◆電気仕掛けの預言者◆
後悔だけの日々なんて必要ないでしょう?
贖罪だけの人生なんて味気ないでしょう?
あなたが生きているだけ救われる人が居ることに目を背けないで。
あなたがそこに居るだけで報われることを拒否しないで。
思い出すのはあの日。
彼女は最後に何を言ったのだろうと。
「サガ、どうしたの?疲れてるの?」
眠たげな目を擦りながら女は男の斜め後ろに。
少しだけ距離を置くのは彼女なりの気持ちの表し方。
「すまない、起こしてしまったか?」
「ううん。お月様が眩しかったから目が覚めちゃっただけ」
ふわふわと揺れる金色の髪。月光の下、織り上げられる糸のように輝く。
素足で石畳を歩く姿。
「サガは眠れないの?」
「……………………」
否定も肯定もしないときはそれは彼が曖昧な答えを求めるとき。
白にも黒にも属さない感情があってもいいのだと認めるまでにどれだけ過ちを繰り返しただろう。
隣に並んで男を見上げる翠の瞳。
「ここからは十二宮が全部見えるんだ。アフロのお気に入りの場所だけども」
ふわり。一輪の薔薇を手渡す。
傷付けないように棘など一つも無い。
「サガにも分けてあげるね」
「ああ…………すまない……」
そっと手を伸ばして彼の指先に絡ませる。
きゅっと手を握って同じ風景を見つめた。
石段は宮を繋ぎ太陽の並びに沿って上へと向かう。
季節が巡るようにそれぞれの宮には花々や樹木が植えられていた。
教皇宮から程近いこの双魚宮は薔薇園を称えて甘い芳香に包まれた優美なる場所。
疲れた体と心を癒すには整えられた環境だった。
「サガ、下まで行ってみようよ」
男の手を引いて、女は巻き毛を揺らして石段を降りていく。
満月に照られて伸びた影が二つ。
「アフロディーテ、靴を……」
「要らないよ」
静かに振り返る姿。
半歩分彼女は彼の前を歩く。
「サガも、要らないでしょ」
言われるままに裸足になって彼女に静かに手を引かれる。
素足で感じる石畳が蓄積した熱の暖かさ。
「おひさまの暖かさを吸ってるから冷たくないんだよ」
ひらら…とレースのストールを風に泳がせた。
ゆっくりと下って氷の宮へ。
少しだけ下がる体感温度。
「カミュが帰ってきてるんだね。ひんやりして気持ち」いい
「……………………」
少しだけ強く握られる指先。
言葉を紡ぎたくないのではなく何も言えないだけ。
無理に吐き出させる必要も無いことを彼女はよく知っていた。
石段を歩きながら星を見上げる。
冬の星座は春のそれに変わり夜空の終わりには夏の気配。
「シュラがね新しい樹を植えたの。ちゃんと育つか心配してた。水捌けが悪いんだって」
磨羯宮をすり抜けて人馬宮で足を止める。
ここは彼にとってもっとも胸を痛ませる場所だ。
「こんばんわ、アイオロス。通らせてね。サガとお散歩してるの」
無人の宮は音も無く風も無い。
ただそこに佇むに適した憂いの空間。
足取りが重くなるのを感じて、歩幅を狭くする。
「お月様がおいでって言うからたまにはいいかと思った」
振り返らずに彼女は囁く。
降り注ぐ月光は古びたオルゴールの音色に似たやさしさ。
「またね、アイオロス」
与えられるものを受け止めて踏み出すだけの勇気はまだ少し足りない。
後悔だけの日々をすごしてほしくは無いと願いながらも同じように臆病な魂。
月を頭上にして天蠍宮の主は誰かと夢の中。
乾いた石段をゆっくりゆっくり下っていく。
生暖かい風が素足に絡まる。
女神の意思を図る金の天秤を守護する宮に二百数十年主は戻らない。
はるかなる東国で余生とは名ばかりの人生を謳歌する。
「あ、花びら」
右手に舞い降りた沙羅双樹の花を受け止めて女は静かに笑った。
「珍しい。アフロディーテが降りてくるとは」
「こんばんは、シャカ」
俯いたままの男など居ないかのように、乙女座の青年は女の前に降り立つ。
