◆更紗◆
「ねぇねぇ、お兄ちゃん誰っ?」
結い上げた髪のかわいらしい、幼げな少女が裾を掴む。
紫の色の瞳は上等な硝子。
丸く大きなそれは彼を捕らえてにっこりと笑う。
「おや、随分と可愛らしいお嬢さんだね。私は伯邑考と言う。お嬢さんは?」
優しく頭を撫でる手。
端正な顔立ちの青年は伯邑考と名乗った。
幽閉されている西伯侯の長男として、朝歌入りしたその人である。
「喜媚だよっ。お兄ちゃんはここに何しに来たの?」
「父上を返してもらうために。喜媚さんはどうしてここに?」
喜媚の目線にあわせて伯邑考はしゃがみ込む。
「喜媚ね、妲己姉さまとここで暮らしてるの」
その言葉に伯邑考はわずかに顔を顰めた。
皇后妲己は仙女と噂に聞く。
そして、蘇家に女は妲己ただ一人だけ。
その妲己の妹だとこの少女は告げたのだ。
「お兄ちゃんも姉さまに会いに来たの?」
「そうだね。喜媚さんの姉上様なら私の願いをかなえてくれるかもしれないね」
「姉さまね、三日くらい帰ってこないよっ。用事があるって出かけりっ」
羽衣をばさばさと振り、喜媚は伯邑考の周りをぴょんと飛び跳ねる。
(この子も仙人なのか?いや、しかしこのように幼い子が……)
ふわりと風に乗り、紅く染まった葉が一枚喜媚の頭の上にちょんと鎮座する。
それを取って彼は彼女の手にそっと握らせた。
「紂王のパパも出かけりっ。喜媚はお留守番で退屈せりっ」
「紂王陛下も御留守か……困ったものだな」
「お兄ちゃん、喜媚と遊ぼっ。二人なら楽しいよっ!」
ぺたぺたと小さな靴が鳴らす音。
伯邑考は仕方がないと小さく笑った。
結局、紂王の不在を理由にその日の面会は叶わず、当てられた部屋で伯邑考はため息をついた。
父である姫昌が幽閉されてから数年。
西岐で諸侯代理として政務を行ってはきたが所詮代理は代理と彼は結論付けていた。
父は朝歌へは決して来るなと残して西岐を出た。
(父上……命に従わぬ私をお許しください……)
祈るような気持ちで窓の外を見上げる。
赤く熟れた月。
腐った柘榴の様なそれはどろりとした光を注いでいる。
「お兄ちゃんっ!!起きてりっ?」
喜媚の声に我に返る。
「喜媚さん?こんな夜中にどうしました?」
「遊びに来たよっ!お兄ちゃん、喜媚と遊びっ!」
伯邑考に飛びついて喜媚はけらけらと笑う。
みたところ十代の初めの外見。
大きなリボンとひらひらとした西洋風の衣服がより一層幼さを強調していた。
「何してり?お兄ちゃん」
片手に四不象のぬいぐるみを抱いて、喜媚は伯邑考の顔を覗き込んだ。
ふわふわと揺れる毛先。
子供特有の柔らかさ。
「喜媚さんもこんな夜中にどうしました?もう、子供はお休みの時間ですよ?」
穏やかな声。
大きな手が喜媚の頭を撫でていく。
その感触にうっとりと目を閉じながら喜媚は呟く。
「喜媚、子供じゃないよ。貴人ちゃんよりも年上だよっ」
頬を膨らませて喜媚は彼を見上げる。
妲己のもう一人の義姉妹の『王貴人』は原型の石琵琶に戻り、あるところでそのときをひたすらに待つ。
妖怪仙人は永き年月と香気によって人型を取ることが出来るからだ。
「お友達ですか?喜媚さんの」
「妹だよ。喜媚の。貴人ちゃんはね、今ね、遠くに居るの。早く貴人ちゃんが戻ってくるといいのにな……」
少しだけ寂しげに瞳が潤む。
妲己ほどの思い入れはないものの、喜媚にとっても彼女は大事な妹なのだ。
たとえ外見が相反する姉妹であっても。
「お兄ちゃんも喜媚のこと、子供扱いしないで。喜媚、お兄ちゃんよりもずっとずっと永く生きてるよ」
「???」
「喜媚、仙人なんだよ。お兄ちゃん」
それを子供の戯言と位置付けた事は彼にとっての不幸だったのかもしれない。
その言葉を信じていれば、もしかしたらその運命は少しだけ違っていたのかもしれないのだから。
「ね、遊ぼ!喜媚ね、貴人ちゃんが居なくなってから毎日詰まんなかったんだ。妲己姉さまはいっつも忙しいし、
