◆月の下で逢いましょう◆
「またこんな所で居眠りして……」
窓際の暖かな場所が彼にとっての定位置。
神に最も近いと言われる彼も彼女の前では二十歳の一青年に戻る。
「風邪を……ああ、電波は風邪なんか反射しますねぇ」
煎れたてのチャイは二人分。彼の寝顔を茶菓子に決め込みムウは書物を開く。
ジャミールは訪れる者も少なく、聖域よりも落ち着けると二人はここに居を構えた。
彼女は愛弟子と聖衣の修復の日々に終われ、彼は瞑想に一日を費やす。
「こんな男が神に近いんですから神様なんてたかが知れてますね」
託された蓮数珠に涙は零さずに。彼の気持ちを抱いてかつての仲間を討ったあの日。
再び会ったのは身体が砕ける僅か前。
「面倒な相手に惚れました」
こうして二人で過ごせるなど思ってもいなかった。よく眠る彼を愛しいと思えるように。
「人の気持ち知らないで……さっさと自分だけ冥界行ってしまって……私がどんな思いでサガから数珠を受け取ったか……」
さよならさえも聞こえない。
誰よりもわかり会えている気がしていた。
気が付けばいつのまにかなんとなく何気なく傍にいる。
「そもそもはあの馬鹿兄弟の兄弟喧嘩が悪いんです」
二人で挫折して二人で成長して。
「君に悲しい思いをさせてしまったな」
ふいに重なった手にムウの瞳が瞬く。
「これからは君と貴鬼とゆっくりとしたいものだ。貴鬼もゆくゆくは牡羊座を受け継ぐだろうしな」
ジャミールの空よりも碧く澄んだ瞳。
あの聖戦など嘘だったかの様に穏やか過ぎる日常。
「やがて貴鬼にも恋人が出来て、君は眉間に皺を寄せる。ああ、ない眉にね」
ぎゅっと頬を抓る指先。
この細い指で戦いを駆け抜けて来た。
「君は母君に負けぬいい母になるだろう……ああ、貴鬼が帰ってくる」
「え?」
「聖域までお使いを頼んだんだ。女神がしばらく休みで滞在するようだからな。青銅の子供たちと」
「なんの為に」
「呼び出されないためさ。私も休暇がほしいんだ。君とじっくりと過ごすためのね」
彼女が修復しているのは彼の聖衣。
いつも後回しにしてしまうからとたまにはとこちらから申し出た。
直るまでの口実を付けて彼はこの地に滞在する。
「シャカさんただいまーっ!!あ!!ムウさまっ!!」
抱き着いてくる愛弟子を受け止めて柔らかな髪をそっと撫でる。
「女神は何と?」
抱えた小箱を貴鬼はムウに差し出す。
「女神さんからお土産!!手作りのシフォンケーキだって!!」
「女神も少女に戻ってますね。シャカ、いただきませんか?」
念動力で茶器を取り出してテーブルの上に。
刺繍の施されたクロスが柔らかな光を生み出す。
「ああ、そうだ貴鬼。もう一つ頼まれてくれないかい?」
「なに?シャカさん」
「このケーキの半分をシオン様の所に持って行ってくれないか?」
前教皇、牡羊座のシオンは貴鬼を孫の様だと可愛がる。
現牡羊座の聖闘士であるムウの列記とした最強の母親だ。
天秤座の童虎と隠居を決め込む前聖戦からの戦士。
「うん、いいよ。シオン様、童虎じーちゃんと一緒に天秤宮にいるし」
愛弟子を送り出してムウは再びシャカの対面に。
折角の団欒が遠ざかり溜め息が花になる。
シオンは今夜、貴鬼を帰すことはないだろう。
聖闘士になった暁には貴鬼を教皇とすべく帝王学を教授しはじめる有様だ。
まるでもう一度子育てを楽しむかのように。
「シオンは貴鬼を帰しませんよ」
「だろうな。母君はあれを溺愛している」
「私の貴鬼です。シオンのではありません」
ムウの言葉にシャカはくく、と笑うだけ。
「だから遣いにだしたんだ」
「?」
「君をもう一度口説こうかと思って。子供には見せられないだろう?」
一つ分の空間に二人で存在したいと願うことを罪というならば。
「見せられない口説き方をするんですか?」
その罪を糧として花を咲かせよう。
「引き出しの中にある下着に答えようかと思ってね」
「別に貴方の為じゃないですよ」
その言葉にシャカが眉を寄せる。
二度ばかり頭を振って。
「サガにでも見せるのか?」
「まさか」
「デスマスクか?それともカノンか?誰にせよ六道巡りをお見舞いしてやろうではないか」
彼がもう少しだけ彼女のことを深く思ってくれるように。
いつ来るともわからない恋人のために。
「物騒なヤキモチですね」
くすくすと唇は笑うだけ。
「ヤキモチ?」
「嫉妬ですよ。ああ、貴方でも嫉妬してくれるんですね。なんて楽しいんでしょう」
亜麻色の髪をかきあげて優美に笑う。
「絶世の美女に恋をすれば良かったのに」
「アフロディーテにはサガが似合いだ。西洋の女に興味はないものでね」
高山に咲く花はしたたかに誇りを持つ。
楚々とした美しさは彼女と同じに。
「まったく。何を考えているのやら」
「君をどうやって口説こうかと」
キスは二人きりであるほうが良い。君の瞳が閉じるまでを見つめていたいから。
触れるだけのキスからゆっくりと深く深く。
呼吸を分け合うように、噛み付くような接吻に変えて。
「この間、サガに聞かれたよ。面食いかと」
