◆羊の歌に神様の声を◆
ジャミールには普通の人間はまず来れない。
聖闘士でもたどり着けるものはそうは居ないだろう。
「ムウ様、お洗濯も掃除も終わったー!!」
「そうですか。では少し本を読んでください」
「えー!!オイラも聖衣の修復してみたいよ!!」
ちょこまかと自分の周りを飛び回る弟子に、女は穏やかに笑う。
「貴鬼、聖衣は何のために存在しますか?」
金槌を置いて静かに視線を合わせる。
彼女が貴鬼と同じころに師匠であるシオンはこの世を去った。
才覚は突如として目覚めるものではなく彼女の修行は過酷以外の何物でもなかった。
僅か二歳で聖域に連れて来られ始まった修行の日々。
念動力の開発と聖衣の修復。それに加えて黄金聖闘士になるための肉体的練磨。
泣かない日ははたしてあっただろうか?
「えーと、聖闘士の力を高めて強さを引き出すため……?」
「模範解答ですね。でも、それではいけません」
「うーん……」
教皇宮の一室に居を構えて彼女はひたすら修行に励んだ。
黄金聖闘士にさえなれればあの人はまた自分に笑いかけてくれると信じて。
「宿題です。少し考えてみなさい」
「はい……」
肩を落とす愛弟子の頭にそっと手を置く。
「それと、この間あなたが修復作業をした南の魚座は綺麗に出来てましたね。アフロディーテが
気に入ったといって欲しがってましたよ」
聖衣の墓場から引っ張り出した箱にはばらばらになった鎧が入っていた。
少年はあれこれと考えながらムウがしていたようにそれの形を復元させていたのだ。
日々見つめながらその一手一手を確実に。
「アフロディーテさんが?」
「ええ。もう少し埃を取ったら持って行ってあげなさい」
「はい!!」
花さえも咲かない枯れた大地に、女は小さな緑を植え付けた。
館の周りに結界を張り可憐な花と沙羅の樹木。
窓から見える風景が少しでも優しいものになるようにと。
この地に育つものが少しでも誇りに思えるようにと。
「それで、君は貴鬼に教える気はあるのかね?」
里帰りを終えて戻ってきた彼は袈裟に数珠姿。托鉢がこれほど似合わない男も居ないだろう。
バター茶を飲みながら庭先で聖衣を磨く姿に目を移す。
「ええ。基礎はマスターしてます。いずれは牡羊座を継がせようとも」
「ふむ。ならばなぜいつもそっけない態度で接するのだ?あれが小さい頃から君はそうだった」
「そっけない、ですか?」
腕に抱きつく愛弟子に淡々と説く姿。
「君は確かに早くに母君……いや、師匠と別れた。しかし、君はこれから時間はいくらでも
あるのだろう?もう少し情を掛けてやっても良いのではないか」
「あなたの口からそんな言葉が出るとは思いませんでしたね」
うれしげに笑う薄い唇。
聖戦も一時休戦、愛弟子は世界中を飛び回り立派に戦ってくれた。
青銅の少年たちは愛弟子と同じくらいの年から修行を始めた。
それを思えばここまで急速に育ってくれたのだ、少しは時間をとってもいいのかもしれない。
「では少し甘やかすために夕飯はなにか美味しい物を作りましょう。私は買い物にいって
くるので貴鬼を見ててください。それと、ものは壊さないように。貴鬼と一緒に悪戯も
厳禁です。もしやったら一週間クリスタルネットに縛ってサガに頼んで異次元行きですから」
言い終わるなり消えてしまう姿に男は首を振った。
弟子がかわいいあまりに師弟関係ではなく彼女は子育てになってしまう。
師匠としては本来はもう少し厳しさが必要だろう。
感情表現が余り上手ではない彼女なりの育成方法。
「さて、チャイでも作り直すか……」
カップを念力で浮かせてそのまま洗い場へ。
器用に別のカップと茶器を取り出してそのまま空中で作業を続けた。
「あ、シャカさんだ。おかえりなさい」
「ああ、君もどうだね?」
「チャイの匂いだ!!オイラ、シャカさんのチャイ大好き!!」
銀色の光を放つ魚を抱きながら貴鬼は青年の向かいに座った。
そこは彼の師匠のお気に入りの場所。
「ほう、ずいぶん綺麗に出来たものだ」