紂王のパパはなんか難しい本とか読んでるし、お城のおじさんたちは喜媚のこと馬鹿にするし」
拗ねたような口調は、寂しさの裏返し。
「じゃあ、少しだけ遊ぼうか。何をしよう、喜媚さん」
「んーっとね、お兄ちゃんのお話聞かせてっ!喜媚ね、色んなこと知りたいんだ。喜媚ね、頭良くないから
おじさんたちに子供扱いされるきがする。だから、いーーーっぱい色んなことを憶えておじさんたちを
吃驚させりっ!」
きらきらと大きな瞳は彼の眼を移す。
「そうですね。なら少しだけ……」
彼の言葉に耳を傾けながら、喜媚はうっとりと目を閉じる。
何千年と生きてきても、知らないこともあるのだ。
人の織り成す小さな愛憎劇。その合間にある細やかな甘さと残酷さ。
永き時を生きる彼女にとってはほんの瞬きするほどの時間を人間は生きる。
妲己のように深く人間に関与することのない喜媚にとっては伯邑考の話は物珍しく、興味深いものばかりだった。
その言葉の紡ぐ物語は何時しか彼女を眠りへと誘う。
終わる頃には小さな寝息が聞こえ始めていた。
(寝てしまった……やはり子供は子供だ……)
そっと髪を撫でて、寝台に横たえる。
まだ遠い夜明けを待ちながら伯邑考も目を閉じた。
「お兄ちゃん!おはよっ!!」
ゆさゆさと自分を揺さぶる手とその声にそっと目を開ける。
「喜媚さん……おはよう御座います」
「あのね!喜媚のことは喜媚でいいよ。お兄ちゃん」
「皇后の妹君を呼び捨てなど出来ませんよ」
不思議そうに喜媚は伯邑考の顔を覗く。
城の兵たちも自分のことを高位と見てくれることなどなかった。
同胞の仙人たちも妲己には礼をとるが彼女に対してはそれはない。
「ま、いっか。喜媚ね、お友達見つけたよっ。一緒に来っ!」
急いで着替えて、喜媚に手を引かれるままに庭先に出る。
「ほらっ!」
喜媚の指すほうには一羽の雉。
羽根は閉じたまま、水辺で足を休めている。
「喜媚もね、昔は真白な雉だったんだよ。それでね、色んなところを飛んでたの」
喜媚はそんなことをけらけらと笑いながら伯邑考に話すのだ。
空から見た人の世は色鮮やかで美しかったと。
「飛ぶことは自由じゃないよ。何時死んじゃうかわかんないから。でも、空はとっても綺麗だったよ」
遠くを見るように、紫の瞳はほんの少しだけ郷愁を帯びていた。
それは普段の彼女からは創造できないようなずっと大人びた顔。
自分よりも年上の淑女のような表情だった。
「あっ!!」
それはほんの一瞬の出来事だった。
門兵の槍で雉の首は飛ばされ、その周辺は赤黒く染まる。
「駄目だよっ!!」
駆け出して喜媚は兵士から鳥の身体を奪おうとする。
例え鳥であろうとも、国王の庭に入るものは処刑しなければならない。
それは定まられた法規であり、彼等はそれに忠実に行動しただけだった。
「やめて!喜媚のお友達っ!!」
「その鳥を返してあげて下さい。彼女は皇后の妹君ですよ」
伯邑考の言葉に兵はしぶしぶとそれを喜媚に渡す。
優美な羽根は赤く爛れ、首は薄皮一枚で繋がっている状態だった。
「この子、悪いことしてないよ。喜媚は、妲己姉さまみたいに頭が良くないからよくわかんないけど、
そうでしょう?人間はみんな勝手なんだ。喜媚たちの事なんか分かってくれない」
喜媚は腕の中の鳥を優しく抱きしめる。
妖怪も、動物も、人間から迫害されるとのは同じ事。
ましてかつての同胞のようなその鳥に加えられた行為は彼女の胸を鋭利に刺す。
妖精となり、仙人となっても大地の加護と香気は同じように生きるもの全てに平等に降り注ぐ。
まるで誰かの意思のように。
「そうですね……人間は勝手に殺し合い、大地を汚す。貴女の言うことが真理なのかもしれません」
泣きじゃくる喜媚の頭を撫でて伯邑考は天を仰ぐ。
(父上……このような子供ですら、世を憂いでます……私はどうしたらよいのですか?)
