◆牡羊座の彼女◆
「シャカ、頬に煤がついてます」
大掃除とばかりに処女宮を片付ける少年の名前はシャカ。
神に最も近い男して、鳴り物入りでこの聖域にやってきた。
乙女座を守護星座として、聖域の中でも中枢になる場所を与えられた。
「ああ、すまない。それよりもこの埃……さすがに堪えきれぬ」
輝く金髪を一纏めに編みこんで少年は掃除用品を持って大格闘。
それをのんびりと眺めている少女の名はムウ。
シャカ同様に黄金聖闘士の一人として、白羊宮を守護する牡羊座の守護人。
「面倒なのでこの際ジャミールでしばらく暮らしましょう。夏に生ごみを放置しなければ
虫が沸くこともないでしょうし」
「虫など沸いてはいないが?生ごみなどためた験しがない」
「まぁ、天魔降伏でごみなど一掃できますしね、シャカの場合」
心外だと言う顔をしながらも、少年は黙々と掃除に励む。
簡素ではあるが生活に必要なものは一通り揃い、雑然とした印象もない。
むしろこの聖域で暮らす男子の中では小奇麗なほうだろう。
彼岸花は瓶に一輪、麻織の絨毯。
「さっきから私の邪魔をしたいのか?ムウ」
「まさか。単なる見物ですよ」
白羊宮は早々に、少年が清掃を終えている。
いざ自分の宮の番と思えば、今度は恋人までもついてきた。
齢十四、まだまだ悟りきれぬこともある。
聖域という名の場所はどうにも騒がしいと少年はため息をついた。
二人が聖域に来たのはまだ六歳のころ。
天才的な資質を持ったシャカと現存する聖衣修復職人の血を引く少女ムウ。
「そこの貴方!額にゴミがついてますよ」
つかつかと少年の方に少女は歩み寄り、少年の額をぐいぐいと押す。
「痛いですよ、何をなさるのですが」
「ゴミがついてます」
「なれば、貴女の眉はどうしてそんなに面白い……!!」
言い終える前に少女は少年の胸倉を掴む。
「私のどこが面白い?もう一度言ってみるがいい」
亜麻色の髪は結わえられ、毛先がふわふわりと笑うのに。
笑みを浮かべながらムウはシャカを締め上げた。
「私はこれから師匠……いえ、教皇に顔を出しにいきますが貴方は?」
「私はもう挨拶はすんでいる。これから住処である処女宮へ向かおうと思う」
「そうですか。なら、途中まで同行しましょう」
道々話せば彼女も聖域にはまだ来て間もないらしい。
ジャミールで修行方々のんびりと暮らしていたところを、教皇からの勅命。
いざ来て見れば牡羊座の黄金聖闘士になれとのこと。
ジャミールといったりきたりしながらも、ムウは聖衣の修復に勤しむ。
「教皇とは懇意なのですか?ムウ」
「教皇は前牡羊座の黄金聖闘士。即ち、私の師匠に当たります」
普通ならば驚くだろうが、相手がシャカの場合それは該当しない。
普段から視覚を断って小宇宙を高め、それでいながら視覚的映像をできる男。
ムウの言葉を借りれば「目を瞑ってても見えるなら、覗き魔ですね」になる。
「そうか。それは大変だな」
「私にとってもっとも尊敬すべき方です」
その声に迷いはなく、凛としていて。
澄んだ空とこの迷宮だらけの声域に響き渡った。
(あんな出会いでも、人間というものはどうなるかはわからないものだ……)
程なくしてムウが押しかけ女房的に処女宮に入り浸るようになった。
悟りを開いたはずでも色恋沙汰に疎い少年は流されるままに。
「シャカ、一息入れたらどうですか?」
差し出された冷たいルイボスティーに形の良い唇が触れる。
「ここの夏は何度巡っても好きにはなれない」
「暑さは私も苦手です。そうですね……もしも、私が水瓶座の聖闘士だったならば
あなたが嫌だというこの季節を少しは苦痛なく過ごせるのでしょうが」
時折この少女は予想もしない優しさを見せる。
誰かに踏まれて折れた花を見て、小さな涙を浮かべて。
その直後にシャカの食事に黒胡椒を山のようにかけたりもするのだが。
「そうですよ、宝瓶宮に涼みに行って事のついでに双魚宮でお茶でも飲んでくればいいのです」
「……ムウ、私は紅茶にジャムやらブランデーやらあれこれ混ぜたものよりももっと
すっきりとしたものの方が好きなのだが」
「ああ。すっきりと。淡白なのは昼も夜も同じですか」
「……………………」
げんなりとする少年など気にも留めずに、少女は小腹が空いたとトーストを焼き始める。
双魚宮の主にもらったジャムと、自家製のバター。
「寝苦しいなら、ジャミールに行きますか?」
「そうだな……あっちのほうの空気のほうが私には合っている」
何かと来訪者の多い聖域よりも奥まった秘境は居心地が良いらしい。
賑やかなのは嫌いではないが、あまりにも過ぎれば苦笑するしかなくて。
加えて中性的な少年は少女たちからしてみれば良いお遊びの道具。
傍にいるのが牡羊座のムウとあれば、少女が二人並んでいるようだと。