「魚座って二つあるんだね。アフロディーテさんにあげるんだ。喜んでくれるかなぁ?」
そっと昔を思い出す。彼女がこの年のころはもう聖域に赴いて自分と共に聖闘士として
最高峰の黄道十二に座していた。
程なくして起きた反乱により彼女はこの地へ身を寄せた。
黄金の鎧をまとうものは才能も必要だがそれ以上に努力が大切。
教皇シオンの愛弟子の少女は男でも逃げ出しそうな修行を黙々と耐えた。
「シャカさんはどうしてムウ様と一緒に居るの?」
唐突な問いに青年は首を傾げた。
気が付けば隣に居た理解者の存在。それはいつの間にか恋に変わった。
「大事な理解者とでも言おうか……全ての戦いを共に潜り抜けてきた。サガが私の数珠を
彼女に渡したのもそれがあったのかもしれないな。誰かと何かを共有することはそう容易な
事ではなく簡単に成し得られる物でもない」
「難しくてわかんないよ」
「好きって事さ」
至極簡単な答え。
憎しみに理由はあっても恋に理屈は必要はない。
「じゃあ、いつかムウ様はシャカさんとケッコンするの?」
それはいつかは考えなければならない問題のひとつだろう。
「まぁ、いずれはそうなるだろう」
「じゃあ、ムウ様とシャカさんに子供が生まれるの?」
「それも在り得る」
その言葉と共に大粒の涙がぼろぼろと貴鬼の瞳からこぼれだす。
「じゃあ、じゃあ……オイラ、ムウ様と一緒に居られなくなるの……っ……?」
ぎゅっと抱いた銀色の魚に涙が一粒零れて弾けた。
「どうしてそう思う?」
「ムウ様がオイラと一緒に居るのはオイラが小さいからだって……」
念力で取り寄せたハンカチを貴鬼の膝の上に落とす。
受け取ってえぐえぐと顔を拭いて少年は続けた。
「だから、赤ちゃんが生まれたらオイラよりも小さいから、ムウ様はオイラの事なんか
要らなくなっちゃうんでしょう?」
大方雑兵の誰かが余計なことを吹き込んだのだろうと彼は判断した。
この子供は普通の子供とはわけが違う。
テレポートと念力を使い、若干ではあるが聖衣の修復も出来る。
牡羊座の師匠である女の同時代と比べれば引けは取るが、それでも立派なものだろう。
「もしも、私とムウの間に子供が生まれたとしたら君は兄に当たることになるぞ」
あの日、彼女は嬉しそうに走ってきた。
小さな宝物を拾った、と。
腕に抱かれた赤子の姿に彼は無茶だと反対した。
それを押し切って彼女は子供を育て始めたのだ。
延々と眉間に皺を寄せる日々。聞けば名前を考えているという。
「一番最初のプレゼントです。素敵なものを考えませんか?一緒に」
命は尊ぶべきもの。捨てることなどどうして出来ようか。
「必死に子育てをしてきた結果だな。あれが聞いたらさぞ喜ぶだろう」
すい、と伸びた手がくしゃくしゃと髪を撫でる。
普段、彼は少年に触れることは殆ど無い。
遠めに見た彼の手はずいぶんと細いように思えたが、実際は無骨な青年の指だった。
静かに開く双眸に息を飲む。
凛とした光を称えた青と銀の混ざり合った瞳。
「君を育てながら君の未来を考えた。あれが君と同じ頃に母親と師匠を亡くしたからな。
一人にはさせないと聖域にもろくに戻らなくなった」
地上のために女神のために。本当の心は君のために。
「君はムウのことをどう思う?」
「オイラ、ムウ様のこと大好きだよ。ムウ様がお師匠様だからオイラがんばれたよ。
ちょっと怖いときもあるけども、ムウ様はとっても優しいし聖闘士で一番立派だと思うもん」
「ムウが君を一人にしたことはあったかね?」
時折留守番は命じられても孤独に思ったことは無かった。
それはどこかで繋がっているという安心感に他ならない。
そしてその名前は絆というもの。
「ううん…………」
「ならば、そんなムウが子供が生まれたくらいで君を捨てると思うか?」
「ううん」
彼はこんな風に静かに話すのだと少年は思った。
聖域に居る時は何者も寄せ付けない尊厳さと完膚なきまでの強さを誇る乙女座の黄金聖闘士。
神に最も近い男の字を持つのが彼なのだ。
「オイラ、ムウさまのことが大好きだもん」
だからこそこの恋は勝ち目が無い。
