◆魚座の彼女◆
二つに編まれた巻き毛をゆらして、女は薔薇に水を注ぐ。
ここは十二宮最後を飾る双魚宮。
「アフロ……この薔薇少し減らせないのか……」
「白と赤とピンクと黄色しかないよ。サガ、どの色が嫌いなの?」
カップに注がれた紅茶に男は口を付ける。
そして、ふと先日の不幸な出来事を思い出した。
「アフロ……まさか、自家製……か?」
「うん。だって、凄い綺麗に咲いてくれたし」
「お前は俺を殺す気か!!デモンローズのローズティーはつくるなとあれ程いっただろうが!!」
男の言葉に女は首を傾げるばかり。
「お砂糖と、ミルクは入れてないよぉ?サガ、ストレートが好きっていつも言うから」
目元で笑う小さな痣。硝子玉の様な大きな瞳とふわふわの巻き毛。
育てた薔薇は宮をぐるり、と囲んで。
恋人の住む宮までの道を鮮やかに彩る。
「毎回俺は命がけで双魚宮に来てるんだぞ。大体お前が道を薔薇で塞ぐから……」
出されるケーキやスフレは彼女の手作り。
聖衣さえ纏わなければ普通の十七歳の少女。
「サガは、お花嫌い?」
「好きだけれども、デモンローズは好きじゃない」
幾分か耐性は付いたものの、まだこの香りには慣れてはいない。
「アフロは、サガのこと大好きだよ」
長い睫と小さな唇。見た目だけならば太刀打ちできる相手もそういないだろう。
魚座の聖闘士として、十二宮を守護する少女。
教皇の間へと続く最後の関門として侵入者を待ち受けるだけの力はある。
「サガも大変だよね。いつまで教皇やってるの?」
「いつまでって……そりゃ、それが俺の仕事だから……」
入れなおした紅茶と焼きたてのクッキー。
今度は安堵して男も口をつける。
少女を含めた黄金聖闘士は、サガ扮する教皇を守ることが勤め。
同期で入った山羊座のシュラ、蟹座のデスマスクを入れた三人だけは彼が教皇であることを知っている。
まだ幼さの残る後続組にはいずれ告げるからと男は言葉を濁らせて。
何も知らない振りをしながら、少女は彼に寄り添う。
「普通の薔薇もあるよ。この間シュラにも持っていったの。凄く喜んでくれてた」
「ああ、山羊座の……貧血酷いんだったな。大丈夫なのか?」
「うん。大分いいみたい。でも、デッスーがしつこいんだって」
つかみ所のない少女をしっかりとつかんだのはこの男。
双子座の聖闘士でもあるサガ。
「ね、ね。教皇って大変じゃない?アフロもたまに一緒に護衛とか行ってみたいなっ」
「だから俺は遊びで教皇をやってるわけじゃなくてな、一応、世界のためを思って……
お前だって聖闘士の試験で習っただろう?本来、俺たちはアテナをまもりこの世界のためにだな」
「アフロはサガを守ればいいの?女神を守ればいいの?」
その問いに今度は男が困り顔。
「……俺、で」
その言葉に少女はにこり、と笑うだけ。
「ところで、デッスーって……誰なんだ、アフロ」
編んでいた髪を解いて、風に泳がせる。
「デスマスク。だから、デッスー」
しみじみと、自分が妙な渾名を付けられる対象でなくてよかったと男はため息をつくばかり。
(蟹……とりあえず、あれだ、がんばれ……)
処女神アテナを守る聖闘士。
八十八ある星座の中で頂点に君臨するのが黄金聖闘士である十二人。
ところが、沸き起こった異常事態。
十二人中半が女子という歴史上初の珍事態が勃発してしまった。
幼いながらも終結した十二人の聖闘士。
すべての聖闘士を束ねるのが教皇の役目でもある。
(今期の黄金……男、俺と牛と蟹と乙女と蠍だけなんだよな……あ、弟……いっか、もう……
老師は、まぁ……枯れてるからなぁ……)
同じ双子座を守護する男、それがサガの双子の弟カノン。
『探さないでください』の置手紙とともに聖域を立ち去った。
(まぁ、散々アフロに殺されかけてるからな、あいつも)
中でも年長組になるのが蟹座のデスマスク、山羊座のシュラ、魚座のアフロディーテ。