「…………あなたはなんと答えたんですか?」
頬を両手で包まれて視線が重なる。
「死んでも一緒にいらるる程には飽きないと」
「今度は一人で死になさい」
「顔も身体も飾りだろう?君は誰よりも美しいと思うが」
臆面なくそんなことを言うから。
「ば、馬鹿!!」
あの日、二人で光に溶けていったように。
「今度、君が意に沿わぬ死を遂げたら私がハーデスを直に殺す」
きっと彼に出来ないことなどないのだろう。
「……あなたの聖衣、直さないといけませんね」
困ったような笑顔が平和を証明する。
「ならば冥界に殴り込むのはその後にしよう」
「殴り込み?」
「君に暴行をした冥闘士を改めて葬りにいく」
「そんなことしなくていーんですよ、シャカ」
揺れるこの世界で二人でいられるならばそれ以上の望みはない。
この回りつつける嘘のような世界はまるで天球儀。
「さて、たまには貴方と二人で星でも見に行きますか」
手を繋いで館の屋根まで飛んで。
二人並んで春の星を見上げた。
闇蒼に瞬く星は何処までも綺麗でこの空間に飲み込まれて行くような錯覚さえ覚えて。
ただ、隣にいるだけなのに言いようのない幸福に包まれてしまう。
「美しいな」
「ええ。貴方でも星の美しさはわかるんですね」
「いや、君がだ」
真っすぐな瞳の色は硝子の碧。
「また、次の年も君と二人で君の生まれた日を祝いたいな」
触れる唇がやけに熱くて。
「ありがとう」
絡ませた指先が距離を縮める。
「では、戴くか」
覆いかぶさる青年の頭を木鎚が直撃する。
「〜〜〜〜〜〜〜ッッ!!」
「野外は嫌です。この生臭坊主が」
いつまでもいつまでも君と一緒。
どこまでもどこまでも離れられない。
「膝を借りる。たまには自分の星を見るのも悪くない」
身勝手でも君が隣いることがこんなにあたりまえで心強い。
「そういえば…………もし、私が先に死んだら君はどうしてくれるのだ?」
「ハーデスに遣いを出します。断られないようにアイオロス経由で」
「?」
「金輪際生まれ変わることのないように、と」
「ムウ!!」
「大丈夫です。貴鬼は私が立派に育てて次の牡羊座の聖闘士にします。あなたは草葉の陰で
見守っててくれれば十分です」
たとえすべてが嘘でもかまわない。君が僕を愛してくれる限り永遠に。
憎しみにとらわれることも、過去に縛られることも。
今度は自分の意志で残りの生を歩んでいけるように。
「嘘ですよ」
「……………………」
「アイオロス経由で乗り込んで、返してもらいます。冥界に居たら居たで迷惑になると
思いますからね。だったらまだ私一人に迷惑がかかるほうがましです。慣れてますから」
散々ないわれ様だとため息をつけば女は小さく笑うだけ。
「じゃあ、ほかの誰があなたの相手ができるんです?」
「うーむ…………」
「順にいきましょうか。アイオリアはいかがですか?」
地中海に咲く向日葵のようなその笑顔。
ゆれる金色の髪は夏をそのままに感じさせてくれる。
「知的な会話が楽しめん」
「……あなた、そのうちにライトニングプラズマ受けて死にますよ。じゃあ、シュラ」
黒髪が魅惑的な年上の女は、情熱的な赤がよく似合う。
その唇には甘い言葉と薔薇を添えて。
細身の身体は意識せずとも男を誘う。
「信ずる神が合わない。それに、どうもあの辺りの食事は……」
粗食を尊ぶ彼にとって、ヨーロッパの食事は聊か苦手分野。
教皇主催の晩餐会をどうやってやり過ごそうといつも頭を悩ませる。
「じゃあ、カミュ」
燃えるような赤い髪の女は、水と氷を自在に操る。
その唇ひとつで心まで凍らせることのできる深窓の令嬢。
「寒いところは苦手だ」
「そんな格好してるからです。素肌に袈裟なんて変態染みてます」
「………………………」
「じゃあ、アフロディーテ」
十二宮最後を守る絶世の美女は、すべての者を死という名の眠りに誘う。
揺れる金髪は星のように瞬いて瞼に最後に移る笑みの意味など知る間もなく。
「化粧が濃い」
「サガに殺されますよ。確実に」
「そうか?」
「じゃあ、誰だったらいいのです?」
彼のような性格を受け止めてその話を理解する人格者。
「アイオロス」
「ああ、そうですね。たしかにアイオロスならあなたと付き合える度量はありますね」
「けど、死んでる」
生者と死者の区別が最も厳しいのが彼の信じるところの神。
どれだけ人格者でも死者と関係を持ってはいけないのだ。
「では、シオンでは?」
「人格者だが妖怪だ」
「ええ、平気で二世紀半も生きましたからね」
女の柔らかな頬に、青年の指先が触れる。
「やっぱり、君しか居ないのだな」
「そういうことです。だからもっと私と貴鬼を大事にしなさい」
「そうだな。今度は自分のために時間を使えるんだ」
憎まれ口でも何でも、隣に君が居るからこその関係。
出逢ったあの日から始まっていたように。
この世界に偶然などなく、すべては必然。
君とであったこともすべて、すべて。
「全て春の夜の夢の如し……か……」
何度も離れても。
その度にまた君と出会おう。