どれだけ背伸びをしても彼の背にも彼女の背にも届かないのだ。
月に憧れて手を伸ばしても触れることが出来ないように。
淡い恋は彼がそれを恋と自覚する前に消えてしまう。
「ずっと大好きだもん……」
「そうだな。ムウも私も君のことを同じように思っている」
「でも、オイラが大人になってもムウ様はシャカさんのほうが好きなんだ、きっと」
「そうかもしれんな。けれども種類は違っても君の事を好きだと言う気持ちは変わらないと思うが?」
気が付けばいつも自分の前に居た二人の背中。
青年がまだ少年だった頃から彼の背はこの小さな弟子の指定席だった。
世間から見れば子供が子供を育てているようにしか見えなかっただろう。
花も無いところでは気持ちも優しくなれない。
窓から見える景色を彩るためにあらゆる手を尽くした。
「オイラ、シャカさんのことも大好きだよ」
「奇遇だな。私も君のことは嫌いではない」
「オイラじゃシャカさんみたいに強くなれないのかな……ムウ様みたいに聖衣直せない
のかな……」
少年から大人に変わるための儀式はもうすぐ。
幼年期の終わりには涙は付き物だと彼は笑った。
「君が星矢たちぐらいの年になれば、もしかしたら聖闘士になってるかもしれないぞ」
「だってオイラの年にムウ様もシャカさんも黄金聖闘士になってたんでしょう?オイラ……」
「必要に迫られてだ。事実、私たちも子供だった」
幼い黄金製闘士たち。
もしかしたらあの日の出来事は若さゆえのことだったのかもしれない。
神の如くと謳われた少年は月齢十五、神に近いといわれる少年は僅か六つの頃。
何を判断し善悪を決められただろうか?
「ゆっくり育って、良い聖闘士になれば良い」
「でも、どうやったらいいか分かんないよ」
「そうだな……まずは少し泣き虫なところを何とかしたほうが良い」
穏やかに笑う唇。
彼がそんな風に笑うことを知っているのごく少数だろう。
その中の一人に少年は加わっていた。
「男の子だろう?簡単に泣いてはいけない」
「……うん……」
この人がどうして神に最も近いといわれるのかを。
それは天才であることよりももっと違うことのほうが深く関係しているように思える様な。
「聖衣は己の私欲に使ってはならない。それは人を守るためのものだ」
「強さを引き出すんじゃなくて?」
「強さを履き違えればそうなる。何のために強くなりたいのか、が大事だ」
慈悲などは持たないと彼は言う。弱者に対する慈悲は必要ないと。
悩んで苦しんで迷うものに対するする慈悲はそれとは違う。
そんな人に手を差し出せる強さ、それがきっと彼を神に近い男と言わせるのかもしれない。
「地上の平和と女神のために」
「難しいね……沙織お姉ちゃんのためなんでしょ?」
「表向きはな」
「?」
「本当の心は女神ではなく、差し詰め荒野に咲こうとする花のために、だな」
「お花?」
「君もよく知って毎日見ているはず。君があそこからこの部屋を見上げたときに、
今の君の席に座って君を見ている花があるだろう?」
「ムウ様のこと?」
「ああ」
本当の心はいつだって君のために。
笑顔でいるには努力と忍耐とそして、小さな幸せが必要だ。
「いつかそんな花が君にも咲くだろう」
記憶の一番奥にあるものは、幼い彼と彼女が自分をあやす姿。
「さて、泣き疲れた子供を寝かせるとするか」
今度はしっかりと腕に抱いて青年は扉を念力で開ける。
「帰ってたのか」
「ええ。途中から聞かせてもらいました」
「盗み聞きとは……些か感心できぬな」
少年の腕に抱かれた銀色の魚に女は目を細めた。
「宿題は出来たようですか?」
「ああ。追試は必要ないと思うがね」
神様と小さな羊は同じ声を聞く。
「何色の花なんですか?」
「何がだ」
「あなたが見ている花ですよ、シャカ」
風に一片舞う思いは何物にも代えられないだろう。
「今度あなたの聖衣が破損したときは貴鬼に修復させてみましょう」
「待て」
「おや?信用してないのですか?だめな父親ですね」
くすりくすりと笑う唇。