幽閉された父は人を見ることに長けていた。
「喜媚さん、この子を埋めてあげませんか?」
「埋めるの?」
「大地に還り、この子はやがて大きな樹を育てます。魂は天に昇り、身体は他の命を育てる……
この子は沢山の命に変わるんですよ」
溜まった涙を優しく指で払ってやると、赤い眼が見上げてくる。
「樹は、喜媚さんのことも見守ってくれます。寂しくはないでしょう?」
「うんっ!」
諭すような声。
それは今までの人間とは違った感触だった。
本来、妖怪は肉食であり人間はその食料として最適なものである。
喜媚とて例外ではなく、人を喰らって妖気を高め仙人となったのだから。
「おにいちゃん、喜媚にも優しいんだね」
「喜媚さんも、優しいですよ。友のために涙を流すのですから」
「お兄ちゃんみたいな人、初めて見たよ」
喜媚の手を取り、伯邑考は回廊を歩く。
木蓮の咲くその道は、噂に聞くものとは随分と違っていた。
非道なる皇后の住まうこの宮殿。
(一体何が真実だというのだ……?)
ただ、ただ、道は暗く伸びていた。
真夜中よりもほんの少し手前。
「お兄ちゃん、起きてり?」
四不象のぬいぐるみを手に喜媚がひょっこりと顔を出す。
寝台によじ登ると喜媚は伯邑考に抱きついた。
「お兄ちゃん。喜媚ね、色々考えたよ。妲己姉さまにね、、前に教えてもらったんだ」
「?」
ふいに喜媚の小さな唇が伯邑考のそれに触れる。
「き、喜媚さんっ!?」
「喜媚たちにはあんまり関係ないけども、人間はこういうことすると喜ぶって。紂王のパパもそうだったし。
だからね、喜媚ね、お兄ちゃんにもしてあげたいんだ」
子供の手が伯邑考の夜着を解く。
入り込んでくるその指先。動こうとしても体の自由が利かない。
(!?何故だ……!?)
ふわり、と羽衣からは甘い香り。
傾世元嬢の残り香が肺腑に染み込んでいく。
「お兄ちゃんは姉さまみたいなほうがいい?喜媚、何にでもなれるよ」
伯邑考の上に乗りながら喜媚は如意羽衣をぱさりと揺らした。
淡い霧が立ち込め、その中に見えたのは年の頃は二十歳ほどの女。
「喜媚がおっきくなるこんな顔になるんだよ」
「……喜媚さんは幾つになってもきっと喜媚さんですよ。もう、おやすみなさい」
「大丈夫だよ。喜媚、紂王のパパともしたことあるし、どうしたらいいか知ってるよ」
霧が晴れ、目の前には元の姿に戻った喜媚の顔。
にこにこと笑いながら指先が肌に触れる。
(陛下……なんというお戯れを……)
好色な紂王の噂は西岐にも伝わっていた。
蘇家の娘である妲己も紂王の命によって後宮入りしたのだから。
「喜媚ね、お兄ちゃんみたいな人間初めて見たよ。喜媚、お兄ちゃん大好き」
重なる唇に、入り込んでくる舌先。
頬に触れる手。小さな体が重なってくる。
膨らみ始めたばかりの胸。子供特有の曲線で構成された柔らかい四肢。
「お兄ちゃん、大好き」
耳を支配する言霊。
小さな指先が下穿きに掛かり、ゆっくりとそれに触れる。
ちゅぷ…唇が掠めて舌先がたどたどしく上下していく。
香炉の明かりだけの部屋にぴちゃぴちゃと殷音だけが響き、否が応でも耳の奥に沈む。
意思とは裏腹に、立ち上がったそれに喜媚は唇全体を使って舐め嬲る。
きゅっと目を瞑って舌を使う姿は、その手の趣味のものには珠玉の一品。
「……もう、いいかなっ……」
ほんのりと染まった頬と、火照った肌。
伯邑考の腹の上に乗ると喜媚は手を添えてゆっくりと腰を沈めていく。
「…あ……ぅ……」
手を取って自分の腰に回させて、喜媚は伯邑考を覗き込んだ。
「好きな人とするって姉さま言ってたよ。だから……喜媚はお兄ちゃんとしたいんだ」
