に染まった顔に満足げな少年の笑み。
「どっからそんな自信がくるんだか!!もうっ!!」
「神に最も近い私に惚れない女のほうがおかしいと思うが?」
「その言葉、アフロディーテあたりに言ってみなさい!!魔宮薔薇で殺されますよ!!」
少しだけあふれた涙を払う指。
「私にも好みはあるんでね。ローズティーとやらは苦手なんだ。君の作るバター茶が
世界で一番美味いと感じるあたり、私もまだまだ悟りきれないということか」
繰り返すキスはどうしてこんなにもやさしいのだろう。
いっそ彼がもっと傲慢だったならばこんな風に恋をすることもなかった。
「君はただ抱かれるだけの女ではないだろう?私は君のような人とは初めて出会った」
海に沈む銀色の月によく似た彼の瞳。
「君は私に最初に会ったときのことを覚えているか?」
「なんとなくは」
星の導きがあるからと彼はある日、親元から引き離された。
正確には彼を預かる僧侶の下からだ。
すべてを悟って涙を捨てた。
使者を伴い聖域を訪れたのはある日のこと。
着任の礼を済ませて彼の住まいとなる処女宮へと身を寄せる。
無機質な石造りの宮でも雨風を凌げるだけいいと少年は笑みを浮かべた。
「こんにちは」
亜麻色の髪を風に揺らして少女が顔を覗かせる。
「確か……牡羊座の……」
「ムウです。遊びにきてあげました」
踏み込んで蓮華座の上にちょこんと少女は座り込む。
「そこは私の席だが」
「おや、変わった椅子ですね」
肩で跳ねては揺れる柔らかな髪が不思議で思わず見とれてしまう。
神仏よりもずっと魅力的な少女の横顔。
「すわり心地が最悪です。どうすればこんなので満足するのでしょう」
少女が飛び降りるのと同時に少年が座を組む。
それを見て少女は少年の膝の間に器用に座った。
「この方が楽ですね」
「……君は、どうして私にくっつくのだ?」
「だって、あったかいじゃないですか」
誰かの暖かさを認識したのはこの日だったのかもしれない。
それから程なくして彼女は聖域から姿を消し、ジャミールへと篭ってしまう。
しかし、教皇は彼女を罰することなく黙認した。
どれだけ待てども少女の姿が白羊宮に現れることはなく。
少年は待ちくたびれたとジャミールへと向かった。
「おや、珍しいお客さんが」
「不便な家だな。入り口もない。おまけに失礼にもほどがあるお出迎えだ」
聖衣の墓場を難なく越えて、少年は少女の元へとやってきた。
「疲れたでしょう?お茶でもいかがです」
朽ちかけた簡素な館。
そちらこちらに転がる聖衣の破片。
この館で一人で聖衣を静かに修復する日々を彼女は過ごしていたのだ。
片隅で輝く黄金の箱。
伸びた髪を無造作に結んでひっそりと過ごす毎日。
「いい加減、意地など張らずに聖域に帰依したらいいのではないのか?」
「………………」
意味深な視線が一瞬だけ生まれて、彼女はすぐに外にそれを移してしまった。
「蒼い芥子が綺麗だと思いませんか?」
その胸の中にある感情に触れさせて。
誰にも不可侵としてきた傷に口付けを。
「私、いろんな花の中であれが一番好きです。あれ以上に綺麗な青なんてないでしょう」
「君はいつもはぐらかしてばかりだ」
「いいえ。他人に踏み込まれるのが嫌なんです。あなたもいつかは目の前から消えるでしょうから。
私は誰にも何も求めません。だからあなたも私に何かを望むのは止めてくれませんか?
望まれても応えることなどできませんし」
辛らつな言葉のはずなのに、どうしてだろう彼女が寂しげに見えるのは。
わずかに震える肩を抱きしめたいと思うのに。
「君の中の真実に触れるにはどうしたらいい?」
「無駄です」
「無駄かどうかやってみなければわからないだろう?」
一度だけでいいからその心に触れさせて。
「この青よりも綺麗な青をください。そうしたら考えます」
それから彼は世界中を飛び回ることになる。
異国の美しい空も、透き通った海面も彼女の望む青には程遠い。
美しさだけではなくその心をひきつけるためのもの。
そう簡単に受け入れてくれるほど少女は易しくはない。
どれだけ探し回っただろう、それでもあの花に適う色は見つからないまま。
宝石などには視線もくれない。
ジャミールの青い花は彼女を見守ってきたものなのだから。
花を一輪、硝子の器に落とす。
水に溶けるようなグラスブルー。
「馬鹿な男ですね、あなた」
風に泳ぐ亜麻色の流麗たる絹糸。
黄金の鎧に身を包んだ彼がうなだれる姿など誰がそうしただろう。
彼女以外に、いったい誰が。
「君が望むような青は……」
「見つけてしまったんですね、困りました」
同じようにしゃがみ込んで少女は小さく笑った。
「白い月が水面(ここ)に写って……ああ、こんなきれいな青、見たことありません」
空に浮かぶ真昼の月はどこまでも白くて。
「どうやってあなたはこの青を捕まえたのですか?」
「君が…………私を捕らえた様に」
誰かに触れたいと思ったのはどうしてだろう。
一度触れればもっとほしいと持ってしまうように、歯止めが利かない。
「馬鹿な人ですね、本当に」
「そんなに私は馬鹿か?」
「ええ。多分、世界で二番目くらいに」
触れ合った指先が温かくて。
「一番は誰なのだ?」
「そんなあなたを好きだと思う、私でしょうね。シャカ」
「また寝てましたか?」
いつの間にか赤子は彼女の腕の中に。
慣れないながらも小さな命を守ろうとする姿に彼は笑みを浮かべた。
「いや、昔のことを少し思い出していた」
「老人みたいですね」
言い返すのも面倒だとチャイを二人分。
「もう少ししたらこの子も一緒に飲めますね、そしたらもっと楽しいでしょう」
「君の取り合いになりそうだ」
「……あなた、頭……いえ、あなたがおかしいのは今に始まったことじゃないですし……
まぁ、電波どっかに放ってるのか受信してるのか両方なのかはあれですけども……」
柔らかな胸で眠るのは未来をつなぐ小さな光。
「すばらしき邪魔者だ」
「まったく。馬鹿なところはちっとも変わりませんね。貴鬼、あなたはああなってはいけませんよ」
彼女の言葉にもうひとつ加える。
「でも、私は世界で二番目場のだろう?」
「ええ。そうですよ。一番は私ですから」
何よりも愛しい邪魔者。
すばらしき邪魔者。
14:47 2007/08/20