「焼きたてのほうが、美味しいですよ」
二つに分けられたトースト。
この少女は独り占めという言葉を由としない。
独占欲の塊のようでありながら、実際は違ったりもする。
「君は……欲があまりないと私は思う」
「?」
少年の唇についたジャムを、指先で拭って。
舐め取る仕草にほんの少しだけ心がゆらら…と。
「欲?」
「そうです。色んな欲」
シャカの言葉にムウはただただ笑うばかり。
「欲の塊ですよ。あなたをほかの誰かに奪われるならばまとめてスターライトエクス
ティンクションで一網打尽にします」
晴れ渡る日も雨の日も、彼女は何も変わらない。
それ以上に大事なものを見つけてしまえば、人はどこまでも強くやさしくなれるから。
石造りの館の空気はどこか冷えていて。
「豪勢に薔薇風呂でも」
「そのバスタブの掃除をするのは私なのだが…………」
それでも視覚にも嗅覚にも悪いものではない。
少々の手間など自分が何とかすればいいのだとシャカは小さな笑みを浮かべた。
気に入った香を焚いて、肌触りの良い麻のカバーリングをベッドに。
聞こえてくる夜鳴き鳥の声と去っていく太陽の気配。
「ここにくると、あなたは目を閉じないって知ってましたか?」
「外敵の心配が無いジャミールですからねぇ。それに、ここは空間が若干湾曲しているからか
目を開けていても小宇宙に影響が無い」
硝子玉の様な瞳は、少女をゆっくりと捕獲する。
「バスタブにいろいろと準備でもしてきましょうか」
一度、少年が黙ってガンジスに沐浴に行ったときのこと。
少女は寡黙な笑みで聖域を飛び出し追いかけてきた。
修行地は故郷にも似ていて、まさに少年にとっての聖域だ。
「なぜ一々ことわるのです」
「何も言わなければ、君はガンジスまで来てしまうからね」
返す言葉もないと、少女は苦笑い。
「追いかけられるだけ花でしょう?」
「そうですね。それがたとえ女王蜂でもありがたく思いましょうか」
浮かべた花々と、そこに沈む少女。
甘い香りにいつもの喧騒など忘れてしまいそう。
「そうしてると、普通の女性に見えますね」
注し湯の為に瓶を抱いて、少年は穏やかに笑う。
「私が普通じゃないと?」
「聖闘士や、聖衣修復職人は普通じゃないと私は思うが?」
バスタブの淵に肘を突いて、シャカは恋人の髪を一束取る。
唇を当てて、その瞳を覗き込んだ。
「あなたの目は、不思議な色ですね。銀なんだか金なんだか」
「君の目も綺麗ですよ」
「臆面無く気障な事が言えるのはギリシアに染まったからなのかもしれませんね」
二人の出身地は地図上で見れば割と近い場所にある。
そのせいか、どこか価値観は近いものがあった。
風の音と僅かな虫の声。
扉の無いこの館に入るにはそれ相応の実力が必要。
「ああ、シャカ。それを貸してください」
水瓶を受け取って、その中に湯を満たす。
そして徐に少年の頭から一息にかけた。
「ムウ……急に何をするのです……」
花弁を一枚。再び湯の中に戻して。
(予想のまんまで面白味の無い反応ですね……老師といいシャカといい……どうも
このあたりの男はからかい甲斐がありませんね)
困り顔の少年を抱き寄せて、軽く唇を重ねた。
「意気地なしでも、ないんですけどね。シャカの場合は」
「倫理的道徳的観念が私にもあったものでね」
「だから私から誘ったんですけどね。仮にも仏陀だかアラーだかの生まれ変わりの男と
証される人物が女に溺れるわけが無い、と危惧してね」
この場合、全く違う宗教を十派一絡げにしていても彼女は気にしない。
細かすぎても黄金聖闘士なんかは務まらないのだ。
副業の修復職人として神経を常に研ぎ澄ませる代わりとも言うべきなのか、普段の彼女は
無頓着無謀にも近いときすらあるのだから。
「一緒に入りますか?」
「面白そうだが遠慮しておく。現実的問題としてそのバスタブには二人は入れない」
猫足のバスタブは形にこだわった代償として入れるのは一人だけ。
結果、少年はこうして少女の話し相手として傍らに座る。
「のぼせる前に出たほうが良いと思う。風邪を引く前にもな」
数年前、聖域を揺るがしたアイオロスの乱。
その真相知る数少ないのがこの少女と五老峰に座する老師だった。
厳密に分ければそこに魚座、山羊座、蟹座の黄金聖闘士も関係はしてくる。
「教皇が偽者なのは知ってますか?シャカ」
教皇は前聖戦からの生き残りである牡羊座の聖闘士。
二つに割った中央に、同じく天秤座の童虎こと老師が位置している。
当然ながら彼女の師匠である教皇の小宇宙が違うことに気が付いた。
迷いながらも老師に相談すれば予感は不幸にも的中してしまったのだ。
教皇は暗殺され、いまや違う男が成りすましている、と。
「なんとなくは」