「アフロ、サガはそーいう服着てるほうが好き」
「服って……シャツにカーゴパンツだぞ?」
「いつも服はなんか踏んじゃいそうなんだもん」
少女の指すいつもの服とはもちろん教皇の法衣の事。
光に眩い銀の髪も、普段はマスクの中に隠されて。
「俺も、聖衣着てるよりも普段着のアフロのほうが好きだよ」
「そぉ?嬉しいな」
花々を愛して育てる姿はよほどこの娘のほうが処女神に近いだろう。
初めて聖域に姿を見せたときに、その幼さにサガは唖然としたほどだった。
女神の名を持つ少女は、最後の難関として立ちはだかる。
もっとも、少女の守る双魚宮までたどり着いたものはいないのだが。
「サガ、疲れてるみたい。少し寝てく?それともアフロがそっちに行ったほうがいい?」
教皇としての日常を抜けて、男は双魚宮に来る。
花々に囲まれて喧騒から逃れるために。
罪悪感に苛まされる夜には誰かの暖かさがそばにあってほしい。
「泊まってく。この間アフロに来てもらったから」
六つ年下の恋人は、十二星座の中で最も穏やかなのかもしれない。
ただ、穏やかの方向がたまに明後日のほうに向かうだけで。
「本当?嬉しい」
抱きついてくる小さな身体を受け止めて、頬に当てられる唇に瞳を閉じる。
髪に残る甘い香り。双魚宮を包み込むこのやさしさ。
「久々に俺もゆっくりしていきたいし」
「サガの嫌な事、アフロが代われたら良いのにね」
本来は戦闘向きではない方だろう。
聖衣を纏うのは召集時のみ。
「お天気が良いって幸せなことだね。スターヒルにもお日様がちゃんと当たってるのかな?」
日に透けた金髪がゆらゆらら。
踊る日差しは春の少し手前。
魚座の聖衣を背負って現れたのは幼い少女。
齢十一で黄金聖闘士としてこの聖域に行くことを命じられた。
「えっと……ここが、聖域ってとこなのかな……」
緩やかな牧毛を結ぶリボン。先端に付いた小さな銀の飾り。
「君も、もしかして聖闘士?」
その声に少女は振り返る。
少し癖のある黒髪と端正な顔立ち。若干上がり気味の瞳がエキゾチックな少女。
「うん。魚座の聖衣をもらったの。アフロディーテっていうの」
「そう。私、山羊座の聖闘士のシュラ。ようこそ聖域へ。双魚宮まで案内するね」
シュラと名乗る少女は、一年ほど早くこの聖域にやってきた。
まざ守護人不在の宮が多い中、磨羯宮を守っている。
「魚座じゃ間に宝瓶宮があるね。水瓶座の子も女の子だと良いんだけども」
「シュラのほかにも、誰かいるの?」
階段を上りながら少女たちはあれこれとお喋り。
同年代の守護人が来たことは互いに嬉しいことだった。
「よぉ、どこ行くんだよシュラ」
「アフロディーテ、あれは気にしなくていいからね。単なる蟹だから」
「蟹扱いすんな!!」
「お前、守護星座は?」
「……蟹、です……」
少年の顔を見ながら、少女は首を傾げる。
「蟹さん?」
「デ、デスマスクって名前があるんですけど……」
「じゃあ、デッスー。アフロはシュラとあっち行かなきゃいけないから後でね」
この奇妙な三人が教皇を守る中核となる。
それは当の本人たちにもまだ、わからないことだった。
「アフロいる?」
ひょっこりと顔を出したのは山羊座の守護人のシュラ。
ほんのりと焼けた素肌と目尻にきらめく光の粉。
「これはこれは、教皇。こちらへお越しでしたか」
わざと恭しく礼をとる少女に、青年は笑うばかり。
「いや、ここにいるのは双子座の守護人だが?」
「それはそれは。我ら同じ黄金聖闘士ですか」
硝子の器に入ったのはスパイスの効いたマリネ。
守護人が留守のことの多い宝瓶宮をすり抜けて、やってくる。
「あー、シュラだー」
「遅くなってごめんね。はい、頼まれてたやつできたから」
「ありがと。ちょっと待って、アフロもできたの」
どうやら等価交換物々交換は当たり前なのか、慣れた手つきで品物を渡しあう。