「おやつにホットケーキでも作ろうと思いまして。さ、手伝ってください」
あの日、迷える羊を見つけた少年。
「それと、たまには栄養のあるものを食べさせようかと思って色々と買い込んできました。
あと……子供服とかと反物も。一枚布があればあなたはどっかで袈裟を作ってもらうでしょうから」
硝子の小瓶には量り売りの蜂蜜を。
並べて並べて何を思おう。この灰色の空間を彩る花々。
「なぜ、色がこれなのだ」
鮮やかな春を通しこして常夏にでも届きそうなパッションオレンジ。
破天荒に華麗に鮮やかに。
「似合いますよ」
「そうか。ならそのうち作ってこよう」
「あまったら私も何か作ろうかと思います。たまにはおそろいも良いでしょう?」
「ふむ……ならばもう一反必要だろう」
視線を少しだけ下げて青年は笑った。
「そうですね。生地もたくさん使うくらい大きくなってくれました」
少年はやがて男になり、どんな恋をするのだろう。
荒地に咲いた花は種を遥かなる場所へ運ぶ風を見つけた。
「しばらくは私の貴鬼でいてくれるのでしょうかね、あの子は」
いつか巣立つとわかっていても、もう少しだけ傍において置きたい。
彼女の肩を抱き寄せて視線を合わせて。
「星矢たち位になるまでは君の傍にいるだろう。そのころ、君は牡羊座をあの子に
継がせるのかそれともあの子が違う道に行くのか」
前教皇であった女は甚く少年を溺愛している。
帝王学の欠片を教えながらのんびりとその未来を弁証していくように。
「違う道……ですか……」
いつか道を分かつとき、そのときに自分は笑っていられるだろうか。
「貴鬼が行きたい道を選ばせます。母が私にそうしたように」
彼女が自分の前で泣いたのはただ一度だけ。
あの日に起きた事実を受け止めた夜、ただ一度だけだった。
「ホットケーキを作ってあげないと。いっぱい食べてあっという間に私の背を越して
あなたの背も越えちゃうんですよ。それで牡羊座の聖衣なんかも似合っちゃうんです」
たっぷりの卵と甘いシロップ。子供には子供のおいしさ。
目覚めが幸せであるように出来る限りの愛情を込めて。
「夜もちょっと豪勢に。あなたはナンを作ってください」
「どうして私まで」
「貴鬼においしいものを食べさせたくないんですか。最低な父親ですね」
金色の瞳が男を捕らえて静かに光を称える。
「スターダストレボリュ……」
「待て。焼くから落ち着け」
唇をとっさに手で塞いで。
「……っは、いつもながら浪漫も何もあったものじゃない男ですね」
「どういうことだね?」
「手じゃなくて唇で塞いでみるとか。まあ、あなたはサガやデスマスクとは違う次元の
生命体で……」
不意に触れた唇に今度は目を閉じることさえ出来なくて。
離れては重なる度に深くなる接吻に彼の上着を掴んだ。
いつだって予測をしないことをする男。
だからこそ飽きることなく今まで一緒にこれたのかもしれない。
最大の理解者であり最もぶつかり合う存在。
「……貴鬼が育つころ、私は子供何人いるんでしょうね」
「さあ?今度、神仏と対話してみよう」
ばたなたとホットケーキを焼く二人の姿を覗く少年の姿。
「ムウ様おかえりなさいっ!!」
「貴鬼、ただいま。おやつができますからシャカを殴った後手を洗ってきなさい」
男の脇をすり抜けて少年の姿が消える。
階段も入り口もないこの館で生活をするにはそれなりの能力が必要だ。
当たり前に出来ることが普通では出来ないと気付くには、ここから離れたときだろう。
「見られましたかね」
「さぁ?神仏にでも聞いてみるかね?」
「意地悪な男ですね」
頬に触れる唇にこぼれる笑み。
「あー、シャカさんムウ様にキスしてる」
その言葉に男の手が少年を抱き上げる。
右と左。柔らかな頬に触れる二人の唇。
「オイラ、おとーさんもおかーさんも要らないよ。ムウ様とシャカさんがいてくれれば
それでいいよ。ううん、それがいい」
出来ることを懸命にすることでしか少年を育てることは出来なかった。
大それた事も立派な生方を示すことも出来なかったかもしれない。