「お月様に誘われたからお散歩してるの」
「ほう。面白いものを連れているようだが?」
「アフロが無理やりつきあわせてるの」
「裸足か。いいことだ」
「おひさまが暖めてくれてるから気持ち良いしね」
太陽も月も等しくその光を降り注ぐ、誰にも分け隔てることなく。
「シャカは白羊宮には行かないの?」
青年は静かに頷いた。
「今日は貴鬼が熱を出したのだ。神仏に祈りをささげようと思ってな」
じゃら…と声を上げる連数珠。袈裟ではなく僧衣を着ているのはそのためだった。
それぞれの守人が自分の意思で選んだ道を歩き始める。
その交差点で彼は一人罪に縛られて佇んでいるから。
隣でその手を握るくらいしかできなくてもともに居られるならばそれで構わない。
「神様はいるのかな?」
「君が信じれば君の中に。見えるものだけが全てでも力だけが強さではない。それは
君たちが最もよく知るところだと思うがね」
苦しくない生き方を選ぶことは罪ではない。
彼はそれを知っていても殉教に生きようとしてしまう。
「肩肘を張らずに生きることだな」
「そうだね」
この少しだけ暖かな指先は彼が生きている証。
俯かずに生きていけるようにと二人分の祈りを込める。
「じゃあね、シャカ」
寝静まった獅子宮。傍らに咲き始めた向日葵の亜種も夢の中へ。
太陽とともに顔を上げるのは主にどこかにて不思議な気持ちにさせた。
「サガ、足元気をつけてね」
巨蟹宮の小道を抜けていく後姿。
テラスから同じように月を見上げていた男が女を呼んだ。
「おい、珍しい二人が歩いてんぞ」
「サガとアフロじゃない。なんかサガが危なっかしい足取りだけども」
ワイングラスを置いて、男は女に視線を移した。
「呼ぶか。たまには四人で飲むのも悪くねぇだろ」
「じゃあ、軽いもの作ってて。私が呼んでくる」
そのままテラスから飛び降りてシュラが二つの影を追った。
双児宮への道のりを中ほどまで来たあたりで呼び止められる。
山羊座の女の声に振り返ったのは魚座の女。
「アフロ、サガ、たまには一緒に飲まない?美味しいシェリー酒あるんだ」
「お月様を見ながらサガとお散歩してたの」
「綺麗だよね……私も今あいつと見てたところ」
視線を移せば男がこちらを見ている。
月光を帯びた銀の髪。
「海に浮かぶ月が綺麗で……少し飲んでいきなよ」
闇と紺が溶け合った海面に映る月の美しさを肴にグラスを空ける。
届く潮風はどこか故郷を思わせる懐かしさ。
ここに来てからどれくらの時間が過ぎただろう。
「なんか予定でもあんのか?オメーら」
片手に皿を抱えて銀髪の男が笑う。
「今行く。サガ、行こう?」
返事がなくても構わなかった。
彼とこうして歩くことに意味があるから。
パーンの女神の後ろを笛の音に操られるように連れ立つ影が二つ。
壁面に映されてどこか神秘的。
「おう、たまには飲もうぜ」
グラスに注がれたシェリーの香り。満月の下で小さな酒宴。
「サガ、また欝悪化してんのか?あん?」
「あんたと違ってデリケートなんでしょ」
彼が十三年前に守ろうとした正義は果たして間違っていたのだろうか。
「悩みすぎるとはげるぞ。どーせまた愚弟が余計なことを言ったんだろうけどな。
ま、あれはあれでいいところもあるしな」
「カノンがまた何か皆に迷惑をかけたのか?」
「ああ、人ん家きて勝手に酒は飲むは食料は持ち去るは女に手ぇ出すわ……さすがは
自称悪の心しか持たなかった男だよな。全部やり返したからいーんだけどよ」
「……………………」
「そんなもんだってことだ。悩みすぎるとハゲできるから止めとけよ」
十三年間忠臣として常に離れることのなかった三人。
あのころの月と今夜のそれはどう違うのだろうか。
「あっという間だったね。最初に聖域に来たときなんかこれからどうなるんだろうって思ったし」
遥かなるあの日々は自分たちを仲間に変えた。