「前教皇は我が師シオンでした。自分の師匠の小宇宙を誰が間違えますか?」
「……………………」
「信じます。いつの日か師の思いを継ぐことができると」
真の強さは何かを乗り越えなければ得ることはできない。
「私は君が聖闘士になったのは間違いじゃないと思うし、君が弟子を採ったならば
きっと立派に育て上げると思う」
その言葉の予想の通りに、数年後彼女は小さな子供を弟子にすることとなる。
そして彼女も同じようにジャミールを基点として聖衣修復職人として後に名を残す。
「師匠にも言われました。私はよく似ていると……男の趣味が悪いところも似ていると」
最後の一言は余計だろうと少年は眉を顰めた。
それでもこの少女が自分にとっての理解者に代わりは無いのだ。
「では、牡羊座のシオンも…………」
シャカの前に差し出された一枚の写真のようなもの。
「これは?」
「師匠が念写で写し取ったものですよ」
そこのあるのは凛とした美形の少女と東洋人の精悍な青年。
「我が師シオンとその恋人の天秤座の童虎です」
「な、何で吸ってーーーーーーーーーーーーー!!??」
「あ、やっとうろたえた。うろたえるな、シャカ」
五老峰の老師は齢二百数十歳。
「ちょっとキケンなカンジの二人ですけどね」
「老師も人間だったんだな……と思いました。ええ、今まで妖怪だと思ってましたから」
こんな風な彼を見たのは初めてのこと。
「シャカもそうしてると普通の男に見えますよ」
長袖のカッターシャツに細身のジーンズ。
聖衣を脱げばただの恋人同士に戻ろうと。
「さすがにミニスカートは履けませんがね」
揃えたバングルがきららと光る。
「そういえばこの間デスマスクがムウの格好を何とかしろと」
「女に免疫の無い男ですね。暑かったのでチューブトップで出歩いただけですよ」
「別段何も困る格好でもないだろうに」
この場合、困る格好というのは全裸もしくはそれに該当する程度と彼は認識している。
価値観の近い者通し、彼女も同じだ。
「これだから童貞は困る」
「シャカ、聖域にいるよりもガラが悪いですよ。しかも直球です」
「気を使うのも疲れるんでねぇ」
もしも、彼が小宇宙に目覚めることなくいたら?
悟りを開くことなく、一人の少年として生きていたら?
「あなたが聖闘士じゃなかったら、私たちは出会えませんでしたね」
「そうだろうか?案外出会えたような気もするけれども」
もしも自分が聖闘士じゃなかったら。
あの人の娘として生まれてこなかったならば。
「なんとなく、運命だったんじゃないのかなと。君と出会うのは」
「……ひ、非科学的でなんとも……」
「ロマンチストですからね、男はみんな」
それでも運命ならばこの少年で本当に良かったと。
「だから、どうして泣くのですか?」
「それくらい理解しなさい!!この馬鹿男が!!」
例え行き着く先が地獄でも、罷り間違った極楽浄土でも。
君と行くのならば悪くないと思えるこの不思議な感情。
「喜怒哀楽がはっきりして好ましい」
「そういう問題じゃないでしょう!!」
夜更けの手前の優しい闇に気付くほどの余裕はまだなく。
この先、死の世界までも共に歩むことなど知る由も無い。
「大体、ロマンチストならもっと何とかしたらどうですか!!」
「とりあえず、泣かれると困るのだが」
甘い香りも、宵闇も。彼女の前では霞に同じ。
だからこそロマンスよりもリアリストとして見れてしまう。
肌を重ねることも、接吻を交わすことも、それだけでは物足りないと感じてしまうから。
言葉で知ることのできる感情を欲しいと願わずにはいられない。
窓辺に立って手を繋ぐこと。
青と薄桃と黒の混ざった夕焼けを見つめること。
流れる行く水の音に耳を傾けること。
そして、誰かを理解しようとすること。
「もしも、互いに聖闘士でなかったとしても」
頬に触れる指先。
「君は私を見つけて、額にごみが付いてると言うでしょう?」
「……まだ憶えてたんですか……」
「そうやって私は君が私を見つけてくれるのを待っていたでしょうね、きっと」
逃げ出そうとした兄妹を逃がすために天を駆け抜けた金色の牡羊。
同じように彼女はどこか自己犠牲の気があった。
走りつかれてその足が折れるまで振り返ることも無い。
どこまでもどこまでも。
「でも、これはごみではありません」
「知ってますよ。そんなことくらい」
何度星が巡っても、離れることなく一緒に居よう。
このやさしいキスのように。
君の隣に立つ資格を奪われないように。
見守るように並んだ聖衣箱が二つ。
象られたのは牡羊座と乙女座。
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17:12 2007/03/08