「あと薔薇ありがとう。うちの宮じゃ野菜くらいしか育たなくって」
「土が違うのかなぁ。カミュも花は育たないって言ってるし」
水瓶座の守護人は、同期で入った蠍座の守護人の宮で一日の大半を過ごす。
下手をすれば何日も同衾も当たり前のことだ。
「サガ、子供たちが悪さしないようにちゃんと管理しておいてくださいね」
「子供たちって……ああ、あいつらね……」
目下、悩みの種は最凶二人がくっついてしまったこと。
乙女座の守護人であるシャカと牡羊座の守護人にし聖衣再生職人であるムウ。
(あの麻呂娘は……うん、師匠譲りの激悪な性格なんだよな……乙女座のシャカもどっか
電波入ってるし……)
一見まともに思える牡牛座の守護人は獅子座の守護人である少女とチェスをたしなむ。
山羊座の守護人を追い掛け回す蟹座の少年に鉄槌を下すのは遠く離れた中国に座する
天秤座の守護人の老師。
「じゃ、また明日ね」
「明日ねー」
少女二人は、時間が有ればどこかへ出かけもする。
それはこの窮屈な聖域でできる小さな楽しみでもあった。
「射手座の人って、どんな人だったのかなぁ……」
それ聞かれれば答えにくいと男は顔を少ししかめる。
「……いろんな意味で、濃いやつだったよ……」
「前の教皇も?」
「どうなんだろうなぁ。俺も自分のやったことが正しいかどうかたまに自信が無くなるよ」
前教皇はムウの師匠にして全時代を生き抜いた牡羊座の守護人だった。
史上初の女性教皇として聖域に光臨し、人々の信頼を一心に集める。
そのシオンが教皇として指名したのが射手座の守護人だったアイオロス。
サガとは同期に聖域に入った少女だった。
(ついねー……かっとなったっていうか……)
それでも教皇としての二重生活をこなしながら、サガもまた人望を集める。
ただ、今期の黄金組はいつもにまして個性的な者が集まりすぎただけで。
「サガは、みんなのためにがんばってると思うよ。それじゃだめ?」
時々思えることは。
魚座の守護人が彼女であって本当に良かったということだ。
「違うサガもいるけども、アフロはどっちのサガも大事」
「あっちのほうだと、俺あんまり記憶ないんだ。酷いことしてないか?」
「うん。サガはどっちも優しいよ」
コインの表と裏のように双子座の守護人は二つの顔を持つ。
「俺は、お前が魚座の守護人で本当によかったと思うよ」
スターヒルに聳える教皇の神殿に最も近いのがこの双魚宮。
苦しい夜にはすぐに会える。
神が罪深き自分に与えてくれたのは、女神の名を持つ少女。
彼の罪を知りながら彼に忠誠を誓う恋人もまた、同じ罪で縛られたもの。
「サガ」
重なる柔らかな唇。
触れるだけのキスは心を潤す魔法の薬。
「苦しそうな顔してた。アフロはサガのそばにずっといるよ」
女神アフロディーテは、息子と逸れてしまわぬ様に魚に化けその尾を互いに結んだという。
同じように彼女は彼の罪をどこかしら背負おうとしているのだ。
「お日様が隠れても、お星様が綺麗。サガ、アフロじゃ何もできない?」
どれだけ悔いても、過去は過去にしかならない。
贖罪の日々に光など無く、ただただ疲れていくだけ。
「今度、護衛の時にはアフロを連れて行って。ちゃんと仮面もつけるよ」
「そうだな……お前と一緒にでても良いかもな」
この罪さえも分け合おうという少女とならば。
この血塗られた聖域で生きていくのも悪くないと思わせられる。
「あ、サガ、あのね。あれとって、届かない」
「ん?どれだ?」
「こっち」
細い指先に絡む青年の無骨な指。
この手は誰かを守るために存在する。
「どれだ?」
「あれ。あの瓶」
穏やかな日差しと優しい匂い。
ここは双魚宮、魚座の恋人。
薔薇の匂い薫る小高い丘。
双魚宮へようこそ―――――――――。
BACK
22:10 2007/02/22