彼一人が罪人だと思うものなど誰も居ない。
「デス、この辺にあったエンシャント知らない?」
「愚弟が全部飲んだ」
「…………よし、殺す」
瞬時に聖衣を纏って女は眼下へと飛ぶ。
「手伝うよ、シュラ」
呼び寄せた魚座の聖衣に身を包みその後ろを金の巻き毛を揺らして追う姿。
「お前たちは私を憎んではいないのか?」
「何言ってんだよ。馬鹿騒ぎして散々遊んだだろ?なんでオメーを恨んだり憎んだりする必要が
あんだよ。俺たち四人楽しかったじゃねぇか。オメーじゃなかったら女神が育つまで平定なんて
保てなかっただろうよ。俺ら三人は女神じゃなくて今だってあんたの忠実な部下だぜ、教皇」
罪を消すことはできなけれども。
分け合って負担を減らすことはできるはずだと。
「いいじゃねぇか、また馬鹿騒ぎしようぜ。サガ」
月明かりはオルゴールに似ている。郷愁を呼び寄せ涙を誘う。
今宵静かに降り注いで。
「うめーだろ?シュラが実家から持ってきたんだ」
「ああ」
「愚弟もさ、楽しくやってこうぜ。俺らがまた組めばそれこそ世界征服なんてちょろいだろ?」
親指を立てて笑う男。
力さえないものは夢も語れない。
だからこそ三人は彼を信じて従うことができた。
誰よりも強い存在だったから。
「オメーが居たから聖域は崩壊せずになんとかなってたんだろ?腕は確かだ。だから女神も
教皇として指名したんだろうよ。でなきゃ、わざわざ十八で甦ったシオン先生にやらせりゃ
いい話だったんだしよ。直々に双子座のサガで、だったじゃねぇか」
「しかし私の罪は許されるものではない…………」
「嘆きの壁ぶち壊すときに、俺らはオメーが言わなきゃ乗らなかった。俺らはオメーだから従った」
何もわからない聖域で彼は確かに自分たちを守ってくれた。
それが間違いだったとは誰にも言わせない。
「ま、飲め飲め。たまにゃ俺たちに付き合え」
「ああ」
グラスをつき合わせて。
静かに紡がれる二、三の言葉たち。
「!!」
爆発音と上がる硝煙。眼を向ければ半壊の双児宮。
「修理費は愚弟の給料から引いてやってくれ」
「そのつもりだ」
教皇と聖域きっての問題児。
向かい合うには不思議な組み合わせかもしれない。
それでも十三年の時間は決して無駄ではなかった。
「どれ、ちょっと様子見てやっか」
テラスから身を乗り出して男は宮の方を見やった。
「おー!!シュラ!!愚弟は無事か?」
「生きてるよ。形は現存してる」
月光を浴びた金色の鎧が美しく輝く。
念力で双子座の青年を空中に浮かせて二人の女は静かに石段を登り行く。
「ただいまー、サガ、双児宮壊れちゃった」
「カノンの給料から引いておく。足りなければ遠征組に入れればよい」
気を失ったままの青年を椅子に座らせてグラスにシェリー酒を注ぐ。
二人の女は聖衣もそのままにグラスを受け取った。
「よし、飲み直しだ!!」
「ついでに色々貰って来たよ」
年代物のワインを数本並べて黒髪の女はにこり、と笑う。
「お酒と煙草だけは切らさないのは几帳面なのかなぁ……そのへん双子なのかなぁ……」
「今ではたった一人の肉親だからな、それでも」
「俺らだってオメーの家族だろうよ」
「……そうだな、私の大事な兄弟たちだ。私は幸せ者だな……」
心優しき獣の歌と踊るピカレスク。
「オラ、泣くなら飲め!!」
「ついでにカノンに髭描いておこうっと。シュラ、ペン貸して」
女の手からペンを受け取ったのは教皇の衣を纏う男。
「カノンに髭を描くときはこうって決まってるんだ」
それはまるで絵の中の猫のような立派な三本髭。
その姿にたまらずに三人は笑い出す。
「サガ、俺にもやらせろっ!!デコにジェミニマーク描いてやる!!」
「あ、私も頬に渦巻き描きたい!!」
完成された哀れな姿に堪え切れずにサガも笑い出す。
ずっとこうして四人で笑えたはず。
どうしてそれを忘れてしまっていたのだろう?