小さな膝は微かに震えて。
その意思を汲むためか、羽衣の色香に浮かされたのか腰を抱く手に力が入る。
「あ!!ひ……あ!!」
ずい、と幼い子宮を押し上てくる感触に上ずる声。
しっとりとした皮膚が擦れ、切なげに首を振る姿。
根元まで体内に受け入れて喜媚はどうにかして笑おうと表情を作る。
「……喜媚、お兄ちゃん大好きだから、平気だよ……っ……」
それは運命の小さな悪戯だったのかもしれない。
ゆらゆらと揺らめく蝋燭の明かりのような不安定な思い。
『好き』それは神経を、脳を、脊髄を犯していく呪文。
ゆっくりと腰を上下させて、喜媚は伯邑考を飲み込んでいく。
「…んんっ!!!あ!ああっ!!」
甲高い声と、零れ落ちる汗。
言葉よりも饒舌な身体が二つ。
狭い内壁は意図せずとも男を締め上げてくる。
未完成の身体と、完成された精神。
「あ……喜媚……すご……っ……気持ち…い…!!……よぉ…!」
打ち付けられるたびに、震える腰。
貪るように接吻しあって、胸を重ねて。
そこに在ったはずの理性や倫理は捨て去った。
「あ!ひゃ……んっ!!」
ぬるぬると零れる体液が幼い腿を濡らしていく。
何度も何度も、押し上げられては引き寄せられその度に甘く鳴く声。
「ん!くぅ……!んっ!!」
ぐっと仰け反り、ぎゅっとしがみ付いてくる手。
「!!」
ばさりと伸びた真白の翼。
光の粉に包まれたそれから舞い落ちる白き羽。
喜媚の背から生えた一対の翼がぼんやりとした光を放つ。
(……まさか……本当なのか……?)
びくびくと痙攣する小さな身体を抱きながら、ぼんやりとした目で伯邑考は喜媚を見つめていた。
「あ!あああぁんっ!!!」
涙交じりの声が響いて、幼い胎は男の熱さをゆるゆると飲み込んでいた。
「妲己姉さまっ!!」
妲己が戻ってから数日、喜媚はいつものように四不象のぬいぐるみを手に回廊を歩いていた。
「あらん、喜媚」
「お兄ちゃん知らないっ?今日はね、あっちの池の方に行くんだっ」
「伯邑考ちゃん……どうかしらねぇ?ああ、喜媚はハンバーグは好きかしらん?」
唐突な問いに喜媚は少し考える。
「大好きっ!!」
「そう、良かった。今日のお昼はハンバーグよん。あっちで食べてらっしゃいねん」
来た道を戻る姿を妲己はじっと見つめる。
自分が居ない間にあったことは千里眼ですべて見ていた。
そして、喜媚の中に生まれた感情が自分たちには邪魔なものであるということも。
「いっただっきま〜っす!」
ぱくり、と一口食べて喜媚はそれが何かを瞬時に理解する。
「……お兄ちゃん……?」
大好きだった人の味はとても甘くて、涙が出た。
それは彼女が見せた最初で最後の涙だった。
「喜媚姉さま?どうかなさいました?」
欄干にちょこんと座って夕日を見つめる喜媚の隣に貴人が静かに立つ。
「ううん。ちょっと昔のことを思い出しただけだよっ」
ばさばさと如意羽衣をはためかせ、喜媚は回廊にたん、と降りる。
「珍しいですね。そういえば夕食はハンバーグだそうですよ。姉さま好きですものね」
「……喜媚、ハンバーグ好きじゃなくなったんだ。貴人ちゃん、お夕飯に行こっ!」
貴人の手を引きながら喜媚は回廊をぱたぱたを進んでいく。
(ハンバーグは好きじゃなくなったけど、お兄ちゃんのことは大好きだったよ)
大きな夕日は、昔大好きだった人と一緒に見たもの。
たった数日の思い。
それは甘い幻。
それでも、彼女の中に刻まれた小さな小さな恋。
重ねた思いは更紗の如く、ただ、在るがままに。
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