それでも。
誰かを大事に思うこと、直向になることは伝わったと思ってもいいだろうか。
聖戦を少年は懸命に戦ってくれた。
「ムウ様?どうしたの?どこか痛いの?」
こぼれる涙を片手で隠して女は静かに首を振る。
上着の裾を掴んで心配そうに見上げてくる瞳。
「私は幸せです。こんなにいい子をもらいました」
涙が綺麗な物だと知ったのはきっとこのときだろう。
「おやつを食べたら、私に直した聖衣を見せなさい。貴鬼」
穏やかな光と大切な人。
ジャミールのこの日の風は青の香りだった。
銀色の魚は躍動を静かに模る。
それをじっくりと目定めて女は小さく頷いた。
「いいでしょう。双魚宮まで持っていってあげなさい」
「本当!!やったぁ!!」
聖衣箱にしまいこんでそれを背負う。ついでにと持たせた籠には所狭しと野苺が詰まっていた。
「それと、これはシュラに持っていってください」
「はーい!!」
手を振って館から飛び出す小さな姿。その瞬間に消えてしまうのは彼女の修行の賜物だ。
しかしまだ幼い少年には聖域までの長距離のテレポートは難しく途中途中で休憩を挟むこととなる。
「さて、追いかけますか」
ジャミールを出発して最初の休憩地点はインド。
ガンジス川のほとりで貴鬼は同い年くらいの子供と何やら楽しそうに笑っている。
「よう、チビ!!」
「一輝!!なにやってるの?こんなところで」
「暇つぶしだ。お前は……その荷物だと聖域か?」
「うん!!」
一輝の肩の辺りに座ってあれこれと話す姿。
別れ際に手渡された菓子類を口にしながら貴鬼は再び姿を消した。
死海でのんびりと一輝にもらった飴を舐めながら少年は一休み。
「アリエスさまの所の子供じゃないか。何をしている」
「あ!!アルゴル!!」
ペルセウス座の青年は帰郷と休暇を兼ねて散策していたところだった。
「盾は元気?」
「ああ。欠けたところを直して貰ったおかげでな」
くしゃくしゃと頭をなでる手に少年は嬉しそうに大きく笑った。
再び休憩を取ったのはフランス。
途中で連絡を入れたのか赤毛の女が少年を招きいれた。
「カーミュー!!」
「貴鬼、元気そうでよかった。ミロももう少しで帰ってくると思うから」
「おう!!たっだいま、カーミュー!!って、貴鬼じゃんか!!」
抱き上げて額をぶつける。これがこの二人の再会の挨拶。
「アフロディーテさんまで御遣いにいくんだよ、オイラ」
「今日の十二宮は手薄だぞ。デスもシュラの手伝いさせられてるし、リアは旦那と実家に
帰ってる。余裕で登れるから体力だけつけていけ」
差し出されたのは冷えたレモネードと焼きたてのアップルパイ。
勢い良くぱくついて咳き込む背中をなでる細い指。
「そんなに慌てなくても大丈夫だから」
「カミュもミロもしばらく帰ってこないの?」
「サガに休暇申請してきたんだ。暑さがましになったら二人で戻るぜ」
フランスから飛び出してようやく聖域にたどり着く寸断だ。
二人に見送られて貴鬼は目的地へと旅立った。
「保護者二人もお茶でも飲んでいかれては?」
カミュの声に二人の姿が現れる。
「ジャミールからずーっと着いてきてんのかよ。過保護だな、お前らも」
ミルクティーを飲みながら互いの近況を。
「さて、そろそろサガに連絡しますか。これだけ人が出払ってますからね、アフロディーテは
執務補佐に連行されてるでしょうから」
直接語りかけてくる声に男は顔を上げた。
(サガ、そこにアフロディーテが居ますね?)
書類に目を戻して男は静かに頷く。
(今日は聖域全体が空のようなものだ。さすがの私でも一人では厳しい)
(いえ、貴鬼に御遣いを頼んだんです。なので、双魚宮に居て貰いたいのです。できれば
あなたも一言労いをして貰えれば……)
手早に片付けながら向かいに座ってうんうんと唸る恋人に今度は視線を向けた。
二人で片付けたせいもあって普段の倍の量はこなせた。
そろそろ早めの帰宅を考えていたところに調度良い理由ができたと。
(わかった。早めに切り上げるとしよう。しかし、私もか?)