「んじゃ、一枚とっておくか。おし、全員寄れ!!」
カノンを中心にして念力で切られるシャッター音。
「ってか同じ顔してんだろうよ、サガ」
「いや、違うぞ。私はここまで間抜け面はしていない」
「区別つかねーよ」
「慣れればつく」
いつまでも派手に騒いでいこう。
手を鳴らして隣同士。
「ぜってー区別つかねぇって」
「黙れ蟹!!」
「誰が蟹だ!!二重人格が!!」
「それの何が悪い!!」
悪友だって親友には変わらない。
あの日からずっと一緒に歩いてきた一人と三人。
四人という言葉ではなく『仲間』として。
泣いて笑って時々落ち込んで。
だからこそ美しきこの人生と決め込んでグラスを空けた。
君と同じ日々をいつまでも賑やかに過ごせますように。
二度目の命をしっかりと生きるためにも。
「サガ、足元大丈夫?気をつけてね」
誰かのために生きていくのも悪くはないけれども。
それはどこか欺瞞と奢りに満ちているようだと彼は笑う。
「一度目は己の趣くままに生きたな……」
裸足で石段を登りながら、小さな幸せを確かめる。
戦いのなくなった日常はくすぐったさもあいまって不思議な感覚だった。
「二度目はどう生きていこうか」
「サガの好きなように生きていけばいいんじゃない?」
一生かけての大激闘はいつまでも終わらない。
心の隙間を受けるようにして落ちた恋かもしれない。
戦禍の中で生まれる愛情は錯覚を伴って激しく燃え上がる。
「死ぬまで勘違いを続けてみるか」
今度は彼が彼女の手を引く。
「勘違い?」
「戦いの中で生まれる恋は、往々にしてその場面に酔いしれる現象らしい。過酷で
どう抗うこともできない。そんな状況に耽溺するからこそ燃え上がる」
「……………………」
「もしも、私と君の間に生まれたこの気持ちがそうだとするならば」
ゆっくりと振り返る穏やかな表情。
月光が彼の顔に影を落としてこの上なく妖艶に仕立て上げる。
「死ぬまで勘違いを貫いて見せるさ」
「……………………」
「君も言っただろう?好きに生きればいいと。なら、死ぬまでそう思うのも悪くはないだろう?」
膝をついて女神にでも誓うかのように。
手をとってその甲にそっと唇を落とした。
昔聞いた御伽噺。絵本の中のプリンセス。
「ね、サガ」
柔らかな手が男の頬を包む。
「キスしてもいい?」
出会うために生まれてきたと信じよう。
君だけが間違いではないと。不安だらけなのは自分だけではないと。
存在することだけで救われる。
「目、閉じて」
「こうか?」
「うん」
重なる唇と風すらない無音の星空。
五月の空気は凛として夏へと続いていく。
「……不思議な気分だな」
「そうだね……」
「そういえば、君がまだここに来たばかりの頃だったな。何回か肩車をしたことがある」
思い出は必要ない。今こうして二人でいられることが大事だから。
引力も重力も味方につけて大地を歩くために。
「久々にやってみようか?」
「二十三にもなってるのに?」
「君は相変わらず小さくて軽いからな」
「んじゃ、お願いしてみる」
時計の針を戻すことはできないけれども。
新しく刻まれる時間を重ねてみることのできる未来への弁証法を確立する事はできるから。
「すごーい!!サガはこれくらいの高さで世界が見えるんだね!!」
「私よりも高い世界だ」
「遠くも見えるのかな?」
春に夏に秋に冬に。一足ずつの季節に何を思おう?
翠のきらめく五月の終わりに君が一つ先に行く。
「少し元気になれた?」
「ああ」
頭を抱くように回る細い腕。
この腕がこの先誰かを守ることだけに存在できるようにと祈りを。
「お誕生日にはみんな集めてお祝いしようね」
「物好きだな」
「違うよ、サガの事が好きだからだよ」
電気仕掛けの預言者はでたらめな言葉を繰り返す。
最後に呟いた小さな小さな声。
「汝、愛されるために生まれ来る」
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14:14 2007/05/28