(ええ。現教皇であるあなたが褒めてくれればあの子ももっとがんばれると思うのです)
(了解した。遅くならないうちに帰らせるようにも勤めよう)
アフロディーテの手からペンを取り上げる。
「サガ?」
「ムウから連絡が入った。貴鬼が君に御遣いで来るらしい」
「おちびちゃんが?じゃあ、帰らないと」
「私も今日は帰るよ。おかげで明日はのんびりと休めそうだ」
連れ立って薔薇の階段を下りていく。
そのころ少年は磨羯宮でもう一つの頼まれごとを消化していた。
「ムウ様から、シュラさんにって」
ぎっしりと詰まった野苺に女は目を細めた。
「ジャミールのは美味しいんだよね、覚えててくれたんだ」
少年の頭をわしわしと撫でるのは銀髪の男。
赤い瞳がにんまりと笑って、籠を取り上げた。
「調理すんのは俺だろ。貸しな」
「デスのおじさん、なに作るの?」
「おい、俺はおじさんかよ。俺とシュラは同じ年だぞ、ゴラ」
同じ念動力を使う相手には気兼ねなく悪戯を仕掛けたい年頃。
首根っこを掴まれてる様を女は笑う。
「そうだ、貴鬼にいいものあげようか」
自室に戻って古びた本を一冊取り出す。
テラスで騒ぐ二人の前にシュラはそれを差し出した。
「お、それ訓練書だろ」
「そう。ムウとシャカが絶対に持ってない本だね」
格闘系ではない二人と己の体を武器にしてきた二人。基礎からの指南書はこの先少年に
たくさんの影響と希望を与えることとなる。
「ジャムとタルトだな。できたら白羊宮にもってってやるから帰って来いって言っとけ」
「うん。シュラさん、これもらって良いの?」
「わからないところは教えるからいつでもいおいで」
石段を駆け上がって最後の目的地、双魚宮へ。
薔薇の庭園はいつ見てもため息が出るような光景。
「こんにちは、貴鬼」
「アフロディーテさん!!」
手を伸ばす女に抱きつく姿。
「あのね!!オイラちゃんと聖衣直せたんだよ!!そうしたらね、ムウ様がアフロディーテさんに
もって行ってあげなさいって!!」
「本当?見せて」
取り上げられた銀色の魚の姿。
傷一つなく輝くそれはこの少年が作り上げたとは誰が信じようか。
「素敵……フォーマルハートだね」
「フォーマルハート?」
「南の魚座の星のお名前よ。ありがと、貴鬼」
少し屈んで少年のほほに軽くキスをする。
それだけでもぽぉっと赤くなる姿は彼も一端に男だということ。
「サガ、見て。こんなに素敵」
「良い出来だ。ムウは立派な後継者を持ったな」
普段ならば法衣は脱いでしまう彼は、少年のためにわざとそのままで待っていた。
教皇宮には滅多な事では入れない貴鬼にとって教皇のサガは遥かに遠い存在。
「本当?オイラ、ムウ様みたいになれるの?教皇様」
少年の目線に高さを合わせて。
泣き出しそうな瞳を見つめてその頬を両手で包む。
「ああ、きっと良い修復師になる。いずれは君が牡羊座を継ぐだろう、ムウと同じ様に」
「本当に?」
「嘘など吐く必要はないだろう?まっすぐないい瞳をしてる」
こぼれそうな涙を飲み込んで必死に耐える。
「泣きたいときは泣いたって良いんだよ」
「オイラ泣かないよ。男だから」
「そうか。良い教えだ」
「シャカさんに言われたんだ。男の子は簡単に泣いちゃ駄目って」
乙女座の青年はこの少年にしか見せない一面があるのだろう。
自分の少年時代に重ね合わせて男は静かに瞳を閉じた。
「そうか、じゃあ私も一つ教えよう」
懐かしい日々と罪の記憶。
決別をすることもまた勇気と知ったあの日。
「嬉しい時にも、涙は出るんだ。それは恥ずかしいことじゃない」
「本当に?」
「そうやってみんな強くなっていく。嘘じゃないよ」
吹き抜ける風にこぼれる涙。
「教皇様も嬉しい時、泣くの?」
「ああ」
「みんなそうやって大きくなるのよ。貴鬼、はいこれ、お土産」
篠籠の中に並ぶのはプディングやムース。
おそらく彼の師匠が作らない菓子類の数々。
「本当はお泊りとかだとうれしかったけども、ムウが心配しちゃうからね」
「ありがとう!!アフロディーテさん」
少年はゆっくりと階段を登る。
大人になるためにあせったり悩んだりしながらも。
ふと立ち止まったときに煌く思い出。
やさしいあの人の手の記憶。
「ムウ様ーーーーーっっ!!!!」
大きく手を振りながら駆けてくる姿を窓辺の席からのんびりと眺める。
「おかえりなさい、貴鬼」
「お土産もらったよ!!シャカさんと食べよっ!!」
「まずは手を洗ってからですよ」
「はーい!!」
太陽の通り道をなぞって。
少年はゆっくりと大人に